第1話 毒の泉
前世のわたしは、有給休暇をほとんど温泉につぎ込む会社員だった。
三連休なら草津か万座、まとまった休みが取れれば乳頭温泉郷や酸ヶ湯まで足を延ばして、帰宅した翌日にはもう次に行く湯を調べていた。
旅に出られない日は取り寄せた明礬の湯の花で折り合いをつけていて、その朝も出勤前だというのに浴槽へ入れてしまい、時計を見てから慌てる羽目になった。
パンを咥えたまま家を飛び出し、駅への近道になっている曲がり角へ勢いよく入ったところで誰かとぶつかり、視界が大きく傾いたあと、何も見えなくなった。
次に目を開けたとき、わたしはまた誰かとぶつかっていた。
「きゃっ……!」
肩へ軽い衝撃を受け、目の前の若い令嬢がよろめくのと同時に、わたしの両腕に抱えられていた大きな器が傾いた。
またぶつかった、と思ったところまでは妙に冷静だったけれど、白い陶器に金の縁取りを施した水盤が指先を滑っていくのを見て、さすがにこれはまずいと理解した。
左右に取っ手のついたその器は磨かれた石床へ落ちると乾いた音を立てて、いくつもの大きな破片になって周囲へ散った。
「清めの水盤が……!」
広間のあちこちから声が上がり、その瞬間、知らないはずの場所や人の名前が頭の奥から次々と浮かび上がってきた。
ここはカルステン王国の王宮で、今日は秋の祭礼に用いる祭具を点検する日であり、いま割れた水盤は清めの水を張るため、三百年ほど前から受け継がれてきたものだった。
そして、この身体はテア・ブルクハルトという二十一歳の伯爵令嬢で、父は長く王宮で文官を務めているものの、ブルクハルト家そのものに王家との血縁はない。
記憶をたどると、テアは舞踏会を途中で抜けたり興味の薄い話を聞き流したりを繰り返していて、扱いづらい令嬢という評判まで込みで考えれば、この事故が決定打になるのは分かる。
破片のひとつは底に当たる部分らしく側面より不自然に厚く見えたが、いまはそれどころではなかった。
「テア!」
人垣を分けて現れたアルノーは、割れた水盤を見るより先にわたしの両手を確かめ、続いて足元へ視線を落とした。
「怪我はないか」
「ありません。どこも切っておりません」
アルノーはようやく息を吐いてから、向かい側で侍女に支えられている令嬢のほうへ顔を向けた。
「あなたも、お怪我は?」
「大丈夫です、アルノー様」
令嬢は青ざめた顔のまま首を振ると、割れた水盤とわたしを交互に見てから、勇気を出すように口を開いた。
「わたくしも前を見ておりませんでしたので、テア様だけが悪いわけではございません」
誰も怒鳴らず、誰も責任を押しつけず、それでも床に散った三百年前の水盤だけは、どう見ても元の姿ではなくなっていた。
その日の午後、わたしは王宮の小会議室へ呼ばれた。
長机の向こうには祭祀局長と領地管理局の役人が座り、その横にはアルノーもいて、全員が誰かを罰したい顔というより、難しい書類を前にした人の顔をしていた。
「まず申し上げますが、今回の件が故意ではなく双方の不注意による事故であったことは確認しております」
白髪の祭祀局長は穏やかな声でそう告げてから、水盤そのものの劣化についても調べると付け加えた。
「ですが、王家の祭礼に用いる器物が失われた以上、何の処分もないという形にはできません」
「承知しております」
わたしが答えると、祭祀局長は小さく頷いたものの、隣の若い役人はまだ言いにくそうに資料へ目を落としていた。
「実のところ、事故だけであれば弁済と一定期間の奉仕で収まる余地もございました」
そこでアルノーの表情がわずかに硬くなったので、この先が本題なのだと分かった。
「ただ、ブルクハルト伯爵令嬢については、これまでにも社交上の振る舞いについて複数の申し立てがありまして……」
舞踏会を途中で帰った件から年長者の長話を遮って席を立った件まで細かく記録されていて、アルノーも反論できるところとできないところを分けながら聞いているようだった。
そのうえで若い役人は、北部の王領施設で五年のあいだ管理に当たっていただくことになります、と読み上げた。
「それでも五年は長すぎます」
