第4話 医師見習い
それから三日のあいだ、ボリスは頼んでもいないのに日の出とともに現れて、二つ目の水槽の縁に積もっていた土を落としつづけた。
一つ目のほうは樋から直に湯を落としているのでいちばん熱く、そこから溢れた湯を二つ目へ回してやれば、外気に触れているぶんだけ温度が下がる。
熱い湯とぬるい湯が並んでいれば、長く浸かっていられない人はぬるいほうへ入って出ていけばいいし、熱いのが好きな人はそちらへ移ればいい。
湯船が二つあって温度が違うというだけのことだけれど、湯屋にとってはかなり大きな話だった。
「村でね、みんな話してる」
「なんて」
「令嬢が毒の泉を沸かしたって」
「事実ね」
「あと、頭がおかしくなったって」
「それも半分くらいは事実かもしれないわ」
ピナは笑ったけれど、それでも村から上がってくる人は、いまのところひとりもいなかった。
斜面の下に立ってこちらを眺めている人の数だけは、日ごとに増えている。
昨日は四人、今日は七人。
見物人が増えるということは、いざ湯屋を開いたときに客になりうる人間がそれだけ近くにいるということなので、わたしとしては悪い話ではなかった。
グレタにそう言ったら、あの方たちは見物ではなく心配をしておられるのですと訂正された。
どちらにしても、こちらを見ていることに変わりはない。
その日の昼過ぎに斜面を登ってきたのは、見物人ではなく、革の鞄を提げた若い男だった。
二十代の半ばくらいで、擦り切れてはいるものの丁寧に手入れされた外套を着ていて、歩き方を見ればこの道を何度も通っている人間だと分かる。
「ブルクハルト嬢でいらっしゃいますか」
「そうです」
「クレメンスと申します。このあたりの村を回っております、医師見習いです」
彼は帽子を取って、王都の作法にもきちんとかなった礼をしてみせた。
その丁寧さはこちらを格上として扱っているというよりも、誰に対してもそうしているという種類のものに見えた。
「先生だ」
「ピナ、ご挨拶は」
「もうした」
クレメンスはピナに軽く頷いてから、視線をわたしの後ろへ移して、そこで動きを止めた。
湯気だった。
二つ並んだ石造りの水槽のうち手前の一つから白い湯気が上がって、初冬の空気の中をまっすぐ立ちのぼっている。
「……あれは」
「湯です」
「泉から、引かれたのですか」
「はい」
クレメンスの声から丁寧さが消えたわけではなかったけれど、そこには明らかに別の種類の緊張が混じっていた。
「ブルクハルト嬢。いますぐ、止めてください」
「お願いに上がったつもりでおりましたが、間に合わなかったようです」
彼はそう言うと、話がまだ終わっていないことを示すように、鞄の紐を肩へ提げ直した。
「村の者から、湯治場で妙なことをしている令嬢がいると聞きました」
「妙なこと」
「湯を沸かしている、と」
「沸かしてはいません。湧いているものを引いただけです」
「それは、もっと悪い」
クレメンスの説明は、こちらが口を挟む隙もないほど順序立っていた。
人の身体は皮膚によって外の悪いものから守られていて、その守りがいちばん薄くなるのが、湯に長く浸かって毛穴が開いたときなのだという。
そして開いてしまった毛穴からは、湯気に混じった悪い気がそのまま身体の内側へ入り込んでいくのだという。
井戸水で身体を拭くぶんには毛穴が開かないので、清潔を保ちたいのであればそれで足りるはずだし、実際に王都の貴族はみなそうしておられるでしょう、と彼は言った。
「特に危ないのが、匂いのある湯です」
匂いの強い湯ほど濃い、という言い方をされると、こちらとしてはつい泉質の話として聞いてしまいそうになる。
硫黄が濃いという意味なら、それはむしろ良い湯という話になってしまうので、わたしは頷くのをやめておいた。
「硫黄の」
「ご存じでしたか。匂いが強いものほど、悪い気が濃いとされております」
ここまでは、この世界の学問として教えられている知識の話だった。
そのあとに彼が言ったことは、知識ではなかった。
「昔は、この国にも湯に浸かる習慣がございました」
「あったのですか」
「古い記録には残っております。この湯治場が使われていたのも、その頃のことです」
ところが百数十年前に各地で熱病が流行し、共同の浴場を使っていた者のなかから多くの死者が出た。
浴場は次々に閉じられ、湯は病を招くという判断が医師たちのあいだで固まり、そのまま学問として定着したのだという。
「そしてヴェルテについても、同じことが起きております」
クレメンスの声が、そこで少しだけ低くなった。
「この泉では、実際に人が死んでおります」
百年より前、ヴェルテにはまだ人が集まっていて、王都からわざわざ湯に浸かりに来る者もいたらしい。
そしてある年、この土地でも病が流行り、湯に通っていた者から順に倒れていった。
「人数は」
「正確なところは分かりません。記録によって食い違っておりますが、少なくとも村がひとつ消えるくらいの数ではあったようです」
「死因は」
「熱、咳、衰弱、それから何の前触れもなく倒れた者がいたと」
症状がそれだけばらついているのなら、原因が一つだったとは考えにくい。
けれど当時それを見ていた人たちにとっては、湯に通っていた者から順に倒れていったという順序のほうが、はるかに強い意味を持ったはずだった。
そのあとで泉は封じられ、柵が立てられ、湯治場は閉じられ、以来百年のあいだ、誰もあの水に触れていない。
「王都の医師団も、同じことを教えております」
「教えている」
「湯は病を招く、と。学問として、そう定まっております」
わたしは彼の話を頭の中でもう一度はじめから辿って、どこか一箇所でも崩せるところがないかを探した。
皮膚が守りであるという前提を認めるなら、毛穴が開くのは守りが薄くなることだし、実際にこの泉で大勢が死んでいるという事実のほうも動かない。
