第12話 夜の人影
毎晩、という言葉について、わたしはまずピナに確認しなければならなかった。
「毎晩というのは、本当に毎晩?」
「三日前から。うちの兄ちゃんが、夜に村の道を通ると見るって」
「昼ではなくて」
「昼は来てない」
神官が封印の状態を見に来るのは年に四度で、そのうちの一度は雪が深くなる前と決まっているはずだった。
その巡回はもう済んでいるし、次に来るのは春先の予定で、そもそもここまでは本院から半日かかる。
半日かけて登ってきて、夜のうちに帰るというのは、どう考えても割に合わない。
「何をしてるの」
「柵のとこに立ってる」
「それだけ?」
「それだけ。しばらくして、帰る」
封印の状態に何か不安があるのかもしれないと、そのときのわたしは思った。
照会が王都で係属中である以上、あの人の側にも本院へ書かなければならないことがあるはずで、雪で柵が傷んでいないかを確かめに来ているという説明なら筋は通る。
ただ、それを三晩続ける理由までは説明できなかった。
考えていても分からないので、その晩、わたしは湯屋のほうへ出てみることにした。
「お供いたします」
「寒いわよ」
「だからでございます」
グレタは有無を言わせずに外套を二枚持ってきて、そのうちの厚いほうをこちらへ着せた。
雪は止んでいたけれど、月が出ていないわりに外は妙なくらい明るかった。
積もった雪が空のわずかな光を拾い上げているので、灯りがなくても足元が見える。
止まった白い景色のなかで、動いているものは湯気だけだった。
露天の湯船からも、水槽からも、蒸し風呂の抜き穴からも、それぞれ違う高さで白いものが上がっている。
人影は、柵の外ではなく、屋根を開けた露天がいちばんよく見える位置に立っていた。
「神官様」
声をかけると、ヨナスはこちらを振り返った。
一瞬、いつもの人とは違って見えた。
昼に会うときは祭服を整え、背筋を伸ばし、こちらへ何かを告げるために立っている人だった。
いまは雪の中にひとりで立ち、肩には溶けた雪が染みている。
この人がひとりでいるところを見たのは、たぶんこれが初めてだった。
「夜分に、失礼しております」
声はいつものヨナスだったので、わたしもいつもの調子に戻った。
「こちらの台詞です」
外套は一枚だけで、雪の上に立っていた時間のほうは、たぶんそれなりに長い。
肩と帽子のあたりに、溶けた雪が濡れた跡を残していた。
「封印の確認でしたら、昼のほうがよく見えると思いますが」
「そうですね」
「では、なぜ夜に」
「昼は、人がおりますので」
その答えは、こちらが構えていたよりもずっと正直だった。
昼に来れば、湯を使いに来ている村の人が必ず誰かしらいる。
湯を止めろと要請した張本人が湯屋の周りをうろついているところを見られるのは、この人の立場ではたしかに都合が悪い。
「では、いま確認なさっているのは」
「柵に、雪の重みがかかっていないかどうかを」
「柵は、あちらですけれど」
わたしが斜面の上のほうを指すと、ヨナスは一瞬だけ黙った。
彼が立っているのは柵から二十歩ばかり離れた場所で、しかも向いているのは柵ではなく、屋根の開いた露天のほうだった。
「……順番に、見ております」
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。
柵を見に来たというのは、たぶん本当なのだろう。
ただ、それだけではない。
それだけは妙にはっきり分かるのに、では何なのかとなると、まるで見当がつかなかった。
「屋根を、開けておられるのですね」
こちらが黙っていると、しばらくしてからヨナスのほうが言った。
「工期の都合で」
「工期」
「そう報告しております」
こちらとしては、この件について嘘は一つも言っていない。
オットーが本当にそう書いたので、書類の上ではそれが事実になっている。
「雪が、そのまま入るでしょう」
「入ります」
「湯へ、雪が」
「落ちた雪は、湯に触れた瞬間に消えます」
ヨナスは露天へ目を戻した。
風のない夜だったので、湯気は白い柱のまま立ち、その途中を落ちてくる雪が横切っていくのが遠くからでも見えた。
この人はさっきから、その一点ばかり見ていた。
話しているあいだ、ヨナスは一度も立ち位置を変えなかった。
変えなかったというより、そこから離れたくないようにも見えた。
彼が立っているのは露天から流れてくる湯気が、ちょうど地面を這って届くあたりだった。
風向きが変わって湯気がそれると、そのたびに肩の位置がわずかに上がり、また戻ってくると下がる。
「神官様は、湯に入られたことがありますか」
特に考えて聞いたわけではなかった。
この人があまりに長く湯面を見ているので、そのまま口から出た。
表情が変わったわけではない。
