第13話 ヨナス様
その足で下まで歩くのか、というピナの問いに、ヨナスは大丈夫ですと答えた。
けれど、その返事があまりにも早かったので、かえって大丈夫でないことがはっきりした。
実際、次の一歩を踏み出すまでには、こちらが十を数えるくらいの時間がかかっていた。
雪の積もった斜面を下りるのは、平らなところを歩くよりずっと脚に負担がかかる。
痛めているのが膝なら、登りより下りのほうが悪い。
「ピナ。クレメンス先生を呼んできてくれる?」
「先生、村だよ」
「なら、村まで行ってきて」
「俺が行く」
ボリスは言い終わる前にもう歩き出していた。
その動きの速さから察するに、この人も前から気づいていたらしい。
「お待ちください。それには及びません」
ヨナスが言ったときには、ボリスの背中はもう雪の中にあった。
「ご迷惑を、おかけしております」
この人が最初に口にしたのは、痛みのことでも助けを求める言葉でもなく、迷惑をかけたという詫びだった。
そういう順番でものを言う人がいちばん厄介だということは、この二か月ほどでいくらか学んでいた。
ただ、厄介だと思うより先に、なぜこの人はいつもそちらを先にするのだろう、と思った。
クレメンスが着いたのは、それから半刻ほど経ってからだった。
彼は挨拶も前置きもなしに管理棟の土間へ入り、長椅子に座らされていたヨナスの前へ鞄を置いて、そのまま膝をついた。
「診せていただきます」
「立ったままで結構です」
「患者が診察の方法を決めないでください」
クレメンスがこういう言い方をするのを、わたしは初めて聞いた。
ヨナスは何か言いかけ、それから抵抗しても意味がないと判断したらしく、黙って外套の前を開けた。
膝を診るのに時間はかからず、クレメンスは片方を一度曲げ伸ばしさせただけで、これは古いものですねと言った。
「何年ですか」
「……七年ほどかと」
「七年」
「はい」
腰のほうを診ているあいだに、クレメンスの手が一度止まった。
腰ではなく、その少し下、脚の付け根に近いあたりだった。
「これは、凍傷の痕ですね」
ヨナスは答えなかった。
答えないことが答えになる場合もある。
「両脚に、ほとんど同じ高さで残っております。長いあいだ、冷たいものの上に座っておられましたか」
「……務めのうちです」
「何刻ほど」
「日の出まで」
その答えを聞いた瞬間、わたしは昨夜の言葉を思い出した。
慣れておりますので。
あれは強がりですらなかったのかもしれない。
本当に、この人にとってはそうすることが普通だったのだ。
七年という数字より、そのことのほうが妙に胸に残った。
クレメンスはそれ以上聞かず、帳面へ淡々と書き込みはじめた。
責める言葉は一つも出なかったけれど、書いている手の速さだけが、いつもとまるで違っていた。
そのあいだにも雪は降り続き、戸を開けるたびに、村へ続く坂道が確実に細くなっていた。
「今夜は下りられません」
クレメンスが言い切ると、ヨナスは間を置かずに断ろうとした。
「礼拝所へ戻ります」
「その足でですか」
「歩けます」
「歩けるかどうかではなく、途中で止まったらどうなるかという話をしております」
その議論が続いているあいだに、ボリスは外套を抱えて二階へ上がっていった。
グレタは寝具を出し、ピナは湯たんぽ代わりの石を火の中へ入れはじめ、誰ひとりヨナスの返事を待っていなかった。
「お待ちください」
「ボリスは、待たないと思います」
実際、そのときにはもう階段の半分まで上がっていた。
「あの、わたしはまだ何も」
「二階の東の部屋が、いちばん暖かいそうです」
「ですから」
「階段は、上がるとき右手に手すりがあります」
わたしが言えるのはそれくらいで、あとは全員が勝手に動いていた。
この土地の人は口では何も言わないくせに、こういうときだけ動きがやたらと速い。
ヨナスは最後まで困った顔をしていたけれど、その困った顔のまま、断る機会を一つずつ失っていった。
湯の話が出たのは、遅い夕食が済んで、土間の火が落ち着いてきたころだった。
「治療として、湯に入られるべきです」
クレメンスの言い方は、提案というより処方だった。
「膝も腰も、冷えたまま朝を迎えれば明日はもっと悪くなります。温めるのがいちばん早い」
ヨナスはすぐに首を横へ振った。
「……できません」
「なぜです」
「わたしは、この湯を止めるよう申し上げた者です」
「それは、立場の話でしょう」