アルノーは読み上げの途中で口を挟むと、わたしではなく祭祀局長のほうへまっすぐ顔を向けた。
「妹に非がないとは申しません。ですが北部へ五年となれば、事実上の追放と受け取られかねません」
「その懸念は理解しております。ですから刑罰としてではなく、王領管理の任として扱うことになりました」
祭祀局長は否定せず、むしろ困ったように眉尻を下げてみせた。
若い役人が新しい書類を机の上へ置いて、指先で軽くこちらへ滑らせた。
「北部グラウエン地方にあります、ヴェルテ湯治場の管理人をお願いすることになります」
湯治場。
続きを説明されているというのに、その三文字だけが妙にはっきりと耳の奥へ残ってしまった。
「百年前に閉鎖された施設で、いまは居住者もほとんどおりません。冬は長く、王都からも遠く、若いご令嬢にお任せするには心苦しいのですが……」
説明している若い役人のほうが、聞かされているわたしよりもよほど気の毒そうな顔をしていた。
「それに、あそこには毒の泉があります」
若い役人が言い切れずに黙ったところを、祭祀局長が声を落として引き取った。
「五年のあいだ現地に滞在して、泉を囲う封印柵が維持されているかを確認してください。柵には定期的に神官が赴いて祈祷を行いますので、その受け入れも管理人の役目になります」
もとは柵だけだったものが、危険な水だと考えられるようになってから祈祷が加わり、それが今日まで形式として残っているのだという。
「俸給は年に金貨十二枚となります」
それまで黙って聞いていたアルノーが、そこで初めて顔を上げた。
「十二枚?」
「……相場より低いことは、こちらも承知しております」
若い役人は手元の書類から目を上げないまま、申し訳なさそうにそう言った。
「現地施設が長く閉鎖されており、管理予算そのものがほとんど割かれていないのです」
季節ごとに現地の様子を書面にまとめて王都の領地管理局へ送ることと、泉や柵に異常があれば定期報告を待たずに知らせることも、管理義務に含まれているらしい。
「テア、無理に一人で行く必要はない」
アルノーは祭祀局長から視線を外して、こちらへまっすぐ向き直った。
「家から人を出すことはできるし、五年という任期についても私からもう一度掛け合う」
祭祀局長はそれを聞いても何も言わなかったし、止めようともしなかった。
どうやら、本当に誰もわたしを北へ放り出したくて仕方がないわけではないらしい。
ただ、湯治場という言葉が出てから、わたしには別のことが気になっていた。
「その毒の泉について、少し伺ってもよろしいでしょうか」
若い役人は、わたしが任地の危険を確かめたいのだと思ったらしく、すぐに資料を開いた。
「もちろんです」
「どうして毒があると判断されたのですか」
「水の周囲に、卵が腐ったような強い臭気が漂うためです」
硫黄だ、という答えが頭の中で即座に出てしまったけれど、それは口には出さないでおいた。
「ほかには?」
「季節や天候によって水が白く濁り、底や縁に白いものが付着することがあります」
それはどう考えても湯の花だし、そこまで成分が析出しているのなら、温度と湧出量さえ足りていれば、そのまま浴槽へ引ける見込みが十分にある。
「人が飲んで倒れた記録などはありますか」
「古い記録には見当たりませんが、百年以上前から泉の周囲へ近づくこと自体が禁じられています」
百年以上のあいだ誰も使っておらず、しかも柵で囲われたまま放置されているということは、言い換えれば、まだ誰にも取られていないということだった。
「泉の水は冷たいのですか、それとも温かいのですか」
「……温かい、と記録されています」
若い役人がそう答えた瞬間、わたしは危うく頬が緩みかけて、慌てて奥歯に力を入れた。
温かく、硫黄の匂いがして、白く濁る水が自然に湧いている場所を、この国では毒の泉と呼んで百年以上も封じたままにしているらしい。
「古い湯治場ということは、水を溜める設備も残っているのでしょうか」
「石造りの水槽が二つありますが、どちらも使用禁止です」
二つもあるのなら、片方を源泉に近い温度で使って、もう片方へ少し冷ました湯を流すという分け方ができるし、状態が悪ければ最初から造り直してもいい。
