第14話 王都から
ヨナス様が発ったのは、翌朝の、まだ空が白みきらないうちだった。
わざと早い時刻にしたのだろう。
こちらが起きたときには、二階の部屋はもう片づいていた。
見送りに出たのはボリスひとりで、あとから聞いたところによると、坂の途中まで一緒に下りていったらしい。
「歩き方は、どうだった?」
「変わってた」
「よくなっていたのね」
「ああ」
それを聞いて、思っていたよりほっとした。
なぜそこまで気にしていたのかを考えかけて、怪我人だったのだから当然だろう、と自分で答えをつけた。
たぶん、それで合っている。
その日のうちに顔を出したクレメンスは、ボリスから聞いた話をそのまま帳面へ書き込んでから、湯でも湯気でもない四つ目の欄を作った。
「一度だけ入った人の欄です」
「一度で何が分かるの」
「一度で戻るかどうかが分かります」
この人の帳面は、そのうち湯屋そのものより大きくなるかもしれない。
もっとも、欄が増えるということは確かめるべきことが増えるということで、クレメンスはそれをまるで苦にしていない。
むしろ新しい欄を作っているときのクレメンスは、止めに来た日より三つくらい若く見えた。
その筆先を眺めているうちに、昨日まで一人多かった土間が、今日は妙に広く見えた。
「ヨナス様は、次はいつ来られるのかしら」
気づけば、そう口にしていた。
クレメンスの筆が止まった。
「……いま」
「なに?」
「いえ。なんでもありません」
この人は診たことについては何ひとつ喋らないくせに、呼び名のほうにだけはずいぶん敏感らしい。
「何ですか」
「何でもありません」
「二度言うと、何かあるように聞こえます」
「では、一度目をお忘れください」
それ以上聞いても答えない顔だった。
わたしは諦めて、帳面へ視線を戻した。
村の年寄りが水槽へ入ったのは、それから三日後のことだった。
名前は帳面の三つ目の欄、クレメンスが「触っただけ」と書いていたところにあった人で、湯治場の人々がわたしを湯守様と呼び始めたころ、一度だけ湯へ手を入れて何も言わずに帰った、あの人だった。
その日もいつもどおり蒸す小屋へ入り、いつもどおり火のそばで髪を乾かし、帰りぎわに水槽の前で立ち止まった。
「入るのかね」
「入りますか」
「入ってみるかね」
誰に聞いているのか分からない言い方を三度繰り返してから、その人は自分で上着を脱ぎはじめた。
クレメンスが慌てて帳面を開き、ピナが縁のいつもの場所へ座る。
誰も何も言わないのに、それぞれの持ち場ができていた。
湯に肩まで沈んだその人は、しばらく黙っていて、それから空を見上げた。
開けたままの屋根から、その日は雪ではなく、薄い日の光が落ちていた。
「先生」
「はい」
「これ、なんで誰も入らんかったんだ」
その質問に、その場にいた全員が答えられなかった。
百年前から毒だと言われていたからで、そう言っていたのはこの人たち自身なのだけれど、いま湯に浸かっている本人がそれを聞いてくるのだから、答えようがない。
クレメンスは帳面の三つ目の欄からその名前を消し、一つ目の欄へ書き直した。
「移動なさいました」
横から覗き込んでいたピナが、昇格だ、と言った。
「分類です」
そこだけは、クレメンスも譲らなかった。
湯へ入った人が村に一人出たという話は、その日の夕方には村じゅうへ渡った。
噂というのは人から人へ移るあいだに少しずつ形を変える。
村の中を一周する程度なら、まだ元の形が残っている。
ところが村から町へ、町から街道の宿場へと渡っていくうちに、話は運びやすい形へ整えられていった。
北の廃湯治場に王都から令嬢が来て毒の泉を沸かしているらしい、というところまでは元の形が残っていた。
その湯に入ると痛みが取れるらしい、というあたりから少し怪しくなる。
そして街道の宿場まで届いたころには、年寄りの膝が治ったらしい、という形になっていた。
治ったと言った者は村にひとりもいなかったのだけれど、街道まで出たころにはそうなっていた。
書状が届いたのは、それから半月後だった。
冬のあいだは荷が減るので、王都からの便は月に二度ほどしか来ない。
オットーは封を切る前に差出と日付を確かめ、中身を読むより先にこちらへ紙を渡してきた。
「照会への回答ではありません」
「では、なにかしら」
「視察の通知です」
書状の表題は、ヴェルテ湯治場現況確認に関する現地視察通知、とあった。
差出は領地管理局の北方領地掛、発行は六日前。
