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毒の泉しかない土地に追放されましたが、あれ温泉なので大歓迎です ~前世が温泉オタクの令嬢、辺境で湯屋を作ります~  作者: とんこつしょうゆ


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第6話 三日の期限

 ヨナスの姿が枯れ草の向こうへ消えてしまうと、グレタとピナがほとんど同時に喋りはじめた。


「湯を落とすんですか」


「落とさないよね」


 二つの声が重なったので、わたしはどちらにも答えないまま、湯気の立っているほうをしばらく眺めた。


 行きよりも悪くなっています、というクレメンスの声が、まだ耳に残っている。


 ただ、いまは三日のほうを考えなければならなかった。


 三日。


 樋を外して湯を落とすだけなら十分すぎる。


 それ以外のことをするには、短すぎる。


「お嬢様。まさか、逆らうおつもりでは」


「逆らわないわ」


「では」


「逆らわずに、落とさないの」


 グレタが心の底から嫌そうな顔をした。


 けれど、その場の思いつきで言っているわけではない。


 ヨナスは、自分に強制する権限がないことを最初にはっきり認めた。


 報告を上げるとしか言わなかった。


 湯そのものを罵りもしなかった。


 つまりあの人が困っているのは、三日後に報告書のどの欄へ何と書くのかということだ。


 そこへ書く内容を変えられれば、結論も変わるかもしれない。


 少なくとも、あの人ならこちらの言い分を読まずに捨てることはしないだろう。


 昨日までなら、教会へ出す書面の相手が誰だろうと同じだと思っていた。


 いまは少し違った。


 あの人なら読む。


 根拠は、今日ひとことふたこと交わしただけの手応えしかない。


 王都で水盤を割ったときにわたしを裁いたのも、誰かの怒りではなかった。


 その場でいちばん角の立たない収め方を探していた人たちの相談だった。


 ならば、今回も相談させればいい。


 問題は、こちらから何をどう書けばいいのかが、まるで分からないことだった。


 管理人として季節ごとに報告を上げよとは命じられている。


 けれど、その書式の見本を渡された覚えがない。


 管理棟の卓に紙を広げ、三度ほど書き直したところで、後ろから声がした。


「宛名が違います」


 振り返ると、村から来ていた男のひとりが、いつのまにか戸口に立ってこちらの手元を覗き込んでいた。


 三十代の半ばくらい。


 ほかの村人よりは丈の合った上着を着ていて、指先には古い墨の染みが残っている。


「領地管理局へ出す書面の宛名は、局長ではありません。担当は北方領地掛です」


「北方領地掛」


「局長宛で出せば、まず掛へ回されます。回された時点で受理の日付が変わりますので、期限を切られている書面では致命的です」


 彼はそこまで一息に言ってから、呼ばれてもいないのに口を出したことに自分で気づいたらしく、半歩ぶん後ろへ下がった。


「失礼いたしました」


「いえ。ほかにも間違っていますか」


「……よろしいのですか」


「間違っているのなら、聞きたいわ」


 男はもう一度こちらの紙を覗き込み、日付の書き方、副本を取っていないこと、それに件名がないことの三つを、指を折って数え上げた。


「オットーと申します。以前、王都で下級文官をしておりました」


 なぜその人がこんな村にいるのかについては、本人が言わなかったので、こちらからも聞かないでおいた。


 オットーに書式を直してもらいながら、わたしはこの人に聞くべきことを思いついた。


「この土地の使い方について、王都に判断してもらいたいときは、どう書けばいいのかしら」


「季節報告では弱いですね」


「弱いの」


「報告というのは経過を知らせるための文書です。判断を求めるのであれば、照会を立てるべきです」


 オットーは断りもなく椅子を引き、紙の余白へ指を置いた。


「表題は季節報告ではなく、管理地利用に関する照会。宛先は領地管理局の北方領地掛」


「湯治場として使っていいかどうかを、正面から聞くということ」


「そうです。そして照会は、受理された時点で相談ではなく申請になります」


「困りますか」


「困るのは、受け取った側です」


 申請というものは、受理してしまった以上、どこかが判断しなければならなくなる。


 本文に書く内容についても、オットーは一つずつ線を引いていった。


 管理義務の内容。


 柵の維持状況。


 泉に異常がないこと。


 湯を水槽へ引いていること。


 そして、実際に人が入ったこと。


「ボリスの膝のことも書きますか」


「事実としてなら」


「効いた、と書くのは」


「駄目です」


 そこだけは考える間もなく即答だった。


「それでは、医学的な効果を管理人が断定した文書になってしまいます。利用後、本人より痛みが軽くなった旨の申告あり、までです」


 かなり細かい。


 でも、その細かさはこちらにとって都合がよかった。


