第7話 肩
同じですか、と聞かれて、わたしは正直に、たぶん違いますと答えた。
クレメンスは一つ目の水槽へ近づくと湯気の向こうの樋を見上げて、途中から板で蓋をしてある部分に視線を止めた。
「ボリスさんが最初に入られたあと、樋を変えておられますね」
「湯が冷えすぎていたので、蓋をつけました」
「それでは、比べられません」
最初の日は水槽へ届くまでにずいぶん熱を持っていかれていたし、いまは二つ目の水槽ができたぶん、一つ目のほうの湯の入れ替わりも速くなっている。
「だいたい同じくらい、では駄目ですか」
「駄目です」
クレメンスは即答してから、自分の言い方が強すぎたと思ったらしく、少しだけ声を落とした。
「条件が違えば、比べられません。同じ人が同じ湯に同じ時間だけ入って、それでどうなるかを見なければ、何も言えないのです」
わたしがまず引っかかったのは、声を落としたほうだった。
止めに来た人が、止める理屈を強く言いすぎたことのほうを気にしている。
何も言えない、という言い方が届いたのは、そのあとだった。
この人はまだ、湯が悪いとも良いとも言っていない。
言うために、ここから始めるつもりでいるらしい。
「では、測りましょう」
「測る」
「同じ温度かどうかを、どうにかして揃えるということです」
この土地に正確な温度計のようなものはないので、こちらにできるのは、測ることではなく条件のほうを固定してしまうことだけだった。
樋の蓋を外さないこと、湯を落とすのは日に一度と決めること、入る場所を一つ目の水槽のいちばん深いところに揃えること、そして入っている時間を数えること。
入っている時間を数える係は、手が空いているという理由だけでピナに割り振られることになった。
「なんで、わたし」
「ほかに手が空いている人がいないでしょう」
「数えるだけ?」
「ゆっくり百まで数えて、それを三回。声に出して」
ピナは最初の一回目から、途中で四十三を二度言った。
「いま、四十三が二つありました」
帳面から顔を上げたクレメンスがそう指摘すると、ピナは心の底から嫌そうな顔をした。
「細かいなあ」
「記録ですので」
その日から、湯気の立つ水槽のあたりには、ピナの数える声がやたらと律儀に響くようになった。
クレメンスは三日にいちど登ってきて、ボリスの膝を診て、その日の湯の様子と数えた回数を自分の帳面へ書き込んでいった。
書き込むときの手つきが丁寧すぎるので、はじめのうちわたしは、この人は湯を止めさせるための証拠を集めているのだと思っていた。
「悪くなった記録があれば、それを持って本院へ行けますものね」
「……そう見えますか」
「違うのですか」
クレメンスは帳面から顔を上げないまま、しばらく黙っていた。
「わたしは、悪くなってほしいわけではありません」
「でも、そのほうが先生は正しかったことになるでしょう」
「医療に携わる者が、患者の状態が悪くなることを望むわけがないでしょう」
その言い方には、悪くなってくれたほうが自分は楽なのに、という響きがわずかに混じっていた。
半月ほど経つと、帳面には数字が並びはじめた。
その半月のあいだにこちらがやっていたのは条件を揃えることばかりで、湯の種類を増やす作業のほうはほとんど進まなかった。
露天も蒸し風呂もまだ頭の中にあるだけで、実際に手をつけられているのは、樋の蓋を厚くすることと、二つ目の水槽の排水を直すことくらいのものだった。
条件を揃えるというのはつまり何も変えないということなので、作りたいものが山ほどある人間には、これがなかなかつらい。
ボリスの膝は、湯に入った日の夕方から翌朝までは明らかに曲がりがよく、二日空けると元へ戻る。
三日にいちどの入浴では足りず、二日にいちどならほぼ保たれる。
「これは、効いていると書いてよいのですか」
わたしが聞くと、クレメンスは帳面を閉じてから、いいえ、とはっきり首を横に振った。
「一人では駄目です。この方が特別なだけかもしれません」
「では、何人いれば」
「せめて三人」
「あと何回、記録を取れば足りますか」
「その質問に答えるために、記録を取っております」
かなり正しいことを言われたので、わたしはそこで黙っておいた。
ところが、その三人というのがどうしても集まらなかった。
村人は相変わらず斜面の下から眺めているだけだったし、ピナが何度か声をかけたけれど、誰も上がってこない。
「先生が入れって言えば、みんな入るのに」
ピナが何気なくそう言った瞬間に、帳面を繰っていたクレメンスの手が止まった。
「……わたしが言えば」
「言うでしょ。先生の言うことなら、みんな聞くもん」
クレメンスは帳面を繰る手を止めたまま、しばらくそのままでいた。
「ピナ。わたしが入れと言った湯で、誰かが倒れたら」
「倒れないよ」
「倒れたら、そのあとわたしが薬を飲めと言っても、村の人はもう飲みません」
ピナは口を開きかけて、そのまま閉じた。
わたしは、そのやりとりに口を挟まなかった。
クレメンスは長いあいだ黙ったあとで、帳面を鞄のいちばん奥へしまってから、水槽のほうへ歩いていった。
「ブルクハルト嬢」
「はい」
「わたしが入ります」
水槽の縁を拭いていたグレタが、持っていた布をそのまま落とした。
「先生、それは」
「三人が要るのなら、まず一人目はわたしがやるべきです」
彼はそう言ってから、自分に言い聞かせるように付け加えた。
