第20話 一件
昨日倒れた人は、翌朝には自分の足で村へ帰っていった。
クレメンスは昼と夕方にも様子を見に行き、どちらにも異常なしと帳面へ残した。
本人が元気なら終わりにできそうなのに、朝の蒸す小屋へ来た人は少なく、数えると、いつもより二人減っていた。
四か月、同じ顔と人数を見てきたオットーが最初に気づき、入口の札を数えたところで、いつもと違うと言った。
「三日は戻りません」
「三日で戻るの?」
「戻る方と、戻らない方に分かれます」
どういう仕事をしてきたら、こんなことにまで経験があるのだろう。
昼を少し過ぎてラルフが上がってくると、帽子も脱がないまま土間へ入ってきた。
「怒ってるやつはいない」
「そう」
「ただ、熱すぎたんだろって話にはなってる」
「そのとおりよ」
「そこを湯守様が認めたって話も、もう回ってる」
倒れた本人も昨日土間にいた人も、たぶん隠す気はなく、この村では半日もあれば、起きたことだけでなく誰が何を言ったかまで下へ届く。
「認めたのは、まずかったかしら」
「いや」
ラルフは帽子の縁を指でつまみ、少し考えてからこちらを見た。
「あんたが認めなかったら、たぶんもっと減ってた」
その言い方が意外で、返事をせずにしばらく帽子の縁を見ており、事故を起こしたことより、そのあと何をしたかまで見られているらしい。
朝からオットーは利用の決まりを作り直していた。
全部を新しくする必要はない。
昨日のようなことを繰り返さないための線だけ、いまある形へ足していく。
湯温は朝だけでなく、昼と午後の利用前にも測ることになり、熱い水槽は百を二回までとし、湧出量が変わった日はその場で樋を調整する。
体調に不安がある人には、入る前にクレメンスへ伝えてもらう。
「酒を飲んで来る人も書きます」
「いるの?」
「書いていないと、来てから断る根拠がありません」
オットーは淡々と一行を加え、最後に異変が起きた日の扱いまで書き、その日のうちに記録へ残し、必要なら王都へも送る。
オットーは古い決まりの下半分へ三本の線を引き、湯温、体調、異変時の記録を同じ幅で書き足すと、入口へ掛ける札も新しい紙へ貼り直し、古い札は捨てずに日付を書いて帳面の後ろへ挟んだ。
貼り直した札は端がまだ反らず、昨日まで空いていた余白へ入浴回数と確認時刻が詰まり、紙の下端にはオットーが乾かすため置いた小石の跡まで残っていて、文字の並びだけでも決まりが一つ増えたことが分かった。
「そこまで書く?」
「今回だけ書いて、次を書かないほうが不自然です」
「一度始めると、ずっと続くのね」
「そうなります」
クレメンスの帳面も、正式な記録の一部として扱うことになった。
「あれは、わたしの私物ですが」
「すでに視察資料として読まれています」
「それは、そうですが」
クレメンスは自分の帳面を開き、最初の頁をしばらく見直した。
「……もう少し、字を丁寧に書いておくべきでした」
気にするところはそこらしく、横でグレタだけが少し笑い、昼前になると兄はもう一度露天へ向かい、昨日の事故を知るグレタが珍しく止めた。
「入られるのですか」
「熱すぎたのは昨日の熱い水槽だろう」
「そうですが」
「今日は落としてある」
兄は入口へ掛けた新しい決まりを一度読み、それからこちらへ目を向けた。
「それに、変えたのだろう」
「はい」
「なら、入らない理由はない」
三日の滞在で兄は結局三度とも露天を選び、湯上がりはいつも火の近くへ座った。
濡れた髪を布で押さえたあともすぐには立たず、火の近くで片膝を立てたまま外の斜面を見ていて、木椀を渡すと両手で包み、湯気が顔の前を横切るたび少しだけ顎を引きながら一口ずつ飲んだ。
髪を乾かしながら外の斜面を見ている横顔へ、白湯をもう一杯差し出すと、兄は礼を言わずに受け取り、火床の薪が崩れる音へ一度だけ視線を落とした。
聞くなら今だと思った。
「兄上は、本当は何をしにいらしたのですか」
「湯治だ」
「三日の湯治で、王都から半月かけて?」
兄はすぐには答えず、火の向こうで薪が一本崩れるのを見ていた。
「見た者が要ると言っただろう」
「はい」
「見た者が要るのは、王都の役人だけではない」
そこから先は少し言いにくそうで、椀を持ったまま視線だけを火へ戻した。
「父上が、一度も手紙を書いておられない」
言われるまで、それを大きなことだと思っていなかった。
王都から届いたのは管理局の照会、視察日程の通知、提出書類の受領書ばかりで、ブルクハルト家の印がある封筒は一通もなく、家からは何も来ていない。
兄は火の前で椀を持ったまま言葉を選び、薪が一度崩れて火の粉が上がってもすぐには続きを口にせず、崩れた一本を火箸で戻してからようやくこちらを見た。
