第5話 封印の管理者
黒い外套の人影が斜面を登り切るまでには、思っていたよりずっと時間がかかった。
道はぬかるんでいたし、ここまでの登りは村の人でも息が上がる程度にはきついので、そういうものだろうとわたしは思っていた。
隣に立っているクレメンスが鞄の紐を握り直したことに気づいたのは、その人影が管理棟の前まで来たときだった。
「神官様だ」
ピナがそう言って、なぜかわたしの後ろへ半分ほど隠れた。
斜面を登り切ったところで足を止めたその人は、黒い外套の下に神官の衣を着ていた。
こちらが想像していたより、ずいぶん若い。
二十代の後半くらいだろうか。
もっと年嵩の、百年前から同じ決まりを守っていそうな人を勝手に想像していたので、少し意外だった。
頭を下げる仕草にも声の出し方にも、権威を使い慣れた人間の癖のようなものがまるでない。
「ブルクハルト嬢でいらっしゃいますか」
「はい」
「ヨナスと申します。この泉の封印を預かっております」
わたしは失礼にならない程度に、この人を上から下まで眺めた。
外套の裾には泥が跳ねていた。
靴はよく履き込まれている。
この道を歩いてきたのが今日が初めてではないことくらいは分かる。
立っている姿勢だけは妙にきれいで、背筋の伸ばし方に、そうするよう長く言われ続けてきた人特有のかたさがあった。
王都の夜会でも、これと似た立ち方をする人を何人か見たことがある。
ただし夜会にいた人たちは、その姿勢を保っていることを少しも苦にしていないように見えた。
ヨナスは名乗ったあと、すぐには本題へ入らなかった。
まず自分の立場を説明しておきたいと言って、いくつかのことを順番に並べていく。
ヴェルテの泉の封印を預かるようになったのはこの秋からで、前任の神官が高齢を理由に務めを退いたため、引き継ぎを受けてからまだ三か月も経っていないこと。
年に四度、春と夏と秋、それに雪の深くなる前の冬に一度ずつ祈祷のため登ってきて、そのつど本院へ書面で報告を上げていること。
「本来であれば、次に参りますのは今月の末でした」
「早められたのですか」
「村から急ぎの知らせが届きましたので」
誰が知らせたのかというところまでは、こちらから聞かないでおいた。
斜面の上には今日も何人か立ってこちらを見ているのだから、噂が半日先の教会まで届くこと自体は、別に不思議でもない。
「本院というのは、どちらに」
「町の教会です。ここから歩いて半日ほどの」
「半日」
「はい」
わたしはその半日という言葉を、頭の中で距離に置き換えてみた。
毎回半日かけて登ってきて、柵の外から祈って、また半日かけて帰る。
職務としては、ずいぶん割に合わない。
しかもこの道は最後の四半刻ほどが急な登りで、雪が来ればもっと悪くなるはずだった。
冬のあいだにここへ来るのは、正直なところ、あまり人にやらせたい仕事ではない。
もっとも、その半日の道のりの先に湯が湧いていると考えれば、わたしにとっては何ということもない距離でもあった。
その話をしたら、この人はどんな顔をするだろう。
たぶん困る。
まだ会って四半刻も経っていないのに、そのくらいは想像がついた。
なので黙っておいた。
「封印というのは、具体的には何をなさるのですか」
「柵の外から祈祷を行い、柵に破損がないかを確かめ、記録を残します」
「それだけですか」
「それだけです」
ヨナスの答え方には、隠している様子も、もったいぶっている様子もなかった。
「封印の目的は、柵を維持することではありません」
そこで一度言葉を区切り、こちらが聞いているのを確かめるように続ける。
「人が泉へ近づかず、その水を利用しない状態を保つことです」
なるほど。
管理局から渡された書類に書いてあることより、その言い方はずいぶん広い。
彼はそこで初めて、湯気の立っているほうへまともに目を向けた。
手前の槽の上だけ、空気が白く濁って見える。
ヨナスはそれをしばらく眺めたあと、視線を樋へ移し、そのまま斜面の上まで辿っていった。
「柵は、壊しておられませんね」
「壊していません」
「支柱の補修にも、途中まで手をつけておられる」
「管理人の義務ですので」
ヨナスは、そこについては素直に頷いた。
替えたのは腐っていた三本だけで、そのうちの一本の隣に、根元へ読めない刻みの入った柱があった。
腐っていなかったので、そちらは触らずに残してある。
「そこは認めますし、報告にもそのように書きます」
けれど、と彼はそこで一度だけ声の調子を変えた。
「封じられた泉から水が外へ引かれ、そこへ人が入っている。これは封印を実質的に無効にしていることになります」
わたしは少しだけ言葉を選んだ。
「神官様。わたしが王都から命じられておりますのは、柵の維持と、季節ごとの報告です」
「存じております」
「湯を引いてはならないという文言が、どこかにございますか」
ヨナスはすぐには答えなかった。
その沈黙は答えを探している人間のものというより、答えがないことをすでに知っている人間のものに見えた。
「……ありません」
こちらが拍子抜けするほど、あっさり認めた。
「百年前に封印が定められたとき、湯を引くという事態そのものが想定されていなかったのだと思います。柵の外へ出ないことが、そのまま人が近づかないことでしたので」
「では」
「規則に書かれていないから許されている、と解釈することもできます」
そこで終わらないのは分かっていた。
「ですが封印の目的から考えれば、泉の水を人が使える状態へ戻すことは、実質的な無効化にあたります」
「文言より、目的を取られるのですね」
「職務としては」
ヨナスはわずかに間を置いた。
「そう判断せざるを得ません」
困った。
理屈が通っている。
