第21話 三台
三台の馬車は村の入口でいったん止まり、ラルフに案内されて一台ずつ坂を上がってきたが、王都の紋章も役所の印もなく、荷車と人を乗せる小さな馬車が混じっているので、最初から同じ一行だったわけではないらしい。
一台目から降りたのは街道沿いの町で布を商う夫婦、二台目は宿屋を営む老夫婦で、三台目には杖をついた男と、その腕を支える娘らしい女性が乗っていた。
出発した場所は違っても、三組とも街道の宿でヴェルテの噂を聞き、途中から一緒になったという話で、先日の湯あたりを知る村人たちは、馬車を見に来てもいつもより少し離れた場所からこちらを窺っていた。
「こちらが、毒の湯でしょうか」
布商人の妻が湯気の向こうへ目を細めた。
「入れば身体の痛みが治ると聞いて参りました」
どこから直すべきか一瞬迷い、まず一番大きなところから訂正することにした。
「毒ではありません」
「ただ、痛みが治るとも申し上げられません」
「ですが、膝の曲がらなかった木こりが歩けるようになったのでしょう?」
すぐ近くにその木こり本人がいたが、ボリスは自分の噂なのに口を挟む気配がない。
「歩けなかったわけではありません」
「いまも痛みはあります。湯へ入った日に少し楽になる、それを記録しているだけです」
宿屋の主人からは肘の治った老人もいると聞かれ、今度はそこを直した。
「治ったとは、誰も言っていません」
「では、効かないのですか」
「そこも、まだ決められません」
噂は本人たちより元気に街道を歩くらしく、人から人へ渡るたびに少しずつ形を整え、最後にはこちらが一度も言っていない効能まで身につけている。
最後の馬車から降りた娘だけは話へ割り込まず、父親の腕を支えたままこちらの説明が終わるのを待っており、その男は腰を伸ばすたびに太腿まで痛むのか、数歩進むごとに呼吸を止めて杖へ体重を預けていた。
「父は三年ほど前からこうなのです」
「町の医師にも診ていただきましたが、良くなったり戻ったりで」
娘は父親の手を握り直し、湯気の向こうを一度見た。
「ここなら、何か変わるかもしれないと思って」
期待は布商人夫婦と同じでも、その言葉に乗っている重さまでは同じではなかった。
だからこそ、遠くから来たというだけで全員をそのまま受け入れるわけにはいかない。
「今日は、皆様全員には入っていただけません」
「料金なら払います」
「料金の問題ではありません」
湯あたりのあと作り直した利用規則を入口へ出し、一日に受け入れる人数と、一度に水槽へ入れる人数を決めたことを伝えてから、言いにくいところも後回しにせず先に出しておくことにした。
「先日、こちらの温度管理が足りず、湯あたりを出しました」
三組の顔が変わり、少し離れていた村人たちもこちらを見た。
あとから事故を聞かれるより、ここで先に言っておいたほうがいい。
布商人の夫が先に頷いた。
「規則なら、仕方ありませんな」
妻は残念そうだったが、怒るより先に次の空きを聞いた。
「せっかく来たのに」
「予約を取ることはできます」
「明日は?」
「今日の利用者と湯温を見てからです」
三組には土間の長椅子へ座ってもらい、杖の男が腰を下ろすのを見てから話を続けた。
オットーが横から紙を広げ、外から人を受けるなら料金と予約も決める必要があると続けた。
村人が無料なのは、共有林の間伐材を運んでもらう契約と対になっている。
外から客が来たからといって、その約束まで変えるつもりはなかった。
「外の人だけ金を取るのか」
後ろにいた村人が聞いた。
「そうします」
「湯は同じだぞ」
「同じです」
泉そのものは、わたしが作ったものでも掘り当てたものでもないので、湧いている湯そのものへ値段を付けると言われると、聞くたびにそこだけは少し引っかかった。
「湯に値段を付けるのは、少し変ね」
オットーは待っていたように答えた。
「では、管理へ付けてください」
「管理?」
「湯温を見ます。時間を測ります。薪を使います。板を直します。異変があればクレメンス先生が診ます」
指を折るでもなく平然と並べてから、最後に紙を一枚持ち上げた。
「それを無料で続けるほうが難しいかと」
「では、湯は無料で管理が銀貨二枚」
「帳面では分けません」
「そう」
少し惜しかった。
兄が置いていった革袋も基準にはしたが、その金額をそのまま人数で割ることはせず、町の宿代と薪代、それに外来客を急に増やさないための線まで一緒に並べて、日帰りは銀貨二枚、管理棟二階へ泊まる場合は銀貨三枚と決めた。
食事までこちらで抱えると人手も火も足りなくなるので湯治場では出さず、必要なら村の家へ直接頼み、その代金も湯治場を通さず受けた家がそのまま受け取る。
「高いでしょうか」
「安くはありません」
オットーは紙を見直してから、こちらへ戻した。
「だからよいと思います」
安すぎれば今日の三台が明日は六台になり、いまの人手では湯温を見るだけでも追いつかない。
外来は一日三人までとし、村人の通常利用を削ってまで受け入れない。
予約札には名前、出発地、希望日、宿泊の有無だけを書くことにした。
「病名は書かないでください」
クレメンスがそこだけ自分から口を挟んだ。
「効能もです」
「書きません」
