第15話 打たせ湯
王宮祭祀局というのが何をする役所なのか、わたしはオットーに聞くまで正確には知らなかった。
王家の祭礼を執り行い、そこで使う祭具を管理し、宗教にまつわる実務のうち教会の職掌に入らない部分を引き受けているという。
「要するに、器と儀式の役所です」
器、と聞いた瞬間に、王都で割った白い水盤が頭へ浮かんだ。
「割ったのよね」
「割られました」
「三百年前のものだったわ」
「三百年前のものでした」
オットーが過去形を丁寧に揃えてくるので、こちらとしては返す言葉がない。
「では、あの件で来るのかしら」
オットーは書状をもう一度広げ、追記の一行へ指を置いた。
「そうであれば、名目が書かれているはずです」
領地管理局の三名については、何を確認するのかが五つも並んでいる。
ところが祭祀局の一名については、同行する、としか書かれていない。
「名目がないほうが、わたしとしては気になります」
この人がこういう言い方をするときは、たいてい何かが引っかかっている。
「怒られるのかしら」
「何をです」
「割ったことを」
「三か月も前の話ですし、処分は済んでおります」
「済んでいるのよね」
「済んでいなければ、あなたはここにおられません」
たしかに、あの水盤の代価としてわたしはここへ送られた。
払い終えた話を蒸し返すためだけに、王都から半月もかけて人を寄越すとは考えにくい。
それ以上は紙を眺めても何も増えなかったので、来たときに見せられるものを揃えるほうへ頭を切り替えた。
最初に問題になったのは、湯ではなく脱ぐ場所だった。
村の人は蒸す小屋なら服を着たまま入るし、水槽へ入る人も空いている部屋を勝手に使っている。
これまでは、それで困らなかった。
けれど視察で利用者の動きを聞かれたとき、「皆それぞれ適当に着替えています」で通る気はしない。
「二階の部屋を、着替えに使いましょう」
「男の方と女の方は」
「分けます」
「部屋は四つございます」
「二つを着替えに。一つを休憩に」
「残る一つは空けてください」
「なぜ」
「体調を崩した方を寝かせる場所がなくなります」
そこまで考えていなかったので、わたしは黙って頷いた。
「一度に何人までにしますか」
「四人くらい?」
「根拠は」
「……ちょうどよさそうだから」
オットーは筆を動かさなかった。
「書けません」
「四人では駄目なの」
「四人が駄目なのではなく、『ちょうどよさそう』が駄目です」
床を測り、荷物を置く棚の幅を引き、人同士がぶつからずに着替えられる間隔を取ってみると、一室につき三人という数字になった。
「二室で六人です」
「でも、六人も一度に湯船へ入れないでしょう」
「そこが次の問題です」
設備を増やす理由が、また一つできた。
この人と話していると、わたしの「このくらい」が次々と具体的な形へ変わっていく。
面倒なのに、出来上がったものを見ると以前より使いやすい。
そこが少し悔しい。
次に作ろうと思っていたのは、打たせ湯だった。
ところが、いざ作ろうとすると最初から困った。
肩へ湯を落とすには、頭より高い位置が要る。
しかも細い湯では痛いだけなので、それなりの量も必要になる。
泉から水槽までの樋はずっと緩い下りで、その緩さのおかげで湯を冷ましすぎずに運べている。
途中だけ急に落とすわけにはいかなかった。
「別のところから引くしかないわね」
「どこへ」
「それが分からないの。地形の問題だから」
翌朝、ボリスがわたしを連れ出した。
行き先は言わない。
聞いてもたぶん答えないので、そのまま後ろを歩いた。
泉から東へ回り込み、雪の残る斜面を少し登ったところで、岩が段になって重なっている場所へ出た。
岩肌には、浅い窪みが縦にいくつも並んでいる。
水が長いあいだ同じところへ落ち続けた跡にしか見えなかった。
さらに上を見ると、樋か支柱を固定したらしい四角い穴まで二つ残っている。
「ここ」
「ええ」
「昔、湯が落ちてた」
ボリスに言われる前から、分かりかけていた。
雪を掻くと、岩の下から平たい石床まで出てきた。
百年前にも、ここで同じものを作った人がいる。
泉から岩の上までなら、新しい樋を一本延ばせば届く。
「ボリス。ここ、知ってたの」
「知ってた」
「なぜ言わなかったの」
「聞かれなかった」
この人から何かを教えてもらうには、こちらが正しい問いを立てないといけないらしい。
もっとも、落差が欲しいと言った翌朝にはここへ連れてきている。
必要なことが分かってから動くまでの速さについては、文句のつけようがなかった。
樋を延ばす作業には、雪をどけるところから五日かかった。
初めて湯を流したとき、全員でしばらく黙って見た。
岩の上から落ちてきた湯が石床を叩き、白い飛沫が思っていたよりずっと高く跳ねている。
見た目だけなら、完全に打たせ湯だった。
「俺やる」
こちらが頼む前にラルフが手を上げた。
「肩に当てりゃいいんだろ」
「最初は短くね」
「分かってる」
ところが湯を流した途端、ラルフは当たった瞬間に横へ飛びのいた。
「痛っ」
失敗だった。
高すぎる。
前世で入った打たせ湯は、もっと低いところから太く湯を落としていたはずだ。
高いところから細く落とせば、気持ちよく肩を押すどころか、岩を削る水とたいして変わらない。
しかも跳ね返った湯が周囲へ散り、雪の上へ流れたところから薄い氷ができはじめた。