結局、崩せるのは前提のほうだけだった。
そこから先の理屈には穴がない。
わたしがこの時代に生まれてこの学問を教わっていたら、たぶん彼と同じことを言っていた。
そして彼は、この土地でただひとり、病人を診ることのできる人間だった。
村の人がこの人の言うことを聞くのは権威があるからではなく、これまで実際に助けてもらってきたからなのだろう。
反論しようと思えば、こちらにはいくらでも言えることがあった。
毛穴が開くこと自体は事実でも、そこから何かが入るという部分には根拠がないし、湯に通っていた者から順に倒れたというのなら、それは人が集まる場所だったからだとも言える。
けれど、それを並べたところで、この場では何にもならないことも分かっていた。
百年前に人が死んだという事実は動かないし、わたしが持っているのは前世の知識という、この世界の誰にも確かめようのないものだけだった。
「クレメンス先生」
「はい」
「ボリスの膝を、診ていただけませんか」
クレメンスは一瞬だけ、話がどこかへ飛んだという顔をしてこちらを見た。
「ボリスさんの膝でしたら、わたしも何度か診ております。痛みだしてからもう二十年になりますので、正直に申し上げれば、良くなるものではありません」
「知っています。だから、いま診ていただきたいのです」
ボリスは何も言わずに水槽の脇まで来ると、そのまま地面へ腰を下ろした。
「今朝も入った」
「入ったというのは、湯にですか」
「三度目だ」
クレメンスの顔から、それまで残っていた血の気が引いていった。
「なんということを……いえ、ボリスさん、あなたはご自分が何をなさったのか分かって」
「膝が痛くない」
ボリスはそれだけ言うと、ズボンの裾を膝の上までまくり上げた。
クレメンスはそのまま、しばらく動かなかった。
医師見習いとしての職分と、いま自分が言ったばかりのこととのあいだで、どちらを先にすればいいのか決めかねているように見えた。
それから彼は鞄を地面へ置いて、ボリスの前に膝をついた。
クレメンスはボリスの膝の裏へ指を当てたまま、ゆっくり曲げさせては伸ばさせるということを三度ほど繰り返して、そのあいだ一言も発しなかった。
医師見習いとして何度も診てきたはずの膝であるのに、今日の曲がり方だけが自分の知っている範囲から外れているのだということは、その手つきを見ていれば分かった。
「……いつからですか」
「三日前」
「三日」
「湯に入った日から」
クレメンスは膝から手を離したけれど、それでもすぐには立ち上がらなかった。
「冷えていないだけです」
ずいぶん長く黙ったあとで、彼はようやくそう言った。
「温めれば一時的に楽になることはあります。湯でなくとも、火のそばに座っていれば同じことが起こります」
「そうかもしれません」
「……反論なさらないのですか」
「何にですか」
「この湯が身体に良いものだ、と」
「まだ分からないもの」
クレメンスは、意表を突かれたという顔をした。
ボリスの膝が楽になったことは事実だけれど、それが硫黄の成分によるものなのか、単に温めたからなのか、たまたま調子の良い日だったのかまでは、いまのわたしにも判断できない。
「わたしが知りたいのも、この湯に入った人がどうなるかということです」
「……それは」
「だから、見ていただいただけです」
彼が困っているのは、たぶんわたしのことではなかった。
二十年治らなかったものが、自分がずっと止めてきたやり方によって三日のうちに楽になったという事実を、いったいどこへ置けばいいのか分からなくなっているのだと思う。
学問として定まっているものを疑うというのは、この人にとっては自分の仕事そのものを疑うことと同じはずだった。
しかも彼が学んできた知識は、これまで何人もの村人を実際に助けてきたものでもある。
それを丸ごと捨てろと言われて頷ける人間がいるとしたら、その人はたぶん、はじめから何も背負っていない人だ。
それでもわたしは、何も言わなかった。
ここで一言でも勝ちに行ってしまえば、この人は自分の間違いを認めることができなくなる。
クレメンスは鞄を持って立ち上がると、湯気の上がっている水槽をもう一度だけ見た。
「ブルクハルト嬢。ひとつだけ、申し上げておきます」
「はい」
「わたしが止めに参ったのは、医師見習いとしてです。それとはまったく別に、あなたが本当に気をつけるべき相手がおります」
「泉の封印は、教会が管理しております」
柵の維持は管理人の義務として王都から命じられているけれど、あの泉を封じているのは王都ではなく教会のほうなのだと、彼は言った。
「柵そのものは、壊しておられません」
「ええ」
「ですが、封じられた泉から水を外へ引き、人が入れるようにしておられる」
柵は一本も動かしていないし、王都から命じられているのは柵の維持だけだ、とわたしは言い返しかけた。
言い返しかけて、それが王都に向けた言い分でしかないことに気づいた。
教会の側から見れば、これは封印を実質的に無効にしている行為だと判断されうるのだと、クレメンスは言葉を選びながら説明した。
「年に何度か、神官様が祈祷にいらっしゃいます」
「存じています」
「次にいらしたときに、あの湯気を見られたら、どうなさるおつもりですか」
わたしは振り返らなかった。
振り返らなくても、あの白い柱が風のない日にどこまで届くかは知っている。
今日は七人だった。
その七人を数えていたとき、わたしはあれを客の数だと思っていた。
「いつごろ、いらっしゃるのですか」
クレメンスは答えず、代わりに斜面の下の、村へ続いている道のほうへ目をやった。
その視線の先に、黒い外套の人影がひとつ、こちらへ向かって登ってきていた。
「……今日のようです」
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