第17話 視察
三日後の正午に到着するという先触れの言葉は、こちらが思っていたより正確だった。
日が真上へ来るころに斜面の下から四つの人影が現れ、その並び方を見ただけで、三人と残る一人が別々の用事で来ているのだと分かった。
領地管理局の三名は固まって登ってきているのに、残る一人だけが十歩ほど遅れ、足元ではなく周囲を見ながら歩いている。
先頭の年配の男が、湯気の立っているあたりで一度足を止めた。
息が上がったのではなく、遠くから見えていたものを近くで確かめた顔だった。
「王都領地管理局、北方領地掛のバウマンと申します」
「テア・ブルクハルトです」
「半月かかりました」
「半月」
「峠が閉じておりましたので、町で待っておりました」
責めるような調子はなく、半月というのはこの人たちも冬のあいだ動けなかったということなので、こちらとしては用件より先に湯を勧めたいくらいだった。
後ろの二人は書記だと名乗り、それぞれ紙束を抱えたまま周囲を見回しはじめ、四人目の男だけは、三人の紹介が済んでも自分から名乗らず、そのあいだ湯のほうへ一度も目を向けなかった。
一行を管理棟の土間へ通すと、オットーが用意していた紙の束を机へ置き、バウマンは一枚目をめくったところで手を止めた。
「これは」
「季節報告の副本と、利用者の名簿、湯温の記録、施設の配置図です」
「湯温の記録」
「同じ時刻に、同じ場所で確かめたものを、ひと月半ほどです」
正確な温度を測る道具はないので、記録しているのは手を入れたときの感じを三段階に分けたもので、数字にはならない。
けれど同じ人間が同じ場所を同じ時刻に確かめ続ければ、変化くらいは追え、バウマンは数枚をめくってから言った。
「測る道具がない場合に、測る条件を固定したのですね」
「はい」
「これは、よく考えられています」
横の書記が二人とも顔を上げ、わたしは反射的にオットーのほうを見たけれど、本人は次に渡す紙を揃えており、褒められたことには気づいたうえで、特に何もしないらしかった。
バウマンがめくった利用者の名簿は湯温の記録よりさらに厚く、日ごとの人数、使った設備、体調の変化、入る前と出たあとの様子が、一人ずつ横へ並んでいた。
「これは、どなたが」
「わたしではありません。そこにいる二人です」
オットーとクレメンスを示す。
「旧の書式だけでは利用の実態が残りませんでしたので、補助の表を作りました」
オットーが答える。
「必要でしたか」
「必要かどうかを判断する材料がございませんでしたので、後から要る可能性のあるものは残しました」
バウマンは一度だけ頷き、この一往復だけで、王都の三人にもオットーがどういう人なのかは伝わったと思った。
昼を過ぎてから、熱い湯、ぬるい湯、露天、蒸す小屋、打たせ湯、薬草入りの湯と、設備を順番に案内した。
熱い水槽では湯気が真上へ厚く上がり、ぬるい水槽では縁に近いところだけ白くほどけ、三人は同じ水でも場所ごとに見え方が違うのを確かめるように足を止め、書記は湯気で湿った紙の端を指で押さえながら配置図へ印を足し、バウマンは湯口から縁までの距離を目で追ってから次の水槽へ移った。
露天では屋根の開いた一間から落ちる明るさへ書記の一人が顔を上げ、縁に残る雪が湯へ落ちて消えるところまで見届け、蒸す小屋では戸を開けた瞬間に押し出された白い息を避けて半歩だけ後ろへ下がった。
書記の一人は配置図と照らし合わせて数え、六つ目で紙を裏返した。
「六つですか」
「六つです」
「通知を出した時点では、二つと伺っておりましたが」
「増えました」
ほかに言いようがなく、バウマンは一度こちらを見ただけで、それ以上は何も言わなかった。
一行がいちばん長く立ち止まったのは露天で、屋根を一間だけ開けた四角から早春の空が見え、縁に残った雪が時々落ちて、白い湯の上で消えていく。
「これも、必要な設備ですか」
「雪で帰れない方を泊めるために屋根を直しました」
「はい」
「そのついでに、ここだけ開けました」
「ついでに」
「はい」
