第18話 所見
視察というのは、一日で終わるものではないらしく、二日目は朝から村へ下りることになり、確認項目に周辺住民への影響がある以上、湯治場だけ見て帰るわけにはいかないという。
わたしとオットーは同行を求められなかった。
「なぜ、わたしたちは呼ばれないの」
「わたしたちがいる前では、村の方が本当のことを言いません」
「本当のこと」
「良いことを多めに言うか、悪いことを多めに言うか、どちらかになります」
オットーはそう言って、いつもどおり帳面を開いた。
その説明に反論する場所はなく、こちらがいないほうが正確な話が集まるなら、そのほうがいい。
夕方に戻ってきたバウマンは、聞き取りの中身をこちらへ何も話さなかった。
あとからラルフに聞くと、不満はいくつも出たらしく、聞き取りは村の家を一軒ずつ回る形で、薪割りの手を止めた男は斧を膝へ立て、糸を紡いでいた女は指を動かしたまま答え、バウマンは相手が話し終えるたびに書記の紙へ視線を落としていたという。
書記は話した順に書き写すのではなく、道、薪、順番、利用の線引きと欄を分け、同じ内容が二軒目で出ると前の行の横へ小さな印を足していたらしい。
出てきたのは、人が集まるようになって順番待ちが長くなった、外から来る人が村の道を通る、若い衆が間伐材の運搬に取られて自分の家の仕事が遅れるといった話だった。
それから、無料で使えるのは村の者だけという線が曖昧になりはじめており、街道で噂を聞いた商人が遠回りして見に来たり、村の人間でもないのに蒸す小屋を使わせてくれと言う者が出ているらしい。
「そこが崩れると、こっちが森から木を出してる意味も変わるからな」
ラルフの父親がそう言ったという話は、契約を結んだ側の言い分としてまっとうだった。
「文句、けっこう出たぞ」
「怒っていた?」
「いや」
ラルフは少し考えた。
「なくせって言ったやつは、一人もいなかった」
そこで初めて話の形が見えて、順番が長い、道を使う人が増えた、薪を運ぶ手間が増えたというどれもが、湯治場があることを前提にした不満だった。
夕方に見せてもらった聞き取りの紙には、順番、通行、間伐材、村外利用と短い見出しが並び、その下へ同じ不満が言い回しだけ変えて何度も書き足されており、なくせ、閉じろという語はどの欄にもなく、増えた手間をどう扱うかという文字ばかりが紙の下半分へ集まっていた。
「そこ、王都の人に伝わったかしら」
「伝わってなかったら、あの人かなり鈍いぞ」
バウマンがこちらへ直接質問をしてきたのは、夕食の前で、書記を二人とも下がらせて、椅子を火のほうへ向け直す。
紙へ残すためではない話なのだと思った。
「ブルクハルト嬢。一つだけ、個人的に伺ってもよろしいですか」
「はい」
「なぜ、湯を引かれたのですか」
正しい答えは、自分が入りたかったからの一つしかないが、それを王都の役人へそのまま言うのは、さすがに少し違う気がした。
「この土地に、ほかに使えるものがありませんでしたので」
「ありませんでした」
「泉しかありませんでした」
「では、泉があったから使った」
「そうです」
「湯治場の再興を、最初から意図されていたわけではない」
「意図はしていました」
口にしてから、矛盾していることに気づき、仕方なく使ったと言いながら、最初から使うつもりだったと言っており、バウマンはそこを指摘しなかった。
火を見ながら、そうですか、とだけ言う。
「すみません。いまのは変でしたね」
こちらから言うと、バウマンが初めて少し笑った。
「いいえ。よく分かりました」
「どこが」
「たぶん、そこが全部なのでしょう」
その意味は聞かず、聞けば説明してくれたかもしれないけれど、その前にこの人が何を見ているのかを少し考えてみたくなった。
三日目の朝、バウマンは判断そのものは王都で行うのでここで言えることは限られると最初に断ってから、所見らしいものを口にした。
「まず、記録について申し上げます」
ひと月半ほどの湯温、利用者、体調の変化まで、この水準で残している王領施設は王都の周辺でも多くないという。
クレメンスの帳面は一人ずつの顔色や入った長さが日付の下へ続くのに対し、バウマンの紙は同じ一日を人数、事故、村への影響と別々の欄へ切り分けており、並べると同じ出来事でも残し方がまるで違った。
同じ老人の名がクレメンスの頁には何度も現れる一方、バウマンの紙では一日の利用者一人として数えられ、二冊を並べると片方だけでは見えないものがあると分かった。
バウマンは二つの紙を重ねず机の左右へ置き、所見を口にするたび必要なほうだけへ指を伸ばし、書記はその順番に合わせて別の紙へ見出しを書き足していた。
「これは、そのまま判断材料になります」
「良い意味ですか」
「良いか悪いかではありません。材料がなければ、判断そのものができませんので」
次に、村の受け入れ。
聞き取りでは、この施設への反応は少なくとも敵対的ではなく、不満はいくつもあり、けれど、そのすべてが存続を前提にしている。
「これも、そのまま書きます」
ここまでは悪くない。
「一方で、不利な事実もございます」
バウマンの声が少し変わった。
「噂が、事実を越えております」
病が治る、毒の泉が薬になった、医師が効能を認めたという、現地の帳面には一行もないことが街道ではもう事実として流れている。
「外から来る利用者が増えれば、いまの人数では管理しきれません」
「はい」
「健康を害された方が一人でも出れば、これまでの記録すべてが別の意味で読まれます」
「では、増やすなと」
「王都の判断が出るまでは、急に増やされないほうがよろしいかと」
禁止ではないけれど、十分にはっきりした助言だった。
「分かりました」
バウマンが少しだけ意外そうな顔をした。
三か月で設備を六つまで増やした人間が、増やさないと即答したからだと思う。