「立場の話です」
そこで会話が止まった。
クレメンスも、この人の言っていることが立場だけの話ではないと気づいたらしい。
わたしは湯温を書いた帳面を見ながら、昨夜からのヨナスを順番に思い出した。
夜にだけ来る。
湯気の届く場所に立つ。
火のある土間には入らない。
湯へ入ったことがあるかと聞いただけで、答えるまでにあれほど時間がかかった。
この人に必要なのは説得ではないのかもしれない。
入ってもいい理由が、ひとつあればいい。
「神官様」
「はい」
「困ったことが、ございまして」
「……なんでしょう」
「王都へ出した照会の件で、利用者の状態について報告を求められることになりそうなのです」
そこまでは本当で、オットーも以前そういう見立てを口にしていた。
「ただ、こちらで書いた記録だけでは、身内が身内を測っているのと変わりません」
「それは、そうかもしれませんが」
「封印を管理しておられる方に一度でも実際の状態を確認していただけると、書面の重みがまるで違います」
ヨナスがこちらを見た。
いま差し出されたものが何なのか、完全に理解している顔だった。
「……それは、職務としての確認ということですか」
「職務として、です」
「治療では、ないと」
「どちらでも構いません」
眉がわずかに動いた。
建前は差し出す。
けれど、それを純粋な建前として扱ってやるつもりまではない。
それも伝わったらしい。
「……分かりました」
そう答えるまでに、ヨナスはずいぶん長く黙っていた。
露天へ案内したのは、それから半刻ほどしてからだった。
雪はまだ降っていて、開けた屋根の四角から、白いものがまっすぐ落ちてきていた。
湯は二つ目の水槽から回しているぶん、長く入っていられる程度まで落ち着いている。
わたしとグレタは戸の外で待ち、中にはクレメンスだけが残った。
ボリスは少し離れたところで入口の板戸を直している。
ピナが数えると言い張ったので、いつもどおり百まで三回ということになった。
衣擦れの音がしばらく続き、湯の動く音が一度した。
そのあとは、ずいぶん長いあいだ何も聞こえなかった。
戸の隙間から出てくるのは湯気だけで、それが雪の中へ上がり、途中で見えなくなる。
ピナが五十まで数えたところで、中から声がした。
「……クレメンス先生」
「はい」
「これは」
ヨナスの声は、こちらがこれまで聞いたことのないほど低かった。
「これは、いけないものではありませんか」
クレメンスはすぐには答えなかった。
「いけないものというのは、身体に悪いという意味でしょうか」
「……いいえ」
「では」
「気持ちが、よすぎます」
思わず戸のほうを見た。
何を言うのかと思っていたのに、出てきた言葉がそれだったからだ。
けれど、笑う気にはならなかった。
声があまりにも真剣だった。
「わたしはこの膝を、務めのうちで痛めました」
途切れながら、ヨナスの声が続く。
「冬に外へ立つことも、石の上に座ることも、すべて自分で選んだことです」
「はい」
「選んで痛めたものを、こうして楽にしてしまうのが正しいことなのかどうか」
そこで言葉が止まった。
「わたしには、それが分かりません」
クレメンスは何も言わなかった。
身体が楽になったかどうかは診れば分かる。
けれど、それを楽にしていいかどうかは医学の話ではない。
湯気の向こうで、雪が湯に触れて消える音だけが続いた。
「怖いのです」
ずいぶん長く黙ったあと、ヨナスが言った。
「痛みには、慣れました。慣れないのは、こちらのほうです」
隣でグレタが、わたしのほうを見た気配がした。
わたしは戸から目を離さなかった。
昨夜まで、わたしはこの人の膝がどう悪いのかを知りたかった。
いま知りたいと思ったのは、そこではなかった。
どうして、痛いほうが安心できるようになってしまったのだろう。
その七年のあいだに何があったのだろう。
聞いていいことではない気がして、口には出せなかった。
「そうですか」
結局、それだけ答えた。
湯気の向こうで、ヨナスが少し驚いた気配がした。
「……それだけですか」
「ほかに、何か言ったほうがよろしいですか」
返事はなかった。
苦行をやめろとも、身体を大事にしろとも言うつもりはなかった。
この人は自分で選んで痛めた身体について、いま初めて他人の前で分からないと言った。
そこへこちらの答えを押しつけるのは違う気がした。