ただ、返事までの間だけが、それまでのどのやりとりよりも長かった。
「……ありません」
「そうですか」
それきり、話は途切れた。
答えより、そのあいだの沈黙のほうが長く残った。
「神官様。中で話しませんか」
「中」
「土間に火があります。ここは寒いでしょう」
ヨナスはこちらを見て、それから、はっきり首を横に振った。
「結構です」
「本院までは半日でしょう。この雪では」
「夜は町まで戻りません。近くの礼拝所を借りております」
それなら帰り道の心配は少ない。
けれど、雪の夜に外套一枚でここへ立ち続ける理由にはならなかった。
「このままでは、風邪をひかれます」
「慣れておりますので」
その言い方が妙にひっかかった。
寒さに慣れているというのは、要するに寒い場所に長くいたということで、それはあまり胸を張って言うようなことではない。
「火にあたるだけです。湯には触れません」
「……申し訳ありません」
断る理由については、最後まで言わなかった。
わたしもそれ以上は勧めなかった。
ただ、この人が何かを我慢しているらしいということだけは分かった。
何を我慢しているのかは、やはり分からない。
帰り道でグレタに聞いてみると、この子は少し困った顔をした。
「お嬢様がお気づきにならないほうがよろしいこともございます」
そういう言い方をされると余計に気になるのだけれど、追及したところでこの子は絶対に喋らない。
部屋へ戻ったあと、わたしは露天から流れてきた湯気のことを考えた。
あの場所まで熱が届いているなら、風向きによっては露天の熱がかなり外へ逃げている。
風の抜ける側に囲いを作れば、それだけで湯温は保てるはずだった。
紙を出して、幅と高さを計算した。
それで済むはずだった。
ところが途中で、雪の中に立っていたヨナスの姿が一度だけ頭へ戻ってきた。
雪の中にひとりで立っていた姿と、湯気がそれるたびに上がっていた肩。
筆が止まった。
わたしは幅と高さの続きを書いた。
翌日になって、クレメンスに前の晩のことを話してみた。
夜に神官様が来ていること、柵ではなく露天のほうを見ていたこと、火のある土間へ入るのを断ったこと。
クレメンスは帳面を開いたまま、最後まで黙って聞いた。
「どう思いますか」
「……そうですね」
彼は明らかに何かを言いかけ、それから口を閉じた。
「先生」
「患者でない方の身体について、本人以外へ申し上げるわけにはまいりません」
たぶんそれが、この人にできるかぎりの答えだった。
その言い方だけで、身体のことなのだとは分かってしまった。
グレタが言っていたのも、たぶんこれのことだろう。
けれど、その先についてこの人が絶対に動かないことも、この二か月で十分知っている。
「では、診れば分かりますか」
「診せていただければ」
「診せてくださらないと思います」
「……でしょうね」
クレメンスは帳面を閉じ、そのあと一度だけ露天のほうへ目をやった。
「ブルクハルト嬢。ひとつだけ、一般論を申し上げます」
「はい」
「寒さに慣れている、とおっしゃる方は、たいてい慣れておられません」
「では、何が起きているのですか」
「一般論としては、慣れたのではなく、痛みや冷えを訴えても仕方がない場所に長くいた、という場合が多いというだけの話です」
「たとえば」
「たとえば、そう申し上げるのが務めであるような場所です」
それだけ言うと、彼はまた帳面を開いた。
その夜も、ヨナスは来た。
外へ出ると、昨日とほとんど同じ場所に、同じ向きで立っていた。
立つ場所まで覚えていたらしい。
違っていたのは雪のほうで、この晩は風があり、湯気が斜めへ流れている。
「神官様。今日はもう、お戻りになったほうがいいです」
「あと少しだけ」
「何を確認しておられるのですか」
その問いに対してだけは、いつまで待っても答えが返ってこなかった。
風に押された湯気がこちらへ流れてきて、その白い中で一瞬だけ彼の姿が見えなくなる。
次に見えたとき、ヨナスは片手を腰の後ろへ当てていた。
ほんの短いあいだのことで、こちらへ顔を向ける前には、もう手を離している。
「神官様」
「何でもありません」
そう言って一歩踏み出したとき、右の足が雪の上でわずかに止まった。
転んだわけではない。
ただ、次の一歩を置くまでが明らかに長かった。
考えるより先に、わたしは一歩前へ出ていた。
けれど触れるより先に、ヨナスは姿勢を戻した。
入口で灯りを提げていたグレタがすぐに寄ってきて、少し離れたところから見ていたピナまで走ってきた。
ヨナスは何事もなかったという顔で斜面の道のほうへ向き直った。
その背中に、ピナが声を投げた。
「神官様。その足で、下まで歩くの?」
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