外来客から受け取る分の一部は、坂道や井戸の手入れなど村側へ掛かる負担のため共同費へ回すことまで決め、ようやく待たせていた三組の扱いへ戻った。
クレメンスは杖の男から先に診た。
「腰だけですか」
「脚まで来る」
「どこまで?」
「ここだ」
男が太腿の外側を叩き、言われたとおりゆっくり腰を前へ曲げた。
途中で顔が歪むと、クレメンスがすぐ手を上げた。
「無理をしないでください」
次に椅子へ座ったまま片脚ずつ上げてもらい、娘は横から何度も父親の顔を見ていた。
診終わったクレメンスは、期待を持たせる言葉から始めなかった。
「これは、湯で治るものではないと思います」
娘の肩が少し落ちた。
「少なくとも何度か浸かれば、原因そのものがなくなるとは考えにくいです」
「では、来ても意味はないのでしょうか」
「そこまでは申しません」
クレメンスは男の脚へ視線を戻した。
「冷えると悪くなり、温めると少し動きやすいのであれば、楽に動ける時間を作る助けにはなるかもしれません」
クレメンスは治るとも歩けるようになるとも言わず、温めたあとに少し動きやすい時間ができるかもしれないという、いま記録から言える範囲だけを残した。
父親のほうが先に頷いた。
「それでいい」
娘が顔を向けると、男は杖を握り直した。
「治ると言われて来たわけじゃない」
「少しでも、自分で歩ける時間が増えるなら試したい」
「今日はぬるいほうを、百まで一回だけにします」
クレメンスは入口の紙を指した。
「上がったあと、動きがどう変わるか見せてください」
その人を今日の外来一人目として受け入れ、残る二組には翌日以降の予約を取ることにした。
宿屋の老夫婦には村の空き部屋を紹介し、布商人夫婦はいったん町へ戻った。
外から客が来た話は、その日の夕方には村じゅうへ下りていた。
ラルフが顔役たちの意見を持って戻ってきた。
「外の人が来るのは、もう止められないだろうって」
「うん」
「でも、村の無料は変えないでくれって」
「変えません」
「共有林の木を、外の客だけで使い切るのもなし」
「それも」
「道とか井戸の負担を、村だけに押しつけるのもなし」
「だから共同費を作ります」
オットーが横から間伐材の契約を出し、村人無料と書いたところへ指を置いた。
「ここは変わりません」
ラルフが紙を覗き込み、念のためもう一つ聞いた。
「管理人が替わっても?」
「契約を変えないかぎりは」
その返事で、ラルフはようやく頷いた。
夕方、ぬるい水槽から上がった男は、痛みが消えたわけではないのに来たときより少しだけ腰を伸ばして歩き、娘がすぐ腕を出すと、一度だけ首を振って杖を握り直した。
「そこまでなら、自分で行く」
管理棟の入口まで杖だけで歩き、クレメンスはその様子を少し離れて見ていた。
帳面には良くなったとは書かず、入る前と後で起きたことだけを残した。
男が管理棟の入口まで自分の杖だけで歩いたころ、坂の下から見慣れた灰色の外套が上がってきた。
春の巡回は明日だと聞いていたので、ヨナス様の姿を見つけたとき、わたしより先にクレメンスが帳面から顔を上げた。
「ヨナス様。巡回は明日では」
「はい。今日は巡回ではありません」
答えながらこちらまで来たヨナス様は、まず水槽ではなく、あの日の利用者を休ませた長椅子と、クレメンスの帳面へ目を向けた。
「先日、利用者が倒れたと聞きました」
「もう回復しています。原因も分かりました」
「管理局へも?」
「今朝、補記を出しました」
そこまで答えると、ヨナス様の肩からわずかに力が抜け、外套の前を留めていた指もようやく離れた。
「そうですか」
「確認にいらしたのですか」
「泉で事故があれば、封印を預かる側にも無関係ではありませんので」
説明としては筋が通っているのに、ヨナス様はそこで一度言葉を切り、入口へ掛けたばかりの料金表まで読んでから、もう一度こちらを見た。
「……それと、あなたが倒れたのではないかと」
「倒れたのは利用者です」
「聞いてから分かりました」
「では、もう大丈夫です」
「はい」
返事はしたのにすぐ帰る様子はなく、ヨナス様は熱い水槽の樋、ぬるい水槽の目盛り、入口へ増えた利用時間の紙まで順番に確かめた。
これまで朝だけだった湯温の確認を、今日は昼と午後にも増やしたことを説明すると、紙へ落としていた視線がこちらの指先まで一度下がり、すぐに元へ戻る。
「ブルクハルト嬢も、測るのですか」
「はい。最初はわたしが」
「湯あたりの直後ですから、少し休まれては」
「倒れていません」
「……そうでした」
クレメンスが咳払いをし、オットーは何も聞こえなかったように料金表の端を揃えている。
ヨナス様は結局、湯へは入らず、明日の正式な巡回では封印柵と増築候補地も確認したいと告げて坂を下りていった。
用事が済んだあとも来た理由だけは少し分かりにくかったが、事故があれば確認事項が増えるのだろう。
夜、新しい料金表を入口へ掛け終えたころ、昼間に本人から聞いたばかりなのに、坂の下から教会の明かりが一つ上がってきた。
小使いは雪解けで汚れた靴のまま、正式な封蝋の付いた紙を差し出した。
「湯守様」
「はい」
「明日の春の巡回について、神官ヨナス様から先触れです」
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