「わたしが人に勧められないものを、人に試させるわけにはいきません」
止めるべきかどうかを、わたしは少しのあいだ本気で迷った。
この人は入浴が身体に悪いと本気で信じていて、それでも入ると言っている。
つまり、悪いと分かっているものへ自分から入ろうとしているわけで、それは検証というより覚悟に近い。
「やめてもいいのですよ」
「やめれば、次へ進めません」
止める言葉を探したけれど、出てくるのはどれも、この人が先に言ったことだった。
帳面も、条件が足りないという話も、三人要るという話も、こちらから言い出したものは一つもない。
「無理をなさらなくても」
「無理をしているつもりはありません」
それは嘘で、外套の留め具を外そうとしている手が、さっきからはっきり止まっていた。
「ピナ、数えて」
「百まで三回でしょ」
「今日は、まず一回で」
わたしがそう言うと、クレメンスは意外そうな顔をしてから、小さく頷いた。
脱いだ背中は、木を伐ってきたボリスのそれとはまるで違っていて、細く、日に焼けていない。
両方の手だけが、季節を通して水を使ってきた人の手だった。
わたしとグレタは水槽に背を向けて、ピナだけが縁に座ったまま数を数えはじめた。
いーち、にーい、さーん、と妙に間延びした声を出しながら、ピナは湯の縁に座って足をぶらぶらさせている。
三十を過ぎたあたりで後ろから水音が一度だけして、五十を過ぎるころには、もう何の音もしなくなっていた。
「先生、生きてる?」
「……生きています」
声はしていたけれど、それはさっきまでの、言葉を選んで話す人の声とは少し違っていた。
「どうですか」
わたしが背を向けたまま聞くと、返事までにずいぶん間があった。
「……熱くはありません」
「はい」
「毛穴は、たしかに開いております」
「そうでしょうね」
「開いておりますが」
そこで言葉が切れて、あとはピナの数える声だけが残った。
六十、七十、八十と、数だけが律儀に進んでいく。
「何も、入ってきません」
クレメンスの声は、自分でも予想していなかったことを口にした人のそれだった。
「悪い気が入ってくるのなら、何か感じるはずです。冷たいとか、重いとか、息が苦しいとか」
「ありませんか」
「ありません」
百まで数え終わったピナが、そこでいったん黙った。
湯の音がして、クレメンスが少し身体の位置を変えたのが分かった。
「肩が」
「はい」
「わたしは、自分の肩が凝っているということを、いままで知りませんでした」
人は自分の身体のうち、痛むところしか意識しない。
ずっと同じだけ重かったものは、軽くなったその瞬間まで、重かったことにすら気づけない。
その言い方があまりに真剣だったので、わたしは笑いそうになるのを本気で我慢しなければならなかった。
毎日鞄を提げて村を歩いて、患者の前で長いあいだ屈んで、夜は帳面を書く。
凝らないほうがどうかしている。
「……もう一度、数えていただけますか」
クレメンスがそう言った瞬間、ピナが勢いよくこちらを振り返った。
「先生が、もう一回って言った」
「聞こえたわ」
「先生が!」
「聞こえたから」
二回目の百を数え終わるころには、水音のほうがすっかり静かになっていた。
湯から上がったクレメンスは、身体を拭きながら、ずいぶん長いあいだ何も言わなかった。
言うべきことを探しているというより、いま自分の身体に起きたことを、どの言葉に当てはめればいいのかを探しているように見えた。
「これは」
「はい」
「これは、気持ちがいいですね」
彼が最初に言ったのは、効能でも所見でもなく、それだった。
「そうですね」
「非常に、気持ちがいい」
「はい」
「困りました」
湯気の向こうで、クレメンスは冗談でも何でもなく、本当に困った顔をしていた。
「医学書に、この項目がありません」
気持ちがいいから安全とはかぎらないし、気持ちがいいから病が治るわけでもない。
ただ、人がそれをどう感じるかということ自体を、この世界の医学は最初から検討の対象に入れていなかったらしい。
むしろ身体に悪いものほど心地よく感じるという教えのほうを、彼はきちんと習っている。
「わたしは、これを危険だと申し上げてきました」
「はい」
「そう申し上げた根拠は、二つです。毛穴が開くこと。そして、百年前にこの泉で人が死んでいること」
彼は自分の指を二本立ててから、一本目を折った。
「毛穴のほうは、今日、自分で確かめました。開きますが、何も起きません」
そして二本目を、折らずに残した。
「残っているのは、百年前です」
わたしはそこで、この人が最初からずっと同じことをしていたのだと気がついた。
止めに来た日も、帳面を書いていた半月も、今日湯へ入ったことも、全部、根拠がどこにあるのかを一つずつ確かめるという一本の作業でしかない。
だから、この人が転向したと呼ぶのは、たぶん少し違う。
向いている方向のほうは最初から同じままで、そこに置いてある事実のほうが入れ替わっただけだった。
湯気の向こうで、彼の顔がいつもの医師見習いのものに戻っていた。
「ブルクハルト嬢。お願いがございます」
「はい」
「百年前にここで何が起きたのか、その記録を、わたしに調べさせていただけませんか」
読んでくださりありがとうございます!
・本作を★★★★★で評価
・ブックマーク
この二つで応援していただけると、とても励みになります。