視察は三名、時期は今月末から翌月初めのあいだで、積雪の状況を見て確定する。
確認の対象として並んでいたのは、管理施設の現状、封印柵の維持状況、泉水利用の実態、利用者の記録、それに周辺住民への影響の五つだった。
「かなり全部ね」
「こちらの照会を読んでから作った通知です」
「照会は、まだ係属中なのよね」
「係属中です」
「なら、なぜ視察が来るの」
「係属中だからです」
オットーは書状の三行目あたりを指で示した。
「判断材料が足りないからです」
封印された泉から湯を引いて人を入れてよいかどうか。
掛としては、現地がどうなっているのかを知らない。
こちらが書いた書面と、教会が上げた報告だけで決めるには前例がなさすぎる。
だから人を寄越して、自分の目で見てから決めるという話らしい。
こちらの照会は、そもそも誰も簡単には結論を出せない状態を作るために出したものだった。
その結果、本当に人が来ることになった。
役所というのは、こちらが思っているよりずっと真面目に動く。
「これは、こちらにとって良いことなのかしら」
「どちらとも言えません」
オットーは即答してから、少し言い方を変えた。
「ただ、見ずに決められるよりは、はるかにましです」
視察が来るなら、見せられる状態にしておかなければならない。
その日から、オットーは足りないものを紙へ書き出しはじめた。
まず、脱衣する場所がない。
足元に板がないので、雪の日は泥のまま湯船へ入ることになる。
湯温の記録が感覚頼りで、書面に出せる形になっていない。
利用者の名簿はクレメンスの帳面にあるけれど、あれは医師見習いの私物なので、公の書類として出せない。
「思っていたより、何もないのね」
「ございません」
「湯はあるでしょう」
「湯だけです」
湯だけあれば湯屋だと思っていたので、これは少し心外だった。
ただ、書き出された不足を見ているうちに、わたしの頭の中では別のものが動きはじめた。
脱衣する場所を作るなら、そこは湯上がりに座れる場所と兼ねられる。
足元に板を張るなら、そのついでに湯を細く落とす溝を切っておけば、肩に当てる湯にできる。
高低差の取れるところへ一本樋を延ばせば、打たせ湯になる。
薬草はクレメンスが持っているし、春になれば採れる場所も分かる。
「オットー」
「はい」
「視察までに、いくつまで増やせると思う?」
「増やす」
「湯の種類を」
オットーは紙から顔を上げ、こちらをしばらく見た。
「視察のためにお作りになるのですね」
「そうよ」
「本当にそうですか」
「……視察のためよ」
この人はときどき、こちらのいちばん都合の悪いところを正確に突いてくる。
紙を後ろから覗き込んだグレタも、似たようなことを言った。
「お嬢様。それは、視察のご準備でございますか」
「そうよ」
「ずいぶん楽しそうでいらっしゃいますが」
「必要な準備だからよ」
グレタはそれ以上言わなかった。
もっとも、視察のためだと言い張っておけば予算も人手も通る。
建前というものは便利だった。
そこで、ふとヨナス様のことを思い出した。
職務としての確認です、とこちらが差し出した逃げ道を、あの人はずいぶん長く眺めてから受け取った。
いま自分も、視察という建前を使って好きなものを増やそうとしている。
少し似ている。
そう思ったら、少し笑いそうになった。
「お嬢様?」
「なんでもないわ」
言える話ではなかった。
湯の種類が三つ増えるのなら、多少の後ろめたさは安いものだと思う。
ラルフに人手の相談をしたのは、その翌日だった。
「春までに、あと三つくらい増やしたいのだけれど」
「三つも?」
「打たせ湯と、薬湯と、あとひとつ」
「あとひとつって何だよ」
「まだ決めていないわ」
ラルフは笑いながら、村の若い衆へ声をかけると言った。
冬のあいだは畑も止まっているので、手は余っているらしい。
その話をしているあいだ、オットーは机で書状をもう一度読み返していた。
やがて紙のいちばん下で目を止めると、それまでよりわずかに表情を固くした。
「湯守様」
「なに?」
「追記がございます」
「何と」
オットーは最後の一文を指で押さえ、書式を読み上げるときと同じ声で言った。
「視察には、領地管理局の担当官のほかに、王宮祭祀局から一名が同行するそうです」
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