第16話 薬湯
「まだ入れるとは言っていません」
こちらが口を開く前に先回りされたのでそう答えたら、クレメンスは安心しなかった。
まだ、という言葉のほうを正確に拾っている。
「では、入れるおつもりではあるのですね」
「使えるものがあるなら、試してみたいでしょう」
包みの中身は、麻の袋に入った乾いた草が七種類だった。
どれも夏のうちに採って陰で干したもので、本来は煎じて飲ませるためのものだから、湯に入れるという使い方をした前例はどこにもないという。
「これは、何に使うの」
「熱のあるときに」
「こちらは」
「腹を下したときに」
薬は飲むものだ、というのがこの世界ではあまりに当たり前らしく、クレメンスは疑ったことすらないという顔をしていた。
前世でも湯に入れていたのは菖蒲や柚子や生姜のたぐいで、そのどれもがこの世界にあるとは限らない。
そもそも同じような見た目をしているからといって、同じ使い方ができる保証もない。
「わたしの知っているやり方は、そのままでは使えないと思うわ」
「わたしもそう思います」
「では、どうやって決めるの」
「口に入れて危険のないものから、量を絞って試します」
クレメンスが引いた線は四本あった。
飲んだ実績のあるものに限ること。
傷のある人には最初から使わないこと。
量を増やしすぎないこと。
そして、一度に一種類だけにすること。
「混ぜないの」
「混ぜますと、何が原因で何が変わったのかが分からなくなります」
クレメンスは七つの袋のうち三つを何も言わずに脇へよけて、残った四つについても、まずは湯船ではなく桶で試すという条件をつけた。
「なぜ桶なの」
「失敗したときに、捨てられます」
この人の慎重さというのは、こういう何でもないところに一貫して出てくる。
最初に試した一つは、湯がすぐに濃い茶色になって、底が見えなくなった。
色そのものが悪いというわけではないけれど、せっかく白く濁っている湯へ、わざわざ茶色を足してやる理由もない。
「これは、湯の色が消えるわね」
「湯の花が見えなくなりますね」
「それだと、この土地の湯ではなくなってしまうわ」
二つ目は色こそほとんど出なかったものの、匂いのほうが強すぎて、硫黄と混ざったときにどちらとも言えない何かになってしまった。
ピナが桶に顔を近づけて、はっきり嫌そうな声を出した。
「くさい」
「くさいわね」
「先生、これ飲んでるの」
「煎じれば、これほど匂いません」
匂いを主役にするつもりは最初からなかったけれど、悪いほうへ主役になられるのも困る。
三つ目に試したもので、ようやく使えそうなところへ落ち着いた。
湯の色はほとんど変わらず、匂いも硫黄に負ける程度だった。
桶の中へ手を入れてしばらく置いてみる。
上げてから少し経っても、指先の温かさがいつもより残っている気がした。
「先生。これ、何の草」
「冬に手足が冷える者へ煎じるものです」
「では、同じ理由かしら」
「可能性はあります」
クレメンスは自分の手も桶へ入れ、わたしより長く待ってから引き上げた。
「ただ、これだけでは何とも言えません」
断定しないところだけは、この人がどれだけ湯へ落ちようと最後まで変わらなかった。
布の袋に入れて湯船へ浮かべる形へ落ち着くまでに、三日かかった。
袋のまま入れれば湯が濁らず、上がるときに引き上げれば量も加減できる。
何より、次に入る人も同じ条件で試せる。
「これも頁が要りますね」
「六つ目ね」
「六つ目です」
「名前は、薬湯でいいかしら」
「まだ、薬草入りの湯です」
「長いわね」
「効能を確認しておりませんので」
薬湯と呼ばれるようになるには、この人の審査を通らないといけないらしい。
わたしが麻袋を持ち上げて匂いを確かめていると、外から駆けてくる足音がした。
「神官様!」
ピナが戸口から顔を出し、そのまま外へ飛び出していく。
わたしも袋を置いて外へ出た。
斜面の下から、黒い外套が登ってくるところだった。
昼だった。
夜でもなければ雪もない。
人目を避ける理由の何一つない時刻に、ヨナス様が正面から坂を上がってくる。
それだけのことなのに、夜にしか来なかったころを知っているせいか、少し不思議な感じがした。
「ヨナス様」
声をかける。
ヨナス様は顔を上げた。
今度は足を止めなかった。
ただ、こちらまで来てから、ほんの一瞬だけ何かを確かめるようにわたしを見た。
「……ブルクハルト嬢」
「巡回でしょうか」
「そのようなものです」
次の正式な巡回は春先のはずだった。
そのようなもの、というのは、つまりそうではないという意味になる。
こちらとしては、それを指摘しないでおくくらいの分別はある。
横でグレタがこちらを見た。
何か言いたそうな顔をしていたけれど、ヨナス様の前では黙っていた。
