第8話 湯気
クレメンスが湯に入った翌日から、村の様子が少しだけ変わった。
斜面の下に立って眺めている人の数は相変わらずだったけれど、そのうちの何人かが、少しずつ上のほうまで上がってくるようになった。
上がってきても湯には近づかず、管理棟の前あたりで立ち止まって、こちらの様子をしばらく見てから帰っていく。
その距離が日ごとに三歩ずつくらい縮んでいくので、わたしは毎日それを目で測って楽しんでいた。
このままの調子でいけば、春になるころには誰かが湯の縁まで来る計算になる。
もっともグレタに言わせると、あれは近づいているのではなく、こちらが何をしでかすか見張っているのだそうだ。
「先生が入ったって、みんな言ってる」
ピナが得意そうに報告してくるので、あなたが言って回ったのねと聞いたら、当たり前でしょうという顔をされた。
「先生、百を二回入ったって」
「二回入ったわけじゃないでしょう。一度入って、百を二回数えただけよ」
「でも村ではそう言ってる」
どうやら村では、数えた回数のほうが入浴回数として広まっているらしい。
「だって、すごいもん」
噂というのは、こちらが思っているよりもずっと確実に、人から人へ渡っていくものらしかった。
ただ、噂が届いたからといって、百年信じてきたことがひっくり返るわけでもない。
上がってくる人はいても、湯に入る人はまだひとりも出ていなかった。
「二人目が要るのですよね」
朝から帳面を広げていたクレメンスに聞くと、彼は迷いなく頷いた。
「三人です。わたしを入れて、あと二人」
「ボリスは」
「ボリスさんは膝という条件があります。膝のない方でも同じことが起きるかどうかを見なければ、湯そのものの話にはなりません」
「膝のない方」
「膝が悪くない方、という意味です」
この人は正確に喋ろうとするあまり、たまに妙な言葉を作る。
そのあたりから、わたしは湯そのものよりも、二人目をどうやって作るかを考えるようになっていた。
説得しても、たぶん無駄だと思う。
入浴が身体に悪いというのは、この土地の人にとっては迷信ではなく常識で、常識というのは言葉で崩れるものではない。
だとすれば正面から崩す必要はなくて、入る理由のほうを、まったく別のところから持ってくればいい。
「オットー」
「はい」
「この土地で、いちばん困っていることは何かしら」
管理棟の卓で帳簿をつけていたオットーは、顔も上げずに答えた。
「冬です」
「冬」
「北の村の困りごとは、冬に集約されます。薪が足りない、食べ物が保たない、道が閉じる、身体が冷える」
彼は筆を置いてから、ようやくこちらを見た。
「そのうち、この湯治場が何かできるのは、最後の一つだけです」
身体が冷えるという言葉を聞いた瞬間に、わたしの頭の中ではまるで別のものが立ち上がっていた。
湯船に入るのは、この土地の人にとって越えるべき線の向こう側にある。
けれど、温まるだけなら、線はもっと手前にあるかもしれない。
「オットー。蒸し風呂って、この国にはないの」
「蒸し」
「湯に入らずに、湯気だけで温まるの」
オットーはしばらく黙ってから、聞いたことがありません、と言った。
「湯気を浴びるのですか」
「浴びるというより、湯気で満たした部屋に座るのよ」
「その部屋で、何をするのですか」
「座るだけ」
オットーが、この人にしては珍しく、はっきりと分からないという顔をした。
言葉で説明するのが難しかったので、わたしは作って見せることにした。
材料は使われていない小屋がひとつと、余っている板が数枚と、それから湯だった。
管理棟の横に建っている使われていない小屋は、屋根こそ落ちていないものの、隙間だらけで風がそのまま吹き抜ける。
ボリスに頼んで壁の隙間を板で塞いでもらい、床には石を並べ、そこへ樋を分岐させて湯を流し込む。
湯そのものを溜めるのではなく浅く流して、湯気だけを部屋の中に満たしてしまうという作りにする。
前世で入った蒸し風呂は石を焼いて水をかける形のものが多かったけれど、ここには最初から熱い湯が湧いているのだから、わざわざ石を焼く必要がない。
湯を流し続けるだけで湯気が出続けるというのは、考えてみればかなり贅沢な話だった。
「これで、あったかくなるの」
