第2話 ヴェルテ
王都を出てから十日目の午後になって、わたしたちを乗せた馬車はようやく、北部グラウエン地方のヴェルテ湯治場と呼ばれている場所へ着いた。
御者に着きましたと言われなければそのまま通り過ぎていたと思うほど、そこには人の暮らしている気配がなく、背の高い枯れ草の向こうに古い建物がいくつか沈んでいるだけだった。
管理棟らしい二階建ての屋根は三分の一ばかりが落ちていて、残っている瓦もあちこちで浮いていたし、玄関へ続く石段の隙間からは細い雑草が伸びていた。
横手には底の抜けた桶が二つ転がっていて、その奥には崩れかけた石垣と傾いた小屋が並んでいたので、百年放っておかれたという話を疑う理由は特になかった。
斜面の向こうから細い煙が上がっているところを見ると村そのものは残っているようだったけれど、こちらまで出迎えに来た人間はひとりもいなかった。
初冬の風が、枯れ草を横向きに倒しながら吹き抜けていく。
馬車から降りたグレタは、管理棟を見上げたまま、しばらく身動きをしなかった。
「……お嬢様」
「なに」
「こちらに、五年でございますか」
「そう聞いているわ」
同じ五年という数字を、グレタは刑期として数えていて、わたしは持ち時間として数えていた。
「屋根が、ございません」
正確には三分の一ほどが落ちているだけだったけれど、その訂正が慰めになるとも思えなかったので黙っておいた。
それに、屋根が落ちているのはむしろ好都合だった。
建物のなかに湯を引くよりも、あの抜けた部分をそのまま活かして上を開けてしまったほうが、露天として仕上げるのは早い。
もっとも、それを口に出したらグレタが本当に泣きそうだったので、わたしはとりあえず頷くだけにしておいた。
荷を下ろす御者へグレタが泣きそうな目を向けているあいだ、わたしは建物のほうではなく、耳のほうに意識を向けていた。
枯れ草の擦れる音に混じって、どこかで水の流れる音がしている。
「お嬢様、どちらへ」
「水の音がするの」
返事を待たずに管理棟の脇を抜けると、崩れた石垣の向こうに低い囲いがあって、その中に長方形の石造りの水槽が二つ並んでいた。
どちらも空で底には落ち葉と土が積もっていたけれど、石の縁と側面には白っぽいものが何層にもこびりついていた。
指の腹でこすってみると、それは石そのものの色ではなく、長い年月をかけて水から析出したものが乾いて積み重なった跡だと分かる。
これだけ広い範囲に残っているということは、以前はこの二つの槽へ、それなりの量の湯が流れ込み続けていたということになる。
「まさか、これをお使いになるおつもりではございませんよね」
「まだ分からないわ」
「まだ、という言葉をお使いになる場面ではございません」
「割れている箇所は少ないし、底も沈んでいないから、掃除さえすれば状態は確かめられそうなのよ」
「お嬢様」
グレタが何か言っていたけれど、水音の出どころのほうが分かったので、わたしはそちらへ歩き出していた。
水槽の裏手から斜面へ続いている細い道は長く放置されていたらしく、足元には枯れ枝が積もり、ところどころ土が流れて石がむき出しになっていた。
それでも道の形そのものは残っていて、登るにつれて水音がはっきりしてきて、同時に空気の中へ独特の匂いが混じりはじめた。
卵が腐ったような臭気がすると、王都の役人は言っていた。
硫黄だ。
斜面を登り切ったところに腰の高さほどの木の柵があって、何度か補修された跡はあるものの、古い支柱のいくつかは黒ずんで、触れるまでもなく朽ちかけているのが分かった。
柵の内側には岩の割れ目があり、その中央から白く濁った水が絶え間なく湧き出して、小さな池のようにたまってから低いほうへ流れ落ちていた。
思っていたより、ずっといい。
白濁は濃すぎず、水面には細かな浮遊物がいくつも漂っていて、周りの岩には乾いた析出物が何層にも重なって付いている。
湧き口から流れ出していく量を目で追ってみたところ、細い沢ほどではないにしても、あの水槽を満たして掛け流しにするには足りそうだった。
「お嬢様、柵の中へ入ってはいけません」
下から追いついてきたグレタの声を聞きながら、わたしは柵の隙間から腕を差し入れていた。
「触ってもいけません、と申し上げております」
湧き口から少し離れたあたりの流れへ指先を入れてみると、反射で手を引くほど熱くはなく、それでいて初冬の外気の中では明らかに温かかった。
手首まで沈めてしばらく置いてみれば、前世で数え切れないほど湯に浸かってきた感覚から、おおよその温度の見当はつく。
湧き口の近くは入浴にちょうどいいか、わずかに高い程度で、下へ流す距離を取ればそのまま適温まで落ちてくれる見込みがあった。
「熱くはございませんか」
「熱いというほどではないわ」
「毒かもしれないのですよ」
「飲んでいないもの」
グレタが絶句しているあいだに手を引き上げると、指先にはごく細かな白い粒がいくつも残っていた。
湯の花だ。
岩の縁を近くで見ると白ばかりではなく灰色がかった部分も混じっていて、水が流れ続けている溝には柔らかい沈殿物が薄く積もっている。
ここで成分を細かく調べる手立てはないけれど、硫黄を含んだ湯であることまで疑う必要は、もうないだろう。
昔ここを湯治場として使っていた人たちは、疲れが抜けるとか身体の痛みが軽くなるとか、そういうものを経験として知っていたはずだった。
