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毒の泉しかない土地に追放されましたが、あれ温泉なので大歓迎です ~前世が温泉オタクの令嬢、辺境で湯屋を作ります~  作者: とんこつしょうゆ


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第11話 湯守様

 翌日ラルフが連れてきたのは年寄りが四人と、その付き添いらしい若い人が三人で、全部で七人だった。


 取り決めでは蒸し風呂へ入れるのは一度に四人までなので、朝からもう溢れている。


 オットーは管理棟の前へ立つと、来た順に名前を書きはじめた。


「一組目は四人。次の組は、前の四人が出てからです」


「そんなの誰が決めたんだよ」


「四日前に、あなたが署名しておられます」


 ラルフが隣の男に肩を小突かれているあいだ、わたしは土間のほうを見ていた。


 長椅子は二つしかなく、待っている人が全部使えば、湯上がりの人が座る場所がなくなる。


「椅子が要るわね」


「作ります」


「ボリスが?」


「ラルフさんが」


「俺?」


 本人が初めて話に入ってきたころには、もうそういうことになっていた。


 その日のうちに長椅子の片方が待つ人のために移され、ピナが入口で名前を呼び、オットーが人数と時刻を書き留めるようになった。


「湯屋より先に、受付ができたわね」


「それが普通でございます」


 グレタがそう言うのなら、たぶんこの世界でも普通なのだろう。


 年寄りは四人とも蒸し風呂へ入り、四人とも水槽には入らなかった。


 ひとりだけ帰り際に水槽の縁まで来て、湯へ手を入れた人がいた。


 しばらく黙って手を浸したあと、その人は何も言わずに帰っていった。


 クレメンスは名前を書き込むと、湯でも湯気でもない三つ目の欄を作った。


「触っただけ、という欄です」


「そんな欄まで要るの」


「要ります。この方は、そのうち入られます」


「なぜ分かるの」


「入る前の人は、一度触ります。ボリスさんもそうでしたし、わたしもそうでした」


「先生も?」


「三度ほど」


 この人は自分が怖がっていた時期まで、平然と記録の材料にするらしい。


 雪が本格的に降りはじめたのは、それから二日後だった。


 朝、柵の外を通ると、冬の祈祷の日にヨナスが立っていた場所だけ土が固く踏まれ、その上へ薄い雪がまだらに残っていたが、わざわざ消すものでもないのでそのままにした。


 北の雪は降っているうちは軽く、積もってから少しずつ重くなる。


 最初に気になったのは樋だったけれど、見に行ってみると湯が流れ続ける蓋の上には雪が積もらず、泉から水槽まで黒く濡れた線だけが斜面を下っていた。


「きれい」


「そうね」


「あれ、村からも見えるよ」


「見えるでしょうね」


「いいの?」


「見えるものは、そのうち見慣れるでしょう」


 以前は遠くから見える湯気が問題になった。


 今度は雪の中に、湯の通り道そのものが見えている。


 隠すつもりは最初からなかったので、それは構わなかった。


 困ったのは、村からここまでの坂だった。


 雪が積もると足元が滑り、昨日まで来ていた年寄りが三人とも姿を見せなくなった。


 そして来られなくなった人ほど、たぶんここを必要としている。


 管理棟の屋根は、わたしたちが来たときから三分の一ほど落ちたままだった。


 正直に言えば、わたしはそこを直す気がなかった。


 屋根がなければ、その下へ湯船を置ける。


 雪を見ながら入る露天風呂になる。


 ただ、その理由で人を動かすのはさすがに難しい。


「雪で帰れなくなる人が出るなら、泊まれる場所が要るわね」


 そう言うと、グレタがこの土地へ来てから初めて、すぐに頷いた。


「日が落ちてからお帰しする危険を考えれば、二階は使えるようにしたほうがよろしゅうございます」


「屋根を直さないと使えないわね」


「そうなります」


「では、直しましょう」


 グレタはそこで少し黙った。


「なに?」


「お嬢様は、あの屋根を直す気がないものと思っておりました」


「どうして」


「一度も、直そうとおっしゃらなかったからでございます」


 二か月も一緒にいると、侍女というのはずいぶん余計なところまで見るようになるらしい。


 修繕用の木材は共有林の間伐材では足りないので、太い材の分だけ村へ代価を払うことになった。


「修繕のための木材費です」


「屋根なのに?」


「屋根ですからです」


 オットーは、こういうところでは相変わらず話が通じない。


 ボリスと村の若い衆が二日かけて梁を入れ替え、落ちていた部分へ新しい板を張り、二階の床まで直した。


 そして屋根の端、一間ぶんだけを、わたしは張らせなかった。


「ここは」


「開けたままで」


「雪が入る」


「入っていいの」


「濡れるぞ」


「濡れていいのよ」


 ボリスは少しだけこちらを見たあと、それ以上は聞かなかった。


 代わりに開けた部分の周囲だけ、雨や雪が余計なところへ回らないよう丁寧に納めていく。


 この人はたぶん、こちらが何をしようとしているのか分かっている。


 聞かなかったのはボリスだけで、オットーは違った。


「あの一間は、報告書に何と書けばよろしいですか」


「未修繕で」


「未修繕の理由は」


「……工期の都合」