 わたしは湯が効くと主張したいのではない。


 判断してください、と言いたいだけなのだから、断定しないほうがむしろ話が通る。


「教会から止めるよう言われたことも、書きますか」


「必ず。隠すほうが不利になります」


 教会が停止を求めているという事実をこちらから書いておけば、王都はそれを知ったうえで判断する。


 逆に伏せて後から発覚すれば、申請そのものが疑われるし、次に何を書いても信用されなくなる。


 管轄が二つに分かれている状況そのものを、隠さず机の上へ載せる。


 そうすれば、どちらか一方が勝手に最終判断を下せる話ではなくなる。


 そして北方領地掛には、封印された泉を利用してよいかどうかを単独で決める権限がない。


「掛はまず教会へ照会します。教会は本院で協議いたします。協議が終わるまで、この件は係属中という扱いになります」


「係属中のあいだは」


「どちらの側も、勝手に処分できません」


 そこでようやく、探していたものの形が見えた。


 湯を守るための新しい理屈ではない。


 誰も結論を出せない状態そのものだ。


 教会が封印を持ち出すなら、こちらは封印を否定しない。


 否定しないまま、判断を王都へ預ける。


 それでいい。


 オットーはそこから、書面が通るために満たさなければならない条件を、こちらが頼んでもいないのに数え上げていった。


 件名は用件を一行で言い切ること。


 日付は受理する側の暦に合わせること。


 副本は必ず一部取って手元に残すこと。


 本文には結論を先に書き、理由を後ろへ回すこと。


「理由が先に来る書面は、読まれません」


「読まれないの」


「掛の人間は一日に四十通ほど処理します。三行目までに用件がなければ、後回しの束へ入ります」


 王都というところは、そういう場所だったなと思い出した。


「これは、時間を稼ぐためだけの書類です」


「そうよ」


「正直に申し上げますが、いずれ結論は出ます」


「いずれでいいの」


 そのいずれがどれくらい先になるのかを、オットーはまた指を折って数えた。


 書面が王都へ着くまでに十日。


 掛が受理して教会へ照会するのに半月。


 本院の協議が季節ごとの会議に乗るとすれば、早くても春先。


「原本を一通、副本を二通お作りください」


「三通も」


「一通は管理局へ、一通は手元に保管、最後の一通は教会へ提示するためです」


「神官様にお渡しするの」


「渡しません。見せるだけです」


 わたしが言葉を選び損ねたところを、オットーはわざわざ言い直した。


「受理される前の文書を配ってしまうと、内容が別の経路で動きます。手元に持っておいて、照会中であることを示すために使ってください」


 春先まで湯を落とさなくていい。


 わたしにはどうしても朗報としか聞こえなかった。


「オットー」


「はい」


「あなた、うちで働かない」


「……いま、なんと」


「湯温と燃料費も数えてほしいのだけれど」


 本人がまだ何ひとつ答えていないうちから、わたしはもう、この人に何を任せるかを頭の中で割り振りはじめていた。


 二つ目の水槽が仕上がったのは、ちょうど三日目の朝だった。


 一つ目は樋から直に湯を受けているので、いちばん熱い。


 そこから溢れた湯を石の溝で長く回して二つ目へ落とすと、外気に触れているぶん自然に温度が下がる。


 熱いほうにしばらく浸かってから、ぬるいほうへ移る。


 そうすれば身体の芯だけ温まったまま長く入っていられる。


 そのために二つ作ったようなものだった。


 ボリスは仕上げに縁の欠けたところを石で埋めながら、これを三日後に落とすことになるかもしれない、という話を一度もしなかった。


 ピナは、落とすの、落とさないの、と三度くらい聞いてきたので、そのたびに落とさないと答えておいた。


 グレタは何も聞かず、まだ湯の入っていない二つ目の水槽の縁を布で丁寧に拭いていた。


 昼過ぎに二つ目へ湯を通してみると、狙っていたより二段ほどぬるかったので、溝を短く取り直した。


 直したあとの湯へ手首まで沈める。


 これなら半刻は入っていられる。


「入れるわ、これ」


「三日目でございますが」


「三日目でも湯は湯でしょう」


 グレタは何か言いかけ、結局、拭いていた縁をもう一度拭き直しただけだった。


 毒の水だと言い続けていた人が、落とすことになるかもしれない湯船をわざわざ磨いている。


 なかなかいい眺めだった。


 ヨナスは三日目の昼過ぎ、前と同じ道を登ってきた。


 湯気は前より濃い。


 水槽は一つ増えている。


 斜面を登り切った時点で、こちらの返事は全部伝わったはずだった。


 ヨナスは二つの水槽を見た。


 それから、わたしを見た。


「落としておられませんね」


「はい」


「増えておりますが」


「はい」


 怒るでもなく、呆れるでもない。


 ただ、次に何を言うべきか頭の中で組み立てている顔だった。


 三日前と同じ顔だ。


 そのことに、少し安心した。


 わたしは彼が口を開く前に、オットーが清書してくれた書面を差し出した。


