第10話 間伐材
翌朝になって、いつもなら日の出とともに来ているはずのボリスが、湯治場のどこにもいなかった。
管理棟の前に置かれている薪も増えていない。
ピナに聞いても、村では見ていないという返事だった。
昼を過ぎても戻らず、さすがに少し心配になりかけたころ、ボリスは斜面の上から、肩に細い木を三本ばかり担いで現れた。
どれも腕くらいの太さしかない。
薪にするには細く、材木にするにはもっと頼りない。
「これ、どこの」
「森」
「森のどこ」
「上のほう」
説明する気がないというより、この人の中では「森の上のほう」で全部通じるらしい。
ボリスは三本を地面へ置き、腰の鉈でそのうちの一本を割ってみせた。
割れた面を覗く。
乾き方はそれほど悪くなく、火を熾すぶんには十分使えそうだった。
「間伐材ですか」
通りかかったオットーが、切り口を見てそう言った。
「間伐」
「林を育てるために、育ちの悪い木を途中で切ります。細いので売り物にならず、多くは切ったまま置かれます」
ボリスは説明を引き取るでもなく、そのとおりだという顔で一度だけ頷いた。
置かれたままになっている理由についても、オットーの説明は簡単だった。
細い木は、一本から取れる薪が少ない。
山から村まで運び下ろす手間を考えると、売った金より運ぶ手間のほうが重くなる。
だから切った者もその場に置き、何年もかけて土へ戻るのを待つ。
「では、村の人は誰も要らないと思っている」
「要らないのではなく、割に合わないだけです」
「同じことでは」
「違います。売り物にならないことと、持ち主がいないことは別です」
そこで、ようやく線が見えた。
「割に合えばいいのね」
オットーも、こちらの考えに気づいたらしい。
湯治場から森の上のほうまでは、村から運ぶ道のりの半分にも満たない。
斜面を下ろすだけなら荷車も要らないし、ボリスに言わせれば、雪が積もったあとのほうがむしろ滑らせやすい。
「運び賃が要らないなら、成立しますか」
「成立します」
オットーは即答してから、ただし、と続けた。
「あの林は村の共有です。勝手に持ち出せば、面倒なことになります」
共有林は村全体のものなので、誰か一人の判断で外の人間に使わせることはできない。
オットーが持ってきた村の取り決めによれば、家ごとに冬用の薪を取れる量が決まっていて、太い木を切るときには顔役の許可が要る。
間伐材は少し扱いが違った。
共同作業で出たものは一定の期間その場へ置いたあと、村の共同財産として処分できる。
放置されているように見えても、持ち主が消えたわけではない。
「では、誰に話を通せばいいの」
「顔役です。この村の場合は、共有林の割り当ても顔役が仕切っております」
その顔役の家の息子というのが、翌日の朝いちばんに湯治場へ現れた。
「あんたが、王都の令嬢か」
二十歳を少し過ぎたくらいの男で、外套の着方が雑で、朝から妙に声が大きかった。
「ラルフっていう。うちの親父が、このへんの顔役やってる」
名乗るなり蒸し風呂の小屋を覗き込み、湯気に顔を突っ込んで、うわ、と言って引っ込めた。
「これ、じいちゃんが入ったやつだ」
「肘の」
「そう。うちのじいちゃん、五年くらいずっと腕が上がらなくてさ」
そこで一度、蒸し風呂の戸を見た。
「今日も蒸す小屋に行くって言ってる」
蒸す小屋。
村ではもう、その呼び名で定着しかけているらしい。
ラルフはこちらが何も聞いていないうちから、祖父の話をひととおり喋った。
肘が痛くて畑仕事ができなくなったこと。
家の中で座っている時間が長くなったこと。
本人がそれをずいぶん気にしていたこと。
そして一昨日の夜、久しぶりに自分から棚の上のものを取ったこと。
「それだけなんだけどさ」
ラルフはそこで少しだけ声を落とした。
「それだけなんだけど、うち、けっこう驚いたんだよ」
わざわざ朝いちばんにここまで上がってきた理由は、たぶんそれで全部だった。
「間伐材の話、聞いた」
「早いのね」
「ピナが喋ってた」
この土地の情報は、王都へ出す書面よりずっと速く動くらしい。
「親父に話は通す。共有林の細いやつなら、置いといても腐るだけだし」
「それは助かるわ」
「ただ、こっちからも一つ」
そこでラルフは、それまでの調子のよさを少しだけ引っ込めた。
「村のもんが、あの湯気の小屋をタダで使えるようにしてくれ」
断る理由はなかった。
むしろ人が来れば、記録も増える。
その場で頷きかけたところへ、オットーが割って入った。
「お待ちください」