バウマンは屋根と湯船を何度か見比べてから質問をやめ、封印された泉へ登ったのは行程のいちばん最後で、朝から立会人として来ていたヨナス様が、そこで初めて前へ出た。
「柵の状態について申し上げます」
声はいつもどおりで、こちらに有利な言い方をするわけでも、不利にするわけでもない。
「柵は破損しておりません。支柱のうち三本を管理人が交換しておりますが、位置と高さは元のままです」
「泉の水は」
「柵の内側から樋へ引かれております」
「柵は越えていない」
「柵は越えておりません。ただし、水は出ております」
バウマンが黙った。
「柵は壊されていない。ですが、封印の目的は果たされていないということですか」
「教会は、そのように解しております」
「管理人は」
「わたしは、柵の維持を命じられております」
こちらにできる返事はそれしかなく、文言には従っているが目的には従っていないという、三か月かけて一歩も動かなかった争点が、そのまま王都の人の前へ出て、バウマンは紙へ目を落としたまま言った。
「これは、わたしの権限で決められる話ではないかもしれません」
隣にいたヨナス様は、何も足さず、けれどそのあと斜面を下りるとき、わたしより半歩遅いところを歩いていた。
「ヨナス様」
「はい」
「ずいぶん正確でした」
「何がですか」
「わたしに不利なところまで」
一瞬だけ、ヨナス様の足が遅くなった。
「それが立会人の役目です」
「分かっています」
「……ブルクハルト嬢」
「はい」
「有利なところも、同じように申し上げました」
そう言って今度は先へ歩き、責めたつもりはなかったのに、こちらの言葉だけが弁明のように残った。
夕方になっても村の人はいつもどおり登ってきて、視察の話は村じゅうに伝わっていたはずなのに来た人数は七人で、王都から人が来ているから今日はやめておこう、という発想はないらしい。
バウマンは土間の端へ椅子を置き、半刻ほど、来た人が湯へ入って上がるところを見ており、そのあと火のそばで髪を乾かしていた年寄りへ、こちらを通さず直接声をかけた。
「少し伺ってもよろしいですか」
「王都の方かね」
「そうです」
「なら座りなさい。立っとると首が疲れる」
バウマンは言われたとおり、長椅子の端へ腰を下ろした。
「湯に入られて、いかがですか」
「肘が動く」
「痛みは」
「痛い」
「痛いのですか」
「痛いが、動く」
ラルフの祖父は、それ以上何も言わず、治ったとも、良くなったとも言わない。
バウマンが何人かに聞いて回っても返事は似ており、重いのが取れる。
よく眠れる。
冬に手がかじかまなくなった。
答えたのは山仕事を退いた年寄りや、冬も水仕事をする女たちで、節の太い指や赤く荒れた手を火へ向けたまま、聞かれたことだけを短く返し、バウマンが書き終える前に椀へ手を戻す人もいた。
長く効能を語る人はおらず、バウマンが次の質問へ移ると、それぞれ椀や布へ手を戻して会話もそこで終わり、書記の紙には短い語だけが一行ずつ残って、余白のほうがまだ広いままだった。
最後に、バウマンはクレメンスへ向いた。
「あなたは医師見習いだと伺いました」
「はい」
「所見を伺えますか」
クレメンスは帳面を開き、何頁か戻ってから顔を上げた。
「効くとは、申し上げられません」
書記の筆が止まった。
「三か月では足りませんし、比較するものもありません。同じ方が湯に入らなかった場合にどうなっていたかを、わたしは知りません」
「では、何が言えますか」
「記録はこうです、ということだけです」
「安全だとは」
「百年前の死者の原因が分かっていない以上、安全だとも申し上げられません」
バウマンが眉を上げた。
「それでも、あなたご自身は入られた」
「人へ勧める前に、自分で確かめる必要があると考えました」
効くとも安全とも言わないその人が自分では入っており、王都の人がどう受け取るのかは分からなかった。
クレメンスは帳面を、そのまま机へ差し出し、わたしがそこで思ったのは、この人が三か月前には湯を止めに来た側だったということだった。
いまは誰より細かく湯の記録を取っているのに、本人はその変化を何とも思っていないらしかった。