ピナが疑わしそうに聞いてきたけれど、わたしにも正直、この気温でどこまでいけるかは分からなかった。
最初の試しは、はっきり失敗だった。
壁の隙間は塞いだつもりだったのに、屋根と壁の境目から白い湯気がどんどん外へ抜けていって、部屋の中は外とほとんど変わらないまま、床の石だけが温かくなった。
「煙突みたい」
「煙じゃないわ」
「知ってる」
二度目は板を二重にして、扉のところに厚い布を垂らしてみた。
今度は湯気が溜まりすぎて、戸を開けた瞬間にこもった熱気が押し出され、覗き込んでいたピナが慌てて二歩下がった。
中へ入ったボリスもすぐに出てきて、短く言った。
「息が重い」
「駄目だわ、これ」
「駄目ですか」
「熱すぎるし、湯気の逃げ場がまったくないもの」
三度目は、天井に小さな穴をひとつ開けてみることにした。
最初は戸に近い側へ開けたのだけれど、そこだと入ってきた冷たい空気が湯気をそのまま押し返してしまう。
ボリスはしばらく室内の湯気の流れを眺めてから、戸とは反対側の天井近くを指さして、そちらへ開け直した。
湯気が少しずつ抜けていく道があるというだけで、部屋の中の空気は驚くほど落ち着いた。
四度目、五度目と直していったころには、腰を下ろして百を三回数えていられる部屋になっていた。
「入ってみて」
「わたしがですか」
「ピナは駄目。ボリスも今日は駄目。もう膝の記録があるから」
「グレタ」
「嫌な予感しかいたしません」
「服のままでいいから、中に座って湯気の抜け具合を見てもらえる」
「なぜ、わたくしが」
「わたしが入ったら、外から湯の流れを見る人がいなくなるでしょう」
それは事実だったので、グレタはずいぶん長く嫌そうな顔をしたあとで、確かめるだけならと言って扉の中へ消えた。
「服のまま入れるのですよね」
「入れるわ。濡れるけれど」
「それなら、まあ」
湯船に浸かるのは駄目でも、湯気の部屋で座っているだけなら大丈夫らしいということが、そのやりとりでよく分かった。
通念を丸ごとひっくり返さなくても、線の少し手前に別のものを置いてやれば、人はそこまでなら来られるということだった。
グレタが中にいるあいだ、扉の布の隙間から白いものがゆっくり漏れていた。
百を三回数え終えても出てこないので、さすがに心配になって声をかけようとしたところで、扉が開いた。
出てきたグレタは、髪も服も濡れていて、顔だけがやたらと赤かった。
「お嬢様」
「大丈夫」
「これは、いけません」
「どこか具合でも悪くなった」
「いいえ」
グレタはそこで一度、深く息を吸って吐いた。
「これは、いけないくらい良いものです」
言い方がおかしかったので笑いそうになったけれど、本人はいたって真剣だった。
あれほど毒だと言っていたはずのグレタが、湯気で満たした小屋から出てきて、開口一番いけないくらい良いと言う。
「先生。これも記録に入りますか」
わたしが聞くと、クレメンスは既に帳面を開いていた。
「入ります。ただし、湯に浸かる場合とは別の欄です」
「別なの」
「まったく別です。身体が受け取るものが違いますので」
その日から帳面には、湯と、湯気という二つの欄が並ぶようになった。
クレメンスは新しく引いた欄の線に定規を当てて、もう一度まっすぐに引き直していた。
夕方になって、斜面の下にいた人たちのうちのひとりが、はじめて管理棟の前まで上がってきた。
六十を超えているだろう男の人で、片方の手をずっと反対の肘に添えている。
ピナが小さな声で、あれはラルフのおじいちゃんだと教えてくれた。
男の人はしばらく湯気の上がっている小屋を見てから、わたしのほうではなく、クレメンスのほうを見て言った。
「先生。あれは、湯に入るのとは違うのかね」
「違います」
「どう違う」
クレメンスは帳面を膝の上へ置いて、ゆっくり答えた。
「まだ、分かりません。ですが、わたしは二度入りました」
一度目は昨日だけれど、二度目がいつだったのかを、わたしは聞かなかった。
男の人はしばらく何も言わないまま湯気を見ていて、それから、ずっと添えたままだった手を肘から離した。
「そこは、座るだけでいいのかね」
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