「なんだよ」
「口約束では、後で必ず揉めます」
オットーが詰めたのは、こちらが考えてもいなかったところばかりだった。
村の者とはどの範囲か。
一度に何人まで入るのか。
利用できる時刻は。
怪我や体調の異変が起きたとき、誰が判断するのか。
「そこまでやんの」
「やります」
「面倒くさいなあ」
「面倒を先に済ませておくほうが、あとで揉めるより楽です」
結局、その日の午後いっぱいかかって紙が一枚できあがった。
村の住人は蒸し風呂を無償で利用できる。
一度に入るのは四人まで。
日の出から日没前までとし、子供だけでの利用は認めない。
水槽へ入る場合はクレメンスの帳面に名前を残し、体調に異変があった場合の判断はクレメンスへ任せる。
持ち出せる間伐材は村の冬用備蓄を侵さない範囲とし、量は村側が毎月確認する。
「責任の所在は」
オットーが聞くと、ラルフが初めて困った顔をした。
「責任って」
「森で怪我をした場合、それが湯治場の作業なのか、村の共同作業なのかで扱いが変わります」
そこまでは考えていなかったらしい。
間伐材を運び下ろすところまでは、村の共同作業。
湯治場へ着いたあとの加工と保管は、こちらの責任。
その代わり、共有林の間伐材のうち、湯治場まで運び下ろした分は湯治場で使ってよい。
その線でまとまった。
ラルフは最後まで面倒くさそうな顔をしていたけれど、署名するときだけは、やけに丁寧に自分の名前を書いた。
「あんた、字が書けるのね」
「馬鹿にすんなよ」
「褒めているのよ」
紙のいちばん下まで目を通したところで、以前あの神官様に言われたことを思い出した。
利用と書いた以上、いずれ誰が入るのかを問われる。
いまなら、その問いに答えられる。
村の住人が利用している。
しかも、それを裏づける紙まで一枚できた。
三日後、村の若い衆が七、八人で森の上から細い木を下ろしてきた。
斜面を滑らせて運ぶやり方はボリスが教えた。
雪の少ない場所では枝を敷いて滑らせ、急なところでは縄を掛けて速さを殺す。
降ろした木は管理棟の横へ積み上げ、その日のうちにボリスとラルフが割れるだけ割った。
ボリスは一本ずつ切り口を見て、三つの山へ分けていく。
いちばん細いものは、そのまま焚き付け。
少し太いものは二つか四つに割る。
まだ湿っているものだけは、屋根の残っている場所へ積んで乾かす。
鉈の使い方も、ボリスは一度割って見せたあと、すぐ相手に持たせた。
ラルフは三本目にはもう形になっていた。
その日の夕方、これまで一度も使われていなかった管理棟の土間に、初めて火が入った。
蒸し風呂から出てきた人が、濡れた髪のまま外へ出ず、火のそばへ座って乾くのを待つ。
すると当然のように、待っているあいだに話が始まった。
誰それの畑が今年は駄目だった。
坂の途中の木が倒れかけている。
そんな話を、湯気で赤くなった顔のまま並んでしている。
濡れた上着を火の近くへ掛けた男は、クレメンスに肩の具合を聞かれながら、次は妻も連れてきたいと言った。
ピナは人のあいだを走り回り、今日は誰が何百まで入ったかを、頼まれてもいないのに全員へ報告している。
わたしは、その光景をしばらく見ていた。
欲しかったのは、湯船だけではなかったらしい。
湯がある。
火がある。
上がったあとに座る場所がある。
そこで、人がいつまでもどうでもいい話をしている。
そういうところまで含めて、わたしの知っている湯屋だった。
「お嬢様」
グレタが横に立って、同じほうを見た。
「なに」
「薪が、いま何束ございますか」
「知らないわ。数えているのはオットーでしょう」
「五十四束です」
いつのまにか後ろにいたオットーが即答したので、わたしとグレタは同時に振り返った。
「まだ必要量の八分の一にも届きません」
「そうね」
「ですが」
オットーは一度、土間のほうを見た。
「買った分の支出は、いまのところ金貨ゼロ枚です」
この人が数字のあとに、わざわざそんな一言を足すのは珍しかった。
土間の火のそばでは、ラルフが村の誰かを相手に大声で笑っていた。
四百五十束には、まだ遠い。
けれど昨日まで買うしかないと思っていた薪が、今日は村の人間の手でここへ運ばれてきている。
帰り際、ラルフはこちらへ寄ってきた。
「なあ」
「なに」
「明日、村の年寄り連れてきていいか」
薪の話をしに来たはずなのに、最後に聞かれたのは湯のことだった。
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