第22話 湯屋になる
翌朝には料金表の横へ増築費の紙まで並び、入口だけを見ると湯治場より役所に近くなっていたが、外から三組来ただけで二つの脱衣室と土間の長椅子がすぐ足りなくなった以上、紙を増やしているだけではどうにもならない。
「建物を増やすとして、材木はどれくらい?」
ボリスは地面へ棒で四角を描き、古い小屋の材を数えた。
一つ解体すれば、屋根材は半分ほど取れるという。
ただし屋根材