管理棟の土間へ入ると、ヨナス様は湯気の立つほうを一度も見なかった。
前は見すぎていて、今度はまったく見ない。
どちらにしても、この人が湯を意識していることに変わりはない。
「前回の入浴から、何日ですか」
「ひと月ほどになります」
「そのあいだ、温められましたか」
「礼拝所の火だけです」
「歩き方が、よくなっておられます」
クレメンスが挨拶より先にそう言うと、ヨナス様は少しだけ困った顔をした。
「おかげさまで」
「一度きりの効果ではありません。継続しなければ戻ります」
「……はい」
この人は診察のことになると、相手が神官だろうと王都の役人だろうと、まるで容赦がない。
ヨナス様のほうも以前ならもう少し抵抗したはずなのに、今日は素直に返事をしている。
その変化をクレメンスも感じたのか、何も言わずに一度だけこちらを見た。
なぜこちらを見るのかは分からなかった。
王都からの書状の話が出たのは、その診察のようなやりとりが終わったあとだった。
王都から視察が来ることは、教会の側でもすでに把握しているという。
管理局が現地を見る以上、封印を管理している教会にも同じ日に立ち会うよう通知が来ていた。
「期間中は、現状を大きく変更しないようにとも言われております」
その一言に反応したのはオットーだった。
「大きく、の定義が必要ですね」
「本院も、同じところで困っております」
「水槽を一つ増やすのは」
「おそらく大きいでしょう」
「樋を一本延ばすのは」
「……判断が分かれると思います」
「薬草を袋に入れて湯へ浮かべるのは」
そこで初めて、ヨナス様がこちらを見た。
「何をなさっているのですか」
「まだ薬湯ではありません」
「わたしは名前を伺ったのではありません」
横でクレメンスが小さく息を吐いた。
この人とは話が早い。
早いのだけれど、こういうときはこちらが不利になる。
「薬草入りの湯を試しています」
「新しいことを始めておられるではありませんか」
「桶です」
「桶」
「まだ湯船には入れていません」
ヨナス様は一度目を閉じた。
怒っているようには見えない。
たぶん、何かを数えている。
「……現状を大きく変更してはいない、と報告します」
「ありがとうございます」
「褒めてはおりません」
「分かっています」
答えると、ヨナス様は少しだけこちらを見た。
その目に、ほんの一瞬だけ笑いに近いものが浮かんだように見えた。
見間違いかもしれない。
すぐに消えたので、確かめようがなかった。
「では、その日はヨナス様も」
「わたしが参ります」
「本院からではなく」
「引き継いだ者が対応するのが筋ですので」
半年足らず前に引き継いだばかりの人が、前例のない案件の立ち会いに一人で出されることになったわけで、教会という組織もなかなか人を使う。
「ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「なんでしょう」
「王宮祭祀局から一名が同行すると、書状にありました」
祭祀局という言葉を出した瞬間に、ヨナス様の顔から表情が抜け落ちた。
驚いたのとは違う。
こちらへ見せていい範囲を、急いで決めた人の顔だった。
「……そう書かれていましたか」
「名目は書かれていません」
「そうでしょうね」
この人はこちらの知らない何かを知っている。
そして、それを知っていることを隠すのはあまり上手くない。
ただ、教会内部の話をここで喋れる立場ではないことも、こちらには分かっていた。
「ヨナス様」
名前を呼ぶと、今度は明らかにこちらを見た。
その反応が前より速かった。
「申し訳ありません。わたしから申し上げられることは、ほとんどありません」
「ほとんど」
そこでヨナス様は、こちらが数えられるくらいの長さで黙った。
「あの局が動くのは、祭具に関わることだけです」
「湯治場に、祭具はございませんが」
「ですから、わたしにも分かりません」
それだけ言ったあとは、こちらが何を聞いても一つも足そうとしなかった。
祭具に関わること、という言葉だけが残った。
わたしが割ったのは祭具だったので、やはりあの件なのだろうか。
それにしては、この人の顔が硬すぎる。
考えても分からないので、祭祀局については視察が来てから確かめることにした。
ヨナス様がオットーと書類を確認しているあいだ、わたしは薬草の袋を片づけた。
その横へグレタが来る。
声を落として言った。
「お嬢様」
「なに」
「もう神官様ではないのですね」
何の話か分からず、手を止めた。
「神官様でしょう」
「そうではなくて」
グレタは一度ヨナス様のほうを見た。
「お嬢様は、ずっとヨナス様とお呼びになっています」
「名前を知っているもの」
「存じております」
「なら、何かおかしい?」
グレタは少しだけ眉を下げた。
「そういう意味ではございません」
