第3話 最初の湯
泉と水槽のあいだを何度も往復して分かったのは、百年前の人たちが作った仕組みが、思っていたよりずっと丁寧だったということだった。
斜面の途中には湯を通していたらしい溝の跡が残っていて、ところどころ石を組んで支えてあり、その上に木の樋を渡していた痕跡もはっきり残っていた。
樋そのものはほとんど朽ちて土に還っていたけれど、勾配の取り方と、途中で一度湯をためて流れを落ち着かせている場所の作りは、そのまま真似すれば足りる。
水槽のほうも、底に積もった落ち葉と土をかき出してみると、石組みそのものは驚くほど無事だった。
「本当にお使いになるのですね」
「使わない理由がないでしょう」
「毒だと言われている水ですよ」
「言われているだけよ」
グレタは最後まで反対していたけれど、反対しながらもいちばん熱心に落ち葉をかき出していたので、わたしはそれについて何も言わないことにした。
ボリスは何も聞かずに崩れた石を積み直していたし、ピナは桶で水を運びながら、これは何のためなのかと三十回くらい尋ねてきた。
村の人が遠くから見ているのには、三日目くらいで気づいた。
斜面の下のほうに三人か四人が並んで立っていて、こちらが手を振ると慌てて引っ込むので、どうやら王都から来た令嬢が毒の泉で何をしているのかを見物に来ているらしい。
見物人がいるということは、湯が沸いたときに最初に噂を運んでくれる人間がいるということでもあるので、わたしとしてはむしろ好都合だった。
そのことをグレタに言ったら、なぜかまた眉を寄せられた。
そのせいで、わたしの手はこの十日ですっかり荒れた。
令嬢の手ではございませんと言いながらグレタが毎晩軟膏を塗ってくれるので、いまのところ、指が動かなくなるほどではない。
ついでに言えば、グレタの手も同じくらい荒れている。
泉から水槽まで樋を渡す作業そのものは、ボリスが材を削ってくれたおかげで三日で終わった。
泉の湧き口から少し下がったところで湯を受けて、斜面の溝に沿わせて木の樋を並べ、水槽の縁まで落とすだけの単純な仕掛けだ。
ところが最初に湯を流した日、水槽まで届いた湯は流れが細く、手を入れてみると期待していたよりずっとぬるくなっていた。
斜面の途中を見に行くと、樋と樋を重ねた継ぎ目のほとんどから湯が漏れていて、そのぶん流れが遅くなり、遅くなったぶんだけ外気に熱を持っていかれている。
「やっぱり無理だったんじゃない」
ピナが地面へ吸い込まれていく湯を、しゃがんだまま眺めていた。
「継ぎ目を減らせばいいのよ」
「そんな長い木、ないよ」
わたしが答える前にボリスが樋の一本を持ち上げて、重ねていた部分の片方を深く削り、もう片方を被せる形に組み直しはじめた。
削った溝へ乾いた苔を押し込んでから縄で締めていくのを見て、わたしはようやく、彼が何をしようとしているのかを理解した。
「それで塞がる」
ボリスは短く頷いた。
もう一度湯を流してみると、継ぎ目から落ちる量は目に見えて減っていて、水槽へ届くころにもまだ十分に温かい。
ついでに樋の上へ板を渡して蓋にしてみたところ、翌日に流した湯は、水槽へ着く時点でちょうどいい温度に落ち着いていた。
樋の先から流れ落ちた湯は石の底に当たって白く散り、そのまま少しずつ水槽の底を覆いはじめて、乾いていた石の色を内側から濃く変えていった。
初冬の空気に触れた湯からはすぐに湯気が立ちのぼって、それが風のない夕暮れの中を、まっすぐ上へ伸びていく。
白く濁った湯が石の縁まで満ちるには、思っていたよりも時間がかかった。
湯が縁のあたりまで上がってくるまでのあいだ、その場にいる誰ひとりとして何も言わなかった。
湯気の匂いは硫黄のそれだと分かるくらいには濃かったけれど、鼻を突くというほどでもなく、風の向きによっては甘いような気配さえした。
石の底に張りついていた白い析出物が湯に触れて少しずつ緩み、細かな粒になって水の中を漂いはじめる。
百年のあいだ乾いたままだったものが、湯が戻ってきた途端に元の姿へほどけていくのを見ていると、この場所はずっとこうなるのを待っていたのだという気がしてくる。
もっとも、待っていたのは石であって人ではないし、村の人たちからすればいまも毒が溜まっていく光景でしかないはずだった。
「すごい」
ピナが声を上げたのは、湯が縁に届く少し前だった。
「すごい、お湯だ、こんなに」
「そうね」
「触ってもいい」
「指だけよ」
ピナが恐る恐る手を伸ばして、それからすぐに引っ込めて、もう一度入れて、今度は手首まで沈めた。
「あったかい」
「そう言ったでしょう」
「毒じゃないの」
「毒だったら、わたしの手はとっくになくなっているわ」
「ほんとだ」
ピナは自分の手のひらを裏返して眺めてから、湯気の立っている水面をもう一度覗き込んだ。
「これ、村の人にも言っていい」
「言っていいけれど、信じてもらえると思う」
「思わない」
「じゃあ、しばらく黙っていましょう」
わたしのほうは湯の表面に浮いた白いものを指ですくってつぶしながら、湧き口で測ったときとの温度差を頭の中で引き算していた。
そうなると次に決めなければならないのは、いったい誰が最初に入るのかということだった。
「お嬢様、まさかご自分で」
「入るわ」
「なりません」
「わたしが管理人よ」
「管理人だからこそ、何かあったときにいちばん困ります」
困るのはあなたでしょう、と言い返しかけたところへ、横から声が入った。
「じゃあわたしが入る」
「ピナは駄目」
「なんで」
「子供に最初に試させる大人がどこにいるの」