「承知しました」


 全部分かっていて、それでも紙に収まる言葉を選ぶところは、この人なりの協力なのだと思う。


 開けた屋根の真下へ、三つ目の湯船を作った。


 床板を剥がすと古い石組みが出てきたので、百年前にもここには何かあったのかもしれない。


 二つ目の水槽から樋を分け、いちばんぬるい湯を流す。


 大人が四人ほど入れる広さで、肩まで沈める深さにした。


 縁は広く取った。


 雪の中で上がったあと、立ったまま身体を拭いていては冷える。


 腰を下ろしたまま布を使える幅が要る。


 クレメンスに言われなくても、湯から出たあとのほうが大事だということを、こちらもようやく覚えてきた。


 完成したものを見たグレタが、開いた屋根を見上げた。


「わざとだったのですね」


「なにが」


「屋根を直さなかったところです」


「全部塞いだら、空が見えないでしょう」


 グレタは何か言いかけ、途中でやめた。


 たぶん説明するのを諦めたのだと思う。


 湯を張り終えた日の夕方、都合よく雪が降りはじめた。


「ボリス」


「ああ」


「入ってみて」


「ああ」


「熱かったら言って」


「ああ」


 この人はもう、なぜ自分なのかとは聞かない。


 肩まで沈んだボリスの上へ、開いた屋根から雪が落ちてくる。


 白いものは肩へ触れた瞬間に消え、そのたびに湯気がわずかに揺れた。


 わたしは外からそれを眺めた。


 入りたい。


 ひどく入りたい。


 けれど管理人が湯あたりで倒れたという話が村へ広まれば面倒なので、数を数えて我慢した。


「どうですか」


 ボリスは空を見たまま、しばらく答えなかった。


「……冬が」


「冬が?」


「冬が、こんなに静かだとは思わなかった」


「静か」


「森にいたころも、冬は音がしなかった」


「同じでは」


「あれは、寒くて音がしないんだ」


 寒いから静かなのと、温かい場所から雪を見る静けさとは違う。


 その違いを説明したのがボリスだったことのほうに、わたしは少し驚いた。


 この人がこんなに長く喋るのを、初めて聞いた気がする。


 戸口では、村の年寄りが何人か屋根の穴を見上げながら、誰が最初に湯船へ入るか相談を始めていた。


 蒸し風呂までは来るけれど、湯へは入らない。


 その線が、また少し動いたらしい。


「ずるい」


 ピナが戸口から言った。


「明るいうちにね」


「ほんと?」


「ただし服を着て、足だけ」


「ほんと?」


「二回言わなくても本当よ」


 その日の土間は、いつもより長く人が残った。


「湯守様、薪はどこへ置けばいいですか」


 背中から声をかけられ、壁際でいいですと答えてから、それが自分のことだと気づいた。


「湯守様、蒸す小屋はまだ空いてるか」


「あと二人入れるよ」


 ピナは、もう何度もそう呼ばれているような顔で返事をした。


「湯守様。明日の朝、道の雪は掻いとくから」


 ラルフまで同じ呼び方をする。


 その場にいた人たちには、こちらを呼ぶ言葉が要っただけなのだろう。


 王都の令嬢より短く、管理人よりここで何をしている人なのかが分かりやすい。


 それで十分だったらしい。


 火の向こうでグレタがこちらを見ていた。


「なに?」


「いえ」


 クレメンスは帳面から顔を上げないまま、その呼び名を欄外へ書き留めていた。


 あとで誰が最初に言ったのか聞いても、答えはばらばらだった。


 ただ雪が降りはじめた週のうちに、その呼び名は村の中へすっかり広がった。


 その晩、全員が帰ったあとで、わたしは露天へ出た。


 昼のうちにグレタへ頼んでおいた湯浴み着もできている。


 麻を二重にして裾へ重しを入れれば、湯の中でも浮き上がらない。


「湯あたりなさいます」


「百まで一度だけよ。数えていて」


「数えますが、賛成はしておりません」


 誰もいないなら、倒れて村の噂になる危険も減る。


 そういう問題ではありません、というグレタの顔は見ないことにした。


 湯へ入った瞬間、ここまでのことが全部どうでもよくなった。


 外の空気は息を吸うと鼻の奥が痛いほど冷たいのに、首から下だけが湯に包まれる。


 顔は冷たい。


 身体は温かい。


 見上げれば、四角く切り取られた空から雪が落ちてくる。


 一つが額へ触れ、その場で消えた。


 これだ。


 王都で水盤を割ってから、二か月。


 ようやく欲しかったものができた。


「お嬢様。九十でございます」


「もう?」


「九十一、九十二」


 グレタはピナより数えるのが速い。


 それから人のいない時刻に短く入ることだけは、黙認されるようになった。


 雪は三日ほど降り続き、村からの道は日に日に細くなった。


 四日目の朝、ピナがいつもより早く土間へ飛び込んできた。


「湯守様」


「あなたまでそう呼ぶの」


「みんな言ってるもん」


「昨日までお嬢様だったでしょう」


「お嬢様は、王都の人みたいだから」


 この子は、たまにこちらが返事に困ることを何でもない顔で言う。


 ピナは外套の雪も払わず、思い出したように続けた。


「あのね、神官様が来てるよ」


「こんな朝に?」


「ううん」


 ピナは首を振り、まだ暗い外を指さした。


「毎晩、来てる」

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