それだけ言って、薬草の袋を持って行ってしまった。
残されたわたしは、何が違うのか少し考えた。
最初は神官様と呼んでいた。
いつから変わったのかも覚えている。
あの雪の夜だ。
呼び方が変わったこと自体には気づいていた。
ただ、それから一度も元へ戻していなかったことには、いま言われるまで気づかなかった。
戻す理由がなかったのだから当然だと思う。
そう結論づけて、作業へ戻った。
なのに、それからしばらくしてヨナス様に呼ばれたとき、返事をするまでほんの少しだけ間が空いた。
夕方になって、クレメンスが当たり前の顔で言った。
「では、診察の続きをいたします」
「続き」
ヨナス様が聞き返す。
「前回、継続が必要だと申し上げました」
ヨナス様は、この日のうちに何度目かになる困った顔をした。
「……分かりました」
あまりにあっさり頷いたので、こちらのほうが少し驚いた。
その驚きに気づいたらしく、ヨナス様は一度こちらを見てから、すぐに視線を外した。
「何か」
「いえ。早かったので」
「二度目ですから」
その説明では本人も足りないと思ったらしく、少し間を置いてから声を低くした。
「医師の指示を、拒む理由もありません」
前のときは建前を一つ差し出さないと動かなかった人が、今日は診察の続きという一言で受け入れている。
変わったのは、湯に対する考えなのか。
クレメンスへの信頼なのか。
それとも別の何かなのか。
本人に聞けばいいような気もしたけれど、聞けばまた困った顔をするのだろう。
それを見たいような、見ないほうがいいような、妙な気分になったので、結局聞かなかった。
「今日は、どちらへ」
「露天で」
返事のほうが、こちらの問いより早かった。
「露天がお好きなのですね」
口から出てから、少し余計だったかもしれないと思った。
ヨナス様が止まる。
「……雪が、見えますので」
「今日は降っていませんけれど」
「では、空が見えます」
そこまで言ってから、自分でも苦しいと思ったらしい。
耳のあたりが少し赤くなった。
前なら湯上がりだからだと思っただろう。
今日はまだ入っていない。
だから原因は別にある。
ヨナス様は逃げるように露天のほうへ向かった。
その背中を見ながら、わたしは少しだけ笑いそうになった。
この人は、書類の話をしているときより湯の話をしているときのほうが、明らかに嘘が下手だった。
「湯守様」
露天へ向かう手前で、ヨナス様が立ち止まった。
村の人がそう呼んでいるのを、坂を登ってくる途中で聞いたのだと思う。
「なんでしょう」
「……いえ」
「ヨナス様」
呼ぶと、こちらを向く。
やっぱり反応が速い。
「なんでもありません」
「そうですか」
以前なら、分からないものはそのままにしておけばよかった。
ところが最近、この人について分からないことだけは、あとに残る。
祭祀局のこと。
湯に入るときに困った顔をする理由。
さっき何を言おうとしたのか。
どれも急いで知る必要のあることではない。
なのに、妙に覚えている。
その晩、ヨナス様は二階の部屋に泊まった。
雪は降っていない。
道も通っている。
下りられない理由は一つもなかった。
それでも、その場にいた誰ひとりとして帰るのかとは聞かなかった。
グレタは当たり前の顔で寝具を出しに行き、ボリスは頼まれもしないのに二階へ薪を運んだ。
ピナにいたっては、
「神官様、朝も入る?」
と聞いた。
ヨナス様は返事に詰まった。
「診察が必要なら」
「先生、必要?」
「必要です」
クレメンスが即答した。
「では、必要だそうです」
本人以外の全員が納得していた。
「ずいぶん自然になりましたね」
グレタが横で言った。
「何が」
「いえ」
最近、周りの人がこういう言い方をすることが増えた気がする。
何の話なのか分からないけれど、不思議と嫌ではなかった。
二階に人が泊まるなら、朝の湯量は少し増やしておいたほうがいい。
そう考えて、樋の流量を書いた板へ一目盛り足した。
誰のためかを考える必要はなかった。
翌朝、ヨナス様が帰り支度をしているところへ、雪道を上がってくる若い男がひとり現れた。
村の者ではない。
外套には領地管理局の印が付いている。
オットーはそれを見た瞬間に玄関まで出ていって、こちらが何か言うより先に相手の身分を確かめていた。
男は息を整えてから封筒を差し出し、正式な先触れとして礼をした。
「ヴェルテ湯治場管理人、テア・ブルクハルト様へ」
受け取った封筒は、王都から届くものにしては新しかった。
男は顔を上げる。
「視察団は、三日後の正午に到着いたします」
わたしが返事をするより先に、隣でヨナス様の息がわずかに止まった。
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