「これは」


「領地管理局の北方領地掛へ出す、管理地利用に関する照会です」


 ヨナスは片手で受け取ると、その場に立ったまま読みはじめた。


 紙の上を追う目が意外に速い。


 途中で一度だけ顔を上げ、こちらを見る。


「利用再開の申請を、出されるのですか」


「出します。今日の便で」


「……こちらへ相談もなく」


「相談したら、止めるとおっしゃったでしょう」


「そのとおりです」


 返事が早かった。


 こちらも次の言葉を考えずに済む。


 まただ。


 この人とは、妙に話が早い。


 考え方が同じわけではない。


 むしろ結論は反対なのに、どこで話が食い違っているのかを互いに分かったまま会話が進む。


 王都では、同じ側にいる人間同士でさえもっと遠回りをした。


 この件が係属中になれば、教会も単独では処分できなくなる。


 そしてヨナスは、本院への報告に王都の判断を待っているところだと書ける。


 そこまで理解するのに、彼はたいして時間をかけなかった。


「……わたしを、楽にしようとしておられますか」


「いいえ。わたしが楽になりたいだけです」


 本当のことだった。


 ただ、言ったあとで、少し言葉が足りなかったような気もした。


 ヨナスはしばらく黙ってから、書面をきちんと折り直してこちらへ返した。


 紙の端と端まで揃えている。


 こういうところまで几帳面な人らしい。


「この書類をお作りになったのは、ブルクハルト嬢おひとりですか」


 声の調子が、ほんの少し変わった。


「途中からオットーが」


 少し離れたところで紙束を抱えていた本人が、呼ばれてもいないのに口を挟んだ。


「第三頁の二項目目だけは、ブルクハルト嬢の原文です」


「そこだけ」


「そこだけです」


 ヨナスは一瞬だけ言葉に詰まった。


 それまでずっと張り詰めた顔をしていたグレタが、とうとう耐えきれずに横を向く。


 わたしのほうは、第三頁の二項目目が何だったのか、まるで思い出せなかった。


「何か、おかしなことを書きましたか」


「いえ」


 ヨナスは書面をもう一度見た。


「むしろ逆です」


「逆」


「……よく整理されています」


 それだけ言うと、すぐに紙を閉じた。


 褒められたということなのだろうか。


 神官に書類を褒められるという経験がなかったので、どう返すのが正しいのか分からない。


「ありがとうございます」


 とりあえずそう答えると、ヨナスは一度だけ目を伏せた。


 こちらまで少し落ち着かない。


 三日前にはなかった種類の間だった。


 先に話を戻したのはヨナスだった。


「三日前の要請は、取り下げません」


「はい」


「ただ、本院への報告には、王都の判断を待つ旨を添えて出します」


 要請と警告のあいだに、もう一枚だけ紙を挟んだという意味でしかない。


 湯を落とせという話が消えたわけではないし、春先に協議が終われば、そこで結論が出る。


 それでも冬のあいだ湯を落とさずに済む。


 こちらにとっては十分すぎる収穫だった。


「ブルクハルト嬢。最後に一つ、お伝えしておきます」


 ヨナスは帰りかけ、そこで一度足を止めた。


「あなたが書かれたのは、湯治場としての利用を再開したいという申請です」


「はい」


「利用と書いた以上、いずれ誰が入るのかを問われます。そのときに、入っているのが木こりひとりでは通りません」


 なるほど。


 その指摘は正しい。


 しかもこの人は、三日前の要請を取り下げないと言った直後に、こちらの申請を通すなら次に何が必要になるかを教えている。


「神官様」


「はい」


「それは、わたしに教えてよかったのですか」


 ヨナスは少しだけ黙った。


「事実を申し上げただけです」


「そうですか」


「はい」


 こちらもそれ以上は言わなかった。


 でも、たぶんこの人は、自分が何をしたのか分かっている。


 分かっていて教えた。


 敵なのか味方なのかと聞かれれば、まだ敵側なのだろう。


 けれど、三日前より少しだけ分からなくなった。


 ヨナスが帰ったあとも、湯気の立つ水槽のそばにはクレメンスが残っていた。


 村を回った帰りに寄ったのだと言っていたけれど、この三日のあいだに彼がここへ来るのは、これで三度目だった。


「ボリスの膝は」


「三日前と同じです。悪くなってはおりません」


「良くもなっていない、と書きたいところですが」


 クレメンスはそこで言葉を切り、湯気の向こうを長いあいだ見ていた。


 一度目は悪化を確かめに来たのだろう。


 二度目と三度目は、悪化していないことのほうを確かめに来たのだと思う。


「ブルクハルト嬢」


「はい」


「ひとつ、伺ってもよろしいですか」


 彼は鞄の紐を握り直してから、こちらではなく湯のほうを見たまま言った。


「ボリスさんが最初に入ったときと、今日とでは、湯の温度は同じですか」

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