「これは危ないわ」
「俺の肩もな」
「それも」
「先に言えよ」
「やってみないと分からなかったもの」
ラルフは何か言いたそうだったけれど、肩を押さえながら黙った。
岩の中ほどへ板を渡し、そこで一度湯を受けてから落としてみる。
今度は低すぎた。
肩へ届くころには勢いがなくなって、温かい湯が垂れてくるだけになる。
二度目の失敗のあと、ボリスが何も言わずに板を指二本ぶん上へ動かした。
もう一度。
まだ弱い。
落とし口を細くすると痛い。
広げすぎると押す力がなくなる。
三度、四度と幅を変え、湯量を増やし、板の位置を少しずつずらした。
調整をはじめて四日目の夕方、ボリスが湯の下から出てきた。
「これだ」
「どう?」
「痛いっていうより、押されてる」
わたしも手を入れてみた。
肩へ落ちる湯が、叩くのではなく重みで押してくる。
しばらく受けていると、首の後ろの固いところが少しずつ緩んでいく。
「これならいいわ」
湯量は多め。
高さは頭の少し上。
最初は百を二つ数えるまで。
「腰に当てるなら、もっと低いところが必要ですね」
「では、もう一本」
「先に一つを記録してください」
クレメンスに止められた。
その横ではオットーが、もう紙へ数字を書いている。
「湯守様。これは報告書のどこへ入れますか」
「打たせ湯の欄でしょう」
「その欄は王都の書式にございません」
「では作れば」
「書式そのものは作れません」
「不便ね」
「王都も、廃湯治場で打たせ湯が増えるとは想定しておりませんので」
少し考えてから言った。
「ヨナス様なら、これも『想定されていなかった』と言うかしら」
オットーは、書きかけの行を途中で一度読み返した。
「何か?」
「いいえ」
何でもない顔でまた書き始めたので、それ以上は聞かなかった。
結局、打たせ湯は「泉水利用の実態」という欄の下へ、注記として押し込まれた。
正式な欄がないなら、余白を使うしかない。
最初に落ち着いて使ったのはボリスだった。
肩甲骨のあたりへ湯を当て、いつもより長く目を閉じている。
「どう」
「重いのが取れる」
それだけ言って、今度は反対側の肩を湯へ向けた。
クレメンスが帳面へ打たせ湯の頁を足したのは、その日の夕方だった。
「これで五つです」
「何が」
「使い方が。熱い湯、ぬるい湯、露天、蒸気、打たせ湯」
「露天は湯と同じでしょう」
「利用条件が違います」
「先生。その帳面、そのうち本になるよ」
ピナが覗き込む。
「なりません」
「もう三冊あるじゃん」
「記録です」
クレメンスはそう言いながら、新しい欄へ定規を当てた。
村の人は打たせ湯をずいぶん面白がった。
湯船へ入るのはまだ怖い人でも、肩へ当てるだけなら試せる。
蒸す小屋の前とは別に、いつのまにかこちらにも人が並ぶようになった。
最初は服の上から肩を濡らして帰っていた人が、次に来たときは上着だけ脱いだ。
その次に来た人は、最初から袖をまくっていた。
誰かに入れと言われたわけではない。
少しずつ、自分で線の位置を動かしている。
その変化を見ているほうが、こちらから何かを説明するよりずっと面白かった。
「湯守様、次」
ピナに呼ばれて顔を上げると、蒸す小屋と打たせ湯の両方に人が並んでいた。
当然のように、どちらが先だったかで揉める。
「こっちは先から待ってた」
「そっちは蒸すほうだろ」
「待ってるのは同じだ」
オットーが眉間を押さえた。
「人を集める前に、決めることが多すぎます」
「集まってしまったのだから仕方ないでしょう」
「集めたのはどなたですか」
それについては、こちらに一つも言い分がなかった。
結局、入口へ板を一枚置き、ピナが順番に木札を渡すことになった。
設備が一つ増えるたびに、札や欄も一つ増えていく。
その日の夕方、ラルフが村から戻るなり声を上げた。
「湯守様。道が通った」
「峠?」
「ああ。荷馬車も来られる」
冬のあいだ月に二度まで減っていた王都からの便が、元へ戻るという。
書状が早く届く。
荷物も来る。
そして、人も来やすくなる。
王都から視察が来ると分かってから、坂道を見る回数が少し増えていた。
今日もラルフの声を聞いたあと、つい斜面の下へ目をやった。
黒い外套はない。
次の正式な巡回は春先だと聞いているのだから、いるはずがない。
そこまで考えてから、なぜ確かめたのだろうと思った。
「湯守様?」
「なに」
「道、通ったって」
「聞いてるわ」
ピナに怪訝そうな顔をされたので、打たせ湯の落とし口へ視線を戻した。
道が通ったなら、視察も予定どおり来る。
それだけ確認したかったのだと思うことにした。
夕方、村から届いた包みをグレタが持ってきた。
クレメンス宛てで、中には乾かした葉や茎を束ねたものが何種類も入っている。
「薬草だよ」
ピナが横から言った。
「冬に飲むやつ」
乾いた葉の匂いを嗅いだ瞬間、頭の中で次の形ができた。
湯へ入れる。
布袋へ詰めれば散らからない。
色と匂いが強すぎなければ――。
ちょうどそこへクレメンスが戻ってきた。
包みを見る。
次に、わたしを見る。
わたしはまだ何も言っていない。
それなのにクレメンスは、しばらく黙ったあとで明らかに警戒した声を出した。
「……湯へ入れようとしておられますね」
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