それがどこかで毒と呼ばれるようになった経緯のほうが、泉そのものよりもよほど不思議に思えた。
ただ、いま考えるべきなのは歴史ではない。
水槽までどうやって湯を引いていたのか、その樋がまだ残っているのか、湧出量は一日を通して変わらないのか、雨や雪解けで薄まることはないのか。
そのあたりを確かめないことには、せっかくの湯も使いようがなかった。
「何してるの」
背後から声がしたので振り返ると、柵の外側に見たことのない少女が立っていた。
年は十二か十三というところで、肩までの髪を紐で無造作に結び、厚手の上着の袖をまくったまま、こちらを遠慮なく眺めている。
「泉を見ているの」
「それは見れば分かる」
グレタが眉を上げたけれど、少女のほうは気にした様子もなく、今度はわたしの濡れた手のほうへ視線を移した。
「王都から来た令嬢って、あんた」
「そうだけれど」
「ほんとに毒の泉の番をしに来たんだ」
少女は面白いものを見つけたという顔で柵の周りを歩いて、こちら側まで回り込んできた。
「名前は」
「テアよ」
「わたしはピナ」
こちらが聞いてもいないうちに名乗ると、ピナは柵の中を覗き込んで、鼻をつまむでもなく顔だけしかめてみせた。
「これ、臭いでしょ」
「そうね」
「怖くないの」
「いまのところは」
「触ったのに」
「温度を知りたかったから」
ピナはしばらく黙ってから、珍しい生き物でも見つけたような目でこちらを見た。
「王都の人って、みんなそういうことするの」
「たぶん、しないと思うわ」
「やっぱり」
「ねえ、ピナ。この泉には、村の人も近づかないの」
「近づかないよ。近づいたら病気になるって、みんな言ってる」
「誰かがなったところを見たことは」
「ないけど」
ピナは少し考えてから、指で斜面の下のほうを指した。
「うちのばあちゃんが、そのまたばあちゃんに聞いたって。この水に入った人がたくさん死んだんだって」
「いつごろの話かしら」
「知らない。ずっと昔」
百年より前の話が、誰の口からも同じ形で出てくるということは、それだけ繰り返し語られてきたということだった。
「神官様が年に何度か来て、お祈りをしていくの。柵が壊れてないか見に来るついで」
「その神官様は、泉を見て何か言うの」
「なんにも。柵の外から手を合わせて、帰る」
何が「やっぱり」なのかは分からなかったけれど、ピナはそのままわたしたちについて管理棟まで戻ってきた。
村へ帰る気配もなく、荷を運ぶグレタの横を歩きながら、王都には本当に石を敷いた道があるのかとか、馬車は毎日走っているのかとか、こちらが答え終える前に次を聞いてくる。
管理棟の前まで戻ったところで、道の向こうから大柄な男が薪の束を担いで歩いてきた。
四十を過ぎたくらいに見えるその男は、わたしたちに気づくと一度だけ頭を下げて、何も言わずに壁際へ薪を下ろした。
「ありがとうございます」
声をかけると男はこちらを見たけれど、返事はせずに、空になった縄を肩へ掛け直しただけだった。
「この薪は、こちらで使ってよろしいのですか」
男は一度だけ頷いた。
「お代は」
今度は首を横に振った。
「では、どうして」
しばらく待ってみても答えは返ってこず、男は踵を返して歩き出してしまった。
「あれ、ボリス」
いつのまにか石段へ腰を下ろしていたピナが、当たり前のことのように言った。
「昔は木こりだったんだって」
「どうして薪を置いていったの」
「知らない」
「本人は教えてくれないの」
「ボリス、いつもああだから」
「あの人も、泉には近づかないの」
「ボリスは知らない。でも薪はいつも置いていくよ、前の管理人のときも」
「前の管理人がいたの」
「いたけど、二年で帰った」
説明として成り立っているのかどうかはよく分からなかったけれど、グレタは積まれた薪を見て、今日はじめて少しだけ安心した顔をしていた。
グレタは今夜の暖炉のことを考えていたのだと思う。
わたしのほうは、湯を沸かすなり水を温めるなりするときに薪をどこから調達すればいいのか、その当てが初日にできたことを喜んでいた。
同じ薪の山を見ていたはずなのに、たぶん、見ていたものはまるで違っていた。
日が山の向こうへ落ちかけたころ、わたしはもう一度だけ泉へ続く道を登った。
明日から水槽と水路を調べるつもりだったので、その前に、管理義務になっている柵がどの程度傷んでいるかだけ確かめておきたかった。
近くで見ると支柱の腐りは思っていたより進んでいて、春までには何本か替えたほうがよさそうだった。
そのうちの一本の、根元に近いあたりに、傷とは違う規則的な線が彫られていることに気がついた。
いくつかの曲線を組み合わせた文字のようにも見えたけれど、カルステン王国で使われているものではないし、わたしに読めるものでもない。
百年より前から使われていた湯治場なのだから、昔の持ち主が何か印でも入れたのだろう。
そう考えて立ち上がり、管理棟へ戻ろうとしたところで、背後の枯れ草が擦れる音がした。
振り返ると、少し離れたところにボリスが立っていた。
昼間とは違って、彼はまっすぐわたしの右手を見ていた。
「あんた、あの水に触ったのか」
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