「建物は?」
「管理棟のほか、使われていない小屋が数棟ございます」
蒸気を引けるならそのうちのひとつを蒸し風呂にできるだろうし、沢が近ければ水風呂も作れるし、土地に高低差があるなら打たせ湯まで試せる。
「テア」
アルノーに呼ばれて、わたしは自分が少し前のめりになっていたことに気づいた。
「本当に、私から掛け合わなくていいのか」
気持ちはありがたかったけれど、いま任期を短くされてしまってはこちらが困る。
五年も好きにしていい土地と誰も使っていない温泉が同時に手に入る機会など、少なくとも前世では一度も巡ってこなかった。
「大丈夫です」
わたしはできるだけ殊勝に聞こえる声を選んで、そのまま深く頭を下げた。
「五年の任、謹んでお受けいたします」
その場にいた者たちの多くは、テア・ブルクハルトが思いのほか静かに処分を受け入れたことへ安堵した。
兄が庇っても翻意しなかったのだから、本人なりに自らの振る舞いを省みたのだろうと考えた者が多かった。
ただ一人、資料を説明していた若い管理局員だけが、毒の泉の温度について答えた直後の顔を思い出していた。
「あの令嬢、いま笑わなかったか」
隣にいた同僚へ小声で尋ねると、「まさか、これから毒の泉へ行く方だぞ」と返され、その話はそこで終わった。
数日後、わたしは北部グラウエン地方へ向かう馬車の中で、窓の外を流れる景色を眺めていた。
向かいには王都から唯一ついてきてくれた侍女のグレタが座って、膝の鞄を抱えたまま何度目か分からない溜息をついている。
「お嬢様、本当に五年もお過ごしになるおつもりですか」
「任期だから、そのつもりよ」
「毒の泉へは、決して近づかないでくださいませ」
「温度も湧く量も分からないのに、近づかないという判断はできないでしょう」
グレタが何とも言えない顔になったので、わたしは窓の外へ視線を戻した。
まず欲しいのは露天風呂で、雪の多い土地なら屋根のない浴槽をひとつは確保したいし、湯気が十分に出るなら蒸し風呂も試してみたい。
高低差が取れるなら打たせ湯、薬草が採れるなら薬湯、冷たい沢が近ければ水風呂、長く浸かれない人には足湯まで作れる。
泉質を確かめたあとには湯上がりに出すものも考えたいし、冷たい飲み物が用意できるなら嬉しいし、できれば牛乳も欲しい。
全部をすぐにというわけにはいかないから、まずは泉を見て、次に水槽を調べて、そのあとで水の流れと建物の状態を確かめる。
「お嬢様」
「なに?」
「先ほどから、とても楽しそうですね」
「気のせいよ」
王宮祭祀局の倉庫ではその頃、老吏のヘニングが水盤の破片を厚い布の上へ並べて、修復できる部分とできない部分を分けていた。
四十年にわたって祭具を預かってきた彼にとっても、この水盤の割れ口まで覗き込むのは今回が初めてだった。
「やはり、ここだけ厚いな」
底に当たる部分は側面の倍近い厚さがあり、強度を持たせるためにしては内側の層が不自然に分かれていたので、彼は欠けた部分へ細い刷毛を入れて陶器の粉を慎重に落としていった。
白い陶器の層の下から、黒ずんだ薄い板の端が現れた。
金属にも木にも見えたが、長い年月を陶器の内側で過ごしたせいで表面には汚れがこびりついていた。
ヘニングは無理に剥がそうとはせず、割れ目から見えている箇所だけを布で拭って、古い接着材らしきものを小さなへらで取り除いた。
汚れの下から、黒い板の表面に刻まれた細い線が少しずつ浮かび上がってきた。
文字だった。
現在のカルステン王国で使われている文字ではなく、祭祀局で古文書を四十年扱ってきたヘニングにも、その並びを読むことはできなかった。
それでも複雑に曲がった線を眺めているうちに、以前この倉庫の最奥で整理した古い記録箱の中に、よく似た文字を写し取った紙が入っていたような気がしてきた。
北部の、すでに廃止された施設についてまとめられた箱だった。
ヘニングは水盤の破片から目を離さず、ゆっくり眼鏡を押し上げた。
「……この文字は」
読んでくださりありがとうございます!
・本作を★★★★★で評価
・ブックマーク
この二つで応援していただけると、とても励みになります。