人を増やすなとは言われたが、設備を増やすなとは言われていないので、そこは言わないでおいた。
「ただし」
バウマンが紙を一枚だけ手元へ引いた。
「封印について、こちらから申し上げられることは一つもありません」
柵は壊されず、泉にも手をつけておらず、文言に反する行為も確認されていないものの、封印の目的が果たされているかどうかは領地管理局の職掌ではない。
「教会が違うと言えば、それを覆す根拠をこちらは持っておりません」
「では、どうなりますか」
「両方の見解を並べて上げます。そのあとはこちらより上の話です」
結論は、その場ではという意味で動かなかった。
視察団のうち、湯へ入ったのはバウマンだけで、ヘニングは最後まで水槽へ近づかず、二日目の午後に一度、設備を見て回っただけで、質問もほとんどしない。
帰る支度が済んだところで、もう一度声をかけた。
「湯は、いかがでしたか」
「立派なものだと思います」
「入られませんでしたね」
「わたしの用件ではありませんので」
自分の用件ではないとこの人が言うのは、これで二度目だった。
「昨日おっしゃったことですが」
「はい」
「割れて分かったことというのは、何でしょう」
ヘニングは泉のある斜面へ目を向けた。
「あの器の底は、外から見えるより厚く作られておりました」
「厚く」
「その厚みの中に、別のものが入っておりました」
「何が」
「薄い板です。金属か石か、まだ確かめているところですが、その表面に文字がありました」
三百年前の祭具の内側に、さらに何かが埋め込まれていた。
「それが、この土地と関係があるのですか」
「分かりません」
「では、なぜ」
「分からないので、参りました」
はぐらかした答えではなく、本当に分かっていないからこそ、半月かけて北まで来たのだと分かった。
「昨日の文字は、読めるのですか」
「読めません」
「祭祀局でも」
「いま使われている文字ではありませんし、わたしが四十年扱ってきた古い書きものとも違います」
「では、なぜ写しを」
「似たものが、王宮にございます」
ヘニングが少し間を置く。
「北部の古い記録箱にも、同じ文字を書き写した紙が一枚だけ残っておりました」
「ヴェルテの」
「それを確かめに参りました」
「柵の文字ですが」
「はい」
「削らないでいただけますか」
「削りませんが」
「支柱ごと替えないでください」
「腐ったらどうしましょう」
「そのときは、こちらへ知らせてください」
腐った柱を替えるなという指示が、どれだけ異例なのか。
そこだけは分かり、四人が斜面を下りていったあと、湯治場にはいつもの人だけが残った。
オットーは提出した書類の写しを確かめ、クレメンスは帳面を閉じ、ボリスは打たせ湯の受け板を削っている。
「これで、どうなるんだ」
ラルフに聞かれた。
「分からないわ」
王都で誰かが判断し、その結果がここへ届くころには、季節が一つ動いているかもしれない。
「それまで、何をするんだよ」
「作るわ」
「まだ増やすのかよ」
増やすに決まっていて、雪が解けて沢の水が使えるようになれば、水風呂、足湯、湯上がりの飲み物、冷やす場所と、作れるものはいくらでもあった。
そこまで頭の中で並べたところで、グレタが深く息を吐いた。
顔を上げたのは、オットーだった。
「湯守様」
「それは、いまの照会に含まれていない設備です」
「含めればいいでしょう」
「照会は係属中です。増やすたびに補記が必要になります」
「では、補記しましょう」
「補記は、わたしが書きます」
こちらが増やすと言い、オットーが書くと言い、そこまでがもういつもの流れで、その日の夜になって初めて、一つ足りないことに気づいた。
夕食の椀が、一つ余っていた。
「グレタ。数を間違えた?」
「いいえ」
「では、これは」
グレタは答えず、来客用の器とは別の棚の端へその椀を戻した。
「誰の?」
「別に、どなたのとも」
言い方が妙で、そこで、夕方までいたヨナス様が視察団と一緒には帰らず、教会へ戻ると言って先に坂を下りていったことを思い出した。
「今日は泊まらなかったのね」
「ええ」
そこまで言ってから土間の入口へ目を向けると、もう暗く、当然誰もいなかった。
「お嬢様」
「なに」
「何をご覧になっておられます?」
「別に」
答えてから、少しだけ変な感じがした。
別に、ではなかった。
誰もいないことを確かめた。
それだけで、翌朝、クレメンスが薬草の袋を並べているところへ行くと、脇にもう一つ別の布が畳んであった。
「これは」
「膝を温めるためです」
「誰の」
「必要な方が来られたときに使います」
午前のうちに村の年寄りが五人来て、昼には打たせ湯の前へ列ができ、夕方には坂の下から黒い外套が見えた。
一瞬だけ身体がそちらを向いたけれど、登ってきたのは薪を二束担いだ村の男で、わたしは何事もなかったように帳面へ目を戻した。
たぶん、待っていたわけではない。
ただ最近、黒い外套を見れば誰なのかを先に確かめる癖がついただけだということにした。
その日の夜、オットーが王都へ送る補記を書き終えた。
「設備追加の予定については、まだ書いておりません」
「なぜ」
「予定が一つに定まっておりませんので」
「水風呂と足湯と」
「それを一つに定まっていないと申します」
紙の端には余白が残っていたので、そこへ何かを書く気になって筆を持ったが、書くことはなく、少し考えてから元へ戻した。
窓の外では屋根の端から落ちた雪解けの水が細い筋になって斜面を走り、白かった地面のところどころに濡れた土の色が戻り、軒下には小さな水たまりまででき始めており、春が近いことと、次の巡回も近いことだけは分かっていた。
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