ピナが不服そうな顔をしているあいだに、ボリスが黙って上着を脱ぎはじめたので、その場の全員がそちらを向いた。
「ボリス」
「俺が入る」
彼が自分から何かをすると言ったのは、会ってから初めてのことだった。
止める間もなく脱いだ背中には木を扱ってきた人間の肩がついていて、そのあちこちに、古い傷が白く残っていた。
わたしは慌てて後ろを向いたし、グレタはピナの目を手で塞いでいた。
「危ないと思ったら、すぐに出て」
「わかった」
「熱いと感じたら我慢しないで」
「わかった」
「それと、頭は湯につけないで」
「……なんでだ」
「なんとなく、そのほうがいいから」
本当は理由があったけれど、説明すると長くなるので省いた。
「お嬢様、あの方に何かあったら」
「そのために見ているのよ」
「見ているだけでは、どうにもなりません」
「顔の色が変わったら引き上げるわ。そこはあなたも見ていて」
グレタは何か言い返そうとして、結局、湯気の向こうを睨むように見張りはじめた。
ボリスが湯に入っていく音がして、それから、しばらく何も聞こえなくなった。
「もういい」
「……ああ」
振り返ると、ボリスは水槽の縁に背中を預けて、肩まで湯に沈んだまま、まっすぐ空を見上げていた。
湯気が顔のあたりで揺れていて、その向こうの表情は、正直よく分からなかった。
「どう」
返事はなかった。
「熱すぎる」
「いや」
「ぬるい」
「いや」
ボリスはそのまましばらく黙っていて、やがて湯の中で、片方の膝をゆっくり曲げ伸ばしした。
水面が小さく揺れて、白い湯の花が肩のあたりまで寄っていく。
「膝、悪いの」
ピナが聞くと、ボリスは目を閉じたまま小さく頷いた。
「昔、木を切ってるときにやったんだって」
答えたのはピナのほうだった。
「寒くなると歩きにくいって、ばあちゃんが言ってた」
二十年ちかく、雨の降る前と冬のあいだはずっと痛かったのだという。
「……膝が」
ボリスの声はいつもと同じくらい低かったけれど、いつもよりも少しだけ長かった。
「膝が、痛くない」
「いましゃべった!」
ピナがこちらを振り返って、わたしの袖を引っぱった。
「そこなの」
「だってボリスが自分からしゃべった!」
グレタまで目を丸くしていたけれど、わたしとしては膝の状態のほうがよほど重要だった。
治ったわけではないと思う。
湯に浸かっているあいだは痛みが遠くなっているだけで、上がればまた戻ってくるはずだった。
それでも二十年ぶりに痛くない時間が来たのなら、それがその人にとってどれくらいのことなのか、わたしには測りようがなかった。
硫黄泉が膝に効くというより、単純に、温かい湯に長く浸かって血の巡りが変わったことのほうが大きいのだと思う。
だとすればこれは魔法でもなんでもなく、湯の温度と浸かっている時間さえ確保できれば、誰にでも同じことが起こるはずだった。
つまり、この土地には二十年痛かった膝を一時的に忘れさせる設備が、百年前から放置されたままあったということになる。
「グレタ」
「はい」
「これ、毒に見える」
グレタは湯気の向こうのボリスをしばらく眺めてから、答えないまま、水槽の縁の湯へそっと指を入れていた。
「毎日入れる」
「入れるわ」
「毎日か」
「毎日よ。湯は勝手に湧いてくるんだから」
ボリスは、それきりまた黙った。
湯から上がったボリスは、体を拭きながら、樋のほうを一度だけ見上げた。
「明日、蓋の板を厚くする」
「そんなに冷える」
「もっと熱くできる」
いまでちょうどいいはずだ、と返しかけた。
けれど、この人はいま、直すとは言わなかった。
水槽の縁へ手を入れて、湧き口で測ったときの温度から、指に残っているぶんを引いてみる。
途中で逃がしている熱はまだ削れるし、削ったぶんだけ、ここへ着く湯は熱くなる。
熱いほうを熱くできるなら、溢れさせた先を温くする幅も、そのぶん広く取れる。
「それはやってほしいわ。あと、手が空いていたら、二つ目の水槽も使えるようにしたいの」
「わかった」
このときからボリスは、頼まれなくても翌朝には来るようになり、使えそうな木を探し、壊れた場所を先に直し、わたしが次に何を作ろうとしているのかを勝手に考えるようになる。
本人の中ではもう、手伝いという言葉では足りない何かに変わっていた。
……そしてわたしのほうは、二つ目の水槽をどの温度で使うかという計算にすっかり入っていて、そんなことにはまったく気づいていなかった。
日が落ちてしまうと、初冬の北はいきなり寒くなった。
湯を止めるかどうかで少し考えたけれど、掛け流しのままにしておけば凍る心配がないし、朝には最初から使える状態になっている。
止めない理由のほうが多かったので、樋はそのままにしておくことにした。
明日は二つ目の水槽に取りかかって、そのあとは湯の温度を場所ごとに変えられるようにしたい。
湯船が二つあれば熱いほうと温いほうを作れるし、それができれば長く浸かれない人でも短く入って出ていける。
その次は屋根の落ちたところをどうするかで、あれをうまく使えば、雪を見ながら入れる湯ができる。
「明日も来ていい」
「来ていいけれど、入るのは大人が確かめてからよ」
「ボリスは入ったのに」
「ボリスは大人でしょう」
ピナは不満そうに口を尖らせてから、思い出したように付け加えた。
「そうだ。先生が来るよ」
「先生」
ピナは湯気の上がっている水槽を指さして、それからわたしのほうを見た。
「あの人、湯が嫌いだから」
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