届かない手紙より、湯の温度や薪の数を考えるほうがいつも先だった。
「書けないのだと思う」
「何をですか」
「お前が平気だということをだ」
兄は火のほうを見たまま、言葉を一つずつ選ぶように続けた。
「書けば、認めることになる」
「何を?」
「北へ送ったことが、結果として間違いではなかったと」
罰として娘を北へ送り、その娘がそこで暮らしを作った。
村の人が通い、王都の役人まで湯へ入った。
父にとっても、もう簡単な処分地の話ではないのだろう。
「父上は、お前の処分を見直す話をしておられる」
「まだ一年も経っていません」
「期間の話ではない」
処分を決めたときと今とでは、ここが持つ意味そのものが変わっており、廃れた毒の泉を五年管理するはずが、利用者がいて管理局へ記録を送る場所になった。
「戻ってこいという話ですか」
「そこまでは決まっていない」
「では」
「だから、先に見に来た」
兄がこちらを見たので、そのための三日だったのだとようやく分かり、王都へ戻すべきか、ここへ置くべきかを決める前に、実際の場所を見に来たらしい。
「わたしは平気ですと、お伝えいただけますか」
「言っても信じない」
「では」
「見たことを、そのまま話す」
その返事なら十分で、兄が発ったのは昼を少し過ぎたころで、馬車へ乗る前に小さな革袋を差し出した。
「宿代なら、そんなには要りません」
「宿代ではない」
「では?」
「湯治代だ」
受け取った袋は思ったより重く、まだ料金は決めていないと伝えた。
「なら、次に王都から来る人間からいくら取るか、その基準にでも使え」
オットーが聞けば喜びそうな言い方だった。
「秋にもう一度来る」
「湯治で?」
「湯治で」
兄は馬車へ片足を掛けてから振り返り、今度は迷わず名前を呼んだ。
「テア」
「はい」
「王都へ戻る話が出ても、俺はもう、お前の代わりに答えない」
それだけ言って馬車へ乗り、四か月前の広間で何を言わなかったかには触れなかった。
坂を下りる馬車は雪解けで柔らかくなった轍を避けながらゆっくり曲がり、木立のあいだで屋根が見えたり隠れたりしたあと、最後に車輪の音だけが残った。
春の斜面にはまだ白い筋が残っていたが、道の中央は土が出ており、車輪が水たまりを踏むたび泥が低く跳ね、馬車が見えなくなるまで轍だけが新しく二本続いていた。
王都で兄が話す内容は少し変わるだろうと思ったが、それ以上は、こちらで決めることではない。
馬車が見えなくなってから、隣にいたグレタがようやく息を吐いた。
「お兄様、ずいぶん変わられましたね」
「そう?」
「王都では、お嬢様のお話になると先に答えを決めておられました」
兄は昔から、困ったことがあれば先に道を作る人で、こちらがその道を歩きたいかどうかを聞くのは、たいてい後だった。
「今日は決めなかったわね」
「はい」
グレタはそれだけ言い、兄が使った部屋の寝具を片づけに二階へ上がった。
空いた部屋を見ても寂しいとは思わず、秋にまた来ると言った言葉のほうが残った。
今度は最初から、湯治客として来る。
二日後、グルント商会から使いが来て、冬に約束した薪の値を春の相場へ改めた。
「一束、銅貨五枚です」
「相場は?」
「四枚から五枚です」
特別に安いわけではないが、冬の銅貨八枚よりはずっといい。
「条件がございます」
オットーが二枚目を出し、年間契約の欄をこちらへ向けた。
紙は二枚とも同じ商会印で、一枚目には一束あたりの値、二枚目には年間契約の期間と最低六百、上限千二百の数字が横並びで書かれ、数字の横には追加分も同じ値で扱うという細い但し書きがあり、その下だけ署名欄が空いたまま、紙の白さが目立って残っていた。
必要量の見通しをこちらが出し、商会は一束五枚で確保する形で、最低六百束で、必要が増えれば千二百束までは同じ値で追加できる。
「六百なら?」
「いまの利用だけなら、村の間伐材を足せば余ります」
「でも来年は分からない」
「はい」
横から紙を覗いたラルフも、千二百はいらないな、と小さく言った。
「いまはね」
春に外から人が来るようになったばかりで、一年後の必要量まではまだ読めない。
契約はその場では決めず、今年の使用量をもう少し見てから返すことにした。
そのとき、外から駆け込んでくる足音と一緒にピナの声が響いた。
「湯守様!」
「なに」
「村の入口に、また馬車が来てる」
「王都から?」
「分かんない」
ピナは一度息を吸い、今度は少し嬉しそうに続けた。
「でも今度は、三台ある」
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