規則に書かれていないというのはこちらにとって有利な事実だけれど、それは同時に、判断する側の裁量が広いということでもある。
規則にないことをやれば、その扱いを決めるのは規則ではなく人になる。
王都で水盤を割ったときも同じだった。
割った罰について定めた条文があったわけではない。
全員で困った顔をして、いちばん角の立たない収め方として、わたしを北へ送ることにした。
そして今回、判断する側にいるのが目の前のこの人か、その上にいる誰かなのだ。
もう少し話の通じない相手なら、こちらとしても楽だったかもしれない。
ところがヨナスは、こちらの言葉を最後まで聞く。
聞いたうえで、認めるところは認め、駄目なところだけを返してくる。
こういう相手はやりにくい。
同時に、妙に話しやすくもあった。
そのことのほうが、少し困った。
話しているあいだに、ヨナスは何度か立つ場所を変えた。
最初は管理棟の石段の前にいたのが、いつのまにか水槽のほうへ二歩ばかり寄っていて、しばらくするとまた少し戻る。
場所を変えるたび、体重を乗せているほうの脚が入れ替わっている。
わたしはそれを見てはいたけれど、そのときは長く立って話すのが苦手な人なのだろうと思っただけだった。
頭の中では、二つ目の水槽をどの温度に落ち着かせるかという計算のほうが、まだ続いていた。
湯気は風のない日にはまっすぐ上がるので、いまヨナスが立っているあたりは、ちょうどその流れの端に入っている。
白い湯気が外套の裾を撫でていくたび、彼の肩の位置がほんの少しだけ下がった。
「神官様。そこ、湯気がかかります」
「……はい」
「気になるようでしたら、こちらへ」
「いえ。ここで結構です」
彼はそう言ったきり、湯気の届く場所からは動かなかった。
そのやりとりのあいだ、クレメンスが一度だけヨナスの脚へ目をやった。
医師見習いとしての癖だろう。
そのときのわたしは、それ以上のことを考えなかった。
あとになって思い返すと、この日わたしが見落としていたものは、一つや二つではなかった。
話が結論へ戻ったのは、日が傾きはじめたころだった。
「ブルクハルト嬢。申し上げます」
ヨナスは外套の前を直し、あらためてこちらへ向き直った。
「樋を外し、水槽の湯を落としてください」
「期限は」
「三日」
三日というのが彼の思いつきではなく、本院へ書面を出すまでに彼へ残されている猶予なのだということは、そのあとの説明で分かった。
報告の書式には封印の状態を記す欄があり、そこへ異常なしと書けるかどうかが、この人の側の問題になる。
異常ありと書けば本院が動く。
書かずに済ませれば、この人が職務を怠ったことになる。
つまりヨナスは、わたしを止めたいというより、三日後にこの欄をどう埋めるか決めなければならない立場にいる。
「わたしに、あなたを力ずくで止める権限はありません」
誤解のないようにという調子で、彼ははっきりそう言った。
「柵を壊しておられない以上、わたしにできるのは、見たままを本院へ報告することだけです」
「報告されると、どうなりますか」
「分かりません。前例がございませんので」
前例がない。
この人はその言葉を誤魔化しに使っていない。
本当に分からないことを、分からないと言っている。
百年のあいだ誰も近づかなかった場所というのは、裏を返せば、百年のあいだ何も起こらなかった場所でもある。
起こらなかったことに対する手続きというのは、どこの組織でもたいてい用意されていない。
「三日後にもう一度確認に参ります。そのときに湯が落ちていれば、報告の書き方も変わります」
「分かりました」
グレタが目を見開いてこちらを振り返るのが、横目に見えた。
「お嬢様」
「三日後にいらっしゃることは、分かりましたと申し上げたのよ」
三日後に来ることが分かったと言っただけで、湯を落とすとはひとことも言っていない。
ヨナスも気づいた。
その顔を見れば分かる。
けれど言質を取ろうとはしなかった。
「……承知しました」
それだけだった。
思わず、少しだけ口元が緩みそうになった。
この人は本当に、話が早い。
ヨナスは荷物と呼べるほどのものを持って来ていなかったので、帰り支度というほどのこともなかった。
柵のほうを一度見上げ、来たときと同じ道を斜面の下へ向かって歩き出す。
最初の数歩は、登ってきたときと何も変わらなかった。
けれど下りに入ったところで一度足を止め、右脚を庇うように身体の向きを変えてから、慎重に次の一歩を置いた。
その後ろ姿を見送っていると、隣でクレメンスがぽつりと言った。
「……あの方は、この秋に来られたばかりです」
「そう伺いました」
「前の神官様は、二十年おられました」
クレメンスの声には、それがどういう意味を持つのかを最後まで言い切らないでおく種類の遠慮があった。
二十年務めた人から引き継いで三か月しか経っていない人間が、百年前から続いている決まりについて、前例のない判断を迫られている。
しかも本院は半日の道の向こうにあって、相談に行くだけで一日が消える。
わたしがあの立場だったら、たぶん同じように期限を切った。
そう考えると、さっきまで向かい合っていた人の困り方が、少しだけ具体的になった。
「お嬢様」
グレタが低い声で呼んだ。
「なに」
彼女は斜面の下と湯気の立つ水槽とを交互に見てから、深く息を吐いた。
「三日で、どうにかなさるおつもりなのですね」
答えるより先に、その横でクレメンスが口を開いた。
「ブルクハルト嬢」
「はい」
彼はヨナスの背中を見たまま、少しだけ声を落とした。
「あの方の歩き方ですが」
「歩き方」
「……行きよりも、悪くなっています」
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