日が落ちる少し前、バウマンが立ち上がった。
「入ります」
書記の二人が同時に顔を上げた。
「見ただけでは書けません」
バウマンの言い方は、決意というより手順だった。
「王都で判断する者は、ここへ来ません。わたしが見たものだけが判断材料になります」
そう言われると、止められる人はいなかった。
選んだのはぬるいほうの水槽で、クレメンスが条件を説明し、ピナが慣れた調子で数えはじめる。
百を一つ。
二つ。
三つ。
「終わりましたよ」
ピナが二度声をかけた。
「……分かっています」
その返事には、ずいぶん覚えがあった。
わたしは反射的にヨナス様のほうを見た。
目が合った。
ヨナス様も同じことを思い出したらしい。
ほんの少しだけ口元が動いた。
笑ったのかもしれない。
確かめる前に、先に視線を外された。
湯から上がったバウマンは髪も拭かないまま火のそばへ座り、感想は言わず、代わりに書記へ向いた。
「利用の欄に、視察官一名を加えなさい」
四人目の男が何をしていたのかに気づいたのは、その日の終わりで、三名が設備を見ているあいだ、一度も湯へ近づかなかった人で、探すと、泉の柵のところにいた。
腰を屈め、支柱の根元を指でなぞるように見ており、わたしが以前一度だけ見つけ、そのまま忘れていた読めない文字のところだった。
「お探しものですか」
男は立ち上がった。
「王宮祭祀局、器物掛のヘニングと申します」
六十を過ぎているだろう小柄な人で、指先には洗っても落ちなくなった黒い染みが残っている。
「ヘニング様は、湯をご覧にならないのですか」
「あとで拝見します。わたしの用件ではありませんので」
言いながらも、目は支柱へ戻った。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「この柵は、いつ建てられたものですか」
「百年前だと聞いております。ただ、支柱は何度か替わっているはずです」
「替えたのは」
「わたしと、それ以前の管理人たちが」
「この文字のある一本は」
「替えていません。腐っていなかったので」
ヘニングが初めてこちらを見る。
「替えなかったのですね」
「腐っていませんでしたから」
「……そうですか」
満足したのか困ったのかは、顔からは読めなかった。
「この土地に、古い記録は残っていますか」
「引き継いだのは、柵の本数と破損の有無だけです」
「それだけ」
「それだけです」
ヘニングは鞄から薄い紙と炭を出し、支柱の根元へ紙を押し当てると、指先でずれないよう押さえながら文字の上だけを何度も横へ擦り、炭の粉が爪の脇へ入り込んでも手を止めなかった。
黒い線は最初ばらばらに浮き、炭を重ねるほど刻みの浅い部分まで紙へ現れたが、ヘニングは読もうとせず形が欠けていないかだけを確かめ、支柱の割れ目まで同じ位置へ写っているのを見てから、紙を折らずに二枚の板へ挟み、炭の粉がほかの書類へ移らないよう布を一枚重ねてから、ほかの視察資料とは別の鞄へ入れた。
日が落ちるころ、四人は村の宿へ下りることになり、視察官が視察先へ泊まるのは形として良くないらしく、支度をしているヘニングへ、もう一度声をかけた。
「ヘニング様は、湯をご覧になりに来られたのではないのですね」
聞いてから少し踏み込みすぎたと思ったが、ヘニングは荷を肩へ掛けた。
「湯も拝見します」
「では」
「ブルクハルト嬢。あなたが割られた水盤ですが」
久しぶりに、あの白い器が頭へ戻った。
「まだ、直っていないのですか」
「割れて、分かったことがございました」
「分かったこと」
「もしこの土地で、古い文字の入ったものを見つけられましたら、捨てずに置いてください」
「捨てはしませんが、それは何なのでしょう」
ヘニングは柵のほうへ目をやった。
「少なくとも、あれと同じ文字です」
「あれ」
「三百年前の、あの水盤と」
ヨナス様が、初めてヘニング様のほうへ顔を向けた。
それまで一度も口を挟まなかった人が、何も言わないまま、相手を見ていた。
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