第19話 湯治客
雪が解けはじめて、最初に変わったのは村への道ではなく、泉そのものだった。
湧き口から出てくる量が、冬のあいだ見てきたどの日よりも多い。
水槽が満ちるまでの時間も短くなっていた。
湧出量が増えること自体は、湯屋にとって悪い話ではない。
同じ時間で入れ替わる湯が増えれば、古い湯が残りにくくなる。
問題は、増えたぶんだけ流れも速くなることだった。
樋の中を速く通れば、外気へ逃げる熱が減る。
水槽へ着くころには、冬より熱い湯になっていた。
蓋の厚みや樋の勾配をいくら合わせても、泉から出てくる量そのものが変われば同じにはならない。
春になって、前提のほうが動いたらしい。
そこで分岐板を少し深く差し、熱い水槽へ入る量を減らした。
余ったぶんは、ぬるい水槽と蒸す小屋へ回す。
二日は、それで安定した。
三日目の朝も手を入れた感じは前日とほとんど変わらず、わたしは同じ位置へ板を差して、その日の調整を終えた。
冬は朝に落ち着いていれば、午後まで大きく外れなかった。
春も同じだと思った。
その思い込みのほうが、間違っていた。
昼前、村へ続く坂を一台の馬車が上がってきた。
荷を積むためではなく、人を乗せる作りの馬車だった。
視察団以来だと思いながら見ていると、若い男が先に降り、そのあとから年配の従者らしい男が続いた。
先に降りた人が外套の襟を直してこちらを見た瞬間、わたしは自分がどんな顔をしたのか分からなくなった。
四か月ぶりに見る、兄のアルノーだった。
兄はこちらが口を開く前に、外套の裾を払って頭を下げた。
「湯治に参りました」
「湯治」
「そう申請しております」
申請、という言葉で、領地管理局へ正式に書類を出して来たのだと分かった。
横ではもうオットーが受付の紙を開いている。
「ご滞在は」
「三日ほど」
「お部屋は二階になります。階段は、上がるとき右手に手すりがございます」
以前、わたしがヨナス様へ言ったのと同じ説明を、いまはオットーが兄へしている。
兄は礼を言い、湯気の立つほうを一度見た。
それだけだった。
毒の泉についても、ここがどう変わったのかについても、何も聞かなかった。
グレタは泣きそうな顔をしていた。
たぶん、わたしを見るより先に王都を思い出したのだと思う。
ピナが袖を引いた。
「あれ誰」
「兄よ」
「湯守様の?」
「そう」
ピナは兄とわたしを交互に見た。
「似てない」
「よく言われるわ」
実際、王都にいたころから似ていると言われたことはなかった。
ただ、四か月前より今のわたしの手がずっと荒れていることだけは、兄にもすぐ分かったと思う。
用件らしい話が出たのは、その日の夕方だった。
土間の火のそばでは、湯上がりの村人たちがいつものように喋っている。
兄は少し離れた場所からその様子を眺めたあと、ぽつりと言った。
「思っていたのと、違う」
「何がでしょうか」
「ここが」
兄はしばらく言葉を探していた。
「王都では、お前がここで一人で耐えていることになっている」
「耐えて」
「毒の泉しかない土地で、五年を耐えている、と」
初めて聞く話だった。
「そういうことになっているのですか」
「そういうことになっている」
「どなたが」
「誰ということもない。皆がそう言っている」
誰も決めていないのに、いつのまにか全員が同じ呼び方をしている。
その広がり方には覚えがあった。
村で「湯守様」が定着したときと似ている。
違うのは、王都の話にはこちらの暮らしが一つも入っていないことだった。
「兄上」
「なんだ」
「わたしは、耐えておりません」
「見れば分かる」
「では、なぜ耐えていることになっているのですか」
「お前が北へ送られたからだ」
「それだけで?」
「それだけで足りる。誰も来ない土地で何が起きているかを、王都の人間は確かめない」
兄が少し笑った。
「見れば分かるが、王都では見えない」
だから来たのだという。
「見た者が要る」
王都で判断する人間がここまで来ないのなら、実際に見た人間が王都側にも一人いたほうがいい。
「謝りに来たのではない」
兄は続けた。
「あのとき掛け合わなかったことについては、いまでも正しかったと思っている。掛け合っていれば、お前は王都に残っていただろう」
「そうですね」
「残っていたら、この湯はない」
慰めでも、言い訳でもない言い方だった。
起きたことを順番に置いて、その中から言えることだけを拾っている。
兄がこういう話し方をする人だったことを、わたしは四か月前まで知らなかった気がする。
兄が実際に湯へ入ったのは、翌朝だった。