しばらくして、湯気の向こうから、小さく息を吐く音が聞こえた。
「そろそろ、お上がりになったほうがいいでしょう」
クレメンスが言ったとき、ヨナスはすぐには動かなかった。
「神官様」
「……分かっております」
湯から上がったヨナスは、外套を羽織り直して土間の火のそばへ座ったが、濡れた髪の先から落ちた雫が首の後ろを伝い、そのまま襟の内側へ消えていった。
外套の前を合わせるとき、袖口から濡れた手首が一度だけ見え、冷えた外気へ戻るのを嫌うように、指先が布をいつもよりゆっくり引き寄せた。
顔色はさっきよりずっとよく、髪からはまだ細い湯気が上がっているのに、火へ向けた横顔には入る前まで残っていた硬さがなくなっていた。
木椀の白湯を差し出すと、ヨナスは両手で受け取り、ひと口含んでから飲み込むまで少し間を置いたので、火の明かりの中で喉が一度だけ大きく動くのが見えた。
膝の具合を確かめるつもりなのか、椀を置いたあとで片脚をわずかに引き、曲げては戻す動きを二度繰り返したが、痛みを避けているというより、痛む場所を探し直しているように見えた。
来たときには立ち上がるだけでも膝から先に動かしていたのに、今は腰を浮かせて位置を直しても顔をしかめず、歩き方も明らかに軽くなっている。
帳面を膝へ置き、入浴後の欄へ顔色良好、歩行に悪化なしと書いてから顔を上げると、ヨナスは火へ両手を向けたまま、一度だけ長く息を吐いた。
その息は寒さに耐えて吐くものとは違って途中で細くならず、最後までゆっくり続いたので、湯に入る前より呼吸まで深くなっているらしい。
火へ向けていた手を戻すと、濡れた手首に沿って残っていた水が袖へ吸われ、指を握って開く動きまで確かめるようにゆっくりしていた。
靴を履き直す前には膝を深く曲げず、踵を少し引いてから足先を入れ、その一つ一つを確かめるような動きにも、さっきまでの急いだ硬さはなかった。
身体が温まったかどうかだけなら、これで十分に分かる。
「いかがでしたか」
そう聞くと、ヨナスは火を向いたまま、こちらを見なかった。
「……おかげさまで」
「膝は」
「楽です」
「腰のほうは」
「……こちらも」
痛いところを聞かれて答えているだけなのに、この人は一度もこちらを見ない。
湯上がりで顔が赤いのだろうと最初は思った。
けれど、赤いのは頬より耳だった。
そこでようやく、いくつかのことがつながった。
昼ではなく夜に来ていたこと。
昼は人がいるからと答えたこと。
火のある土間へ入るのを頑なに断ったこと。
湯気の届く場所には立っていたのに、屋根の下へは一歩も入ろうとしなかったこと。
全部を痛みの話として受け取っていた。
けれど、痛みだけではなかった。
この人はずっと、恥ずかしかったのだ。
湯を止めろと言った本人が湯屋の周りをうろついていることも、身体を痛めていることも、それをこちらに知られることも。
なるほど、と思った。
そして同時に、少しだけ違和感も残った。
本当に、それだけだろうか。
昨夜、湯に入ったことがあるかと聞いたときの長い沈黙まで、恥ずかしいという一言で全部片づくのだろうか。
分からないものを無理にまとめるのはやめた。
「何か」
こちらが見ていたことに気づいたらしく、ヨナスが火のほうを向いたまま言った。
「いえ。少し分かっただけです」
「何がですか」
「……全部ではありませんので、まだ申し上げません」
そこでヨナスがようやくこちらを見た。
目が合った。
先に視線を外したのは、こちらだった。
火の具合を見る必要などなかったのに、火床の薪を一本動かした。
「明日の朝は、道が固まる前に発たれるのがいいと思います」
「はい」
「無理はなさらないでください」
言ってから、自分でも少し意外だった。
ヨナスも同じことを思ったのか、ほんの少し目を見開いた。
「ご迷惑を」
その言葉はもう三度目だったので、途中で遮った。
「ヨナス様」
口から出てから、神官様ではなかったことに気づいた。
この人の職も立場も、今夜のことで何ひとつ変わっていない。
それでも、そちらの呼び方のほうが自然に出た。
ヨナスは何も言わなかった。
ただ、さっきまで赤かった耳のあたりが、火の色ではもう説明のつかない色になった。
わたしはそれを見て、湯上がりのせいではなかったらしい、とだけ理解した。
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