クレメンスが二階から近いという理由で露天を勧めたので、こちらが何か仕込んだわけではない。
屋根を一間だけ開けたところから、雪解けの空が見えていた。
四か月前、王宮の広間で、兄はわたしではなく床のあたりを見ていた。
毒の泉しかない土地だ、と誰かが言った。
二年ももちませんわ、と別の誰かが言った。
誰も悪意で言ったわけではなく、本気でわたしを気の毒がっていたのだと思う。
その一人だった兄が、いま肩までその湯に浸かっている。
そこについては何も言わないでおいた。
たぶん兄自身が、いちばん分かっている。
ピナが百を三回数え終えた。
「出ますか」
「……もう少し」
兄までそう言うとは思わなかった。
兄はようやく上がると火のそばへ座り、肩を何度か回した。
「……これは、遠くても来るな」
その言葉を聞いたのは、事故の少し前だった。
気づく機会はあった。
午後に入った村の人が、今日は熱いと言っていた。
熱い水槽から溢れる湯も、いつもより勢いがあるように見えた。
けれどその人はすぐぬるいほうへ移り、わたしは兄への対応と新しく増えた受付の確認へ戻った。
樋を見に行かなかった。
午後、熱い水槽に入っていた女の人が、上がろうとして縁へ手をついたまま座り込んだ。
呼びかけには返事がある。
けれど顔が赤く、立とうとしても脚へ力が入らない。
「先生!」
ピナが叫ぶより早く、クレメンスは走っていた。
土間へ運び、火から離した場所へ寝かせ、足を少し高くして水を飲ませる。
動きに迷いがなかった。
「湯あたりです」
そう聞いたときには、わたしはもう水槽へ戻っていた。
手を入れた瞬間に分かった。
朝より熱い。
湧出量が増えたぶんだけ樋の流れが速くなり、途中で逃げるはずだった熱が残ったまま水槽へ届いている。
春になって条件が変わったことには気づいていた。
それなのに、朝の一度で今日も大丈夫だと決めた。
「わたしの調整の不足です」
言い訳より先に言葉が出た。
「クレメンス先生。今日、ほかに湯へ入った人は」
「三人です。いまのところ異常はありません」
「全員、もう一度見てください」
「名簿は出しています」
「熱いほうを止めます。ボリス、樋を落として」
「ああ」
ボリスが走った。
わたしは倒れた人のところへ戻った。
「ごめんなさい」
「いいよ。わたしが勝手に長く入ってたんだ」
違うと思った。
長く入っても危なくならないように扱うのが、こちらの仕事だった。
この人が長く入ったのは、長く入っていられる場所だと、わたしたちが四か月かけて思わせてきたからでもある。
信用してもらったあとで、こちらが条件を変えてしまった。
それを利用した人のせいにはできなかった。
気づくと、オットーが隣に立っていた。
「湯守様。これは報告事項です」
その晩、管理棟の机には二枚の紙が置かれた。
一枚はクレメンスの記録。
もう一枚は、オットーが書きかけている王都への補記だった。
「書かないという選択もございます」
オットーはそう言った。
利用者の体調はここで記録しているが、いまの段階で一件ずつ王都へ上げる義務までは決められていない。
しかもバウマン担当官は、健康を害する人が出れば、それまでの記録まで別の意味で読まれる可能性があると言っていた。
書けば、不利になるかもしれない。
書かなければ、この一件を王都は知らない。
「書いてください」
オットーは聞き返さず、筆を取った。
「原因は、どのように」
「泉の湧出量の変化に対する、管理側の調整不足と」
オットーは書きかけたまま顔を上げた。
「曖昧です。誰の判断だったのかが読み取れません」
「では、管理人判断による調整不足と書いてください」
主語をわたし一人へ絞ったぶん、文章は短くなった。
少し離れた場所で、兄がそのやりとりを見ていた。
見ていることには気づいていたけれど、声はかけなかった。
翌朝、兄は予定どおりもう一度湯へ入った。
昨日のことがあったのに、とグレタのほうが驚いていた。
倒れた人は夕方には吐き気も治まり、粥を少し食べられるまで戻った。
クレメンスが悪化する見込みは低いと言ったところで、管理棟の空気がようやく少し緩んだ。
兄は完成した報告の副本を手に取った。
「これも王都へ送るのか」
「はい」
「判断が出る前に?」
「そのための記録ですので」
兄は紙を机へ戻した。
しばらく黙ったあと、低い声で尋ねた。
「テア。お前はこれで、湯治場を止めるつもりはないんだな」
読んでくださりありがとうございます!
・本作を★★★★★で評価
・ブックマーク
この二つで応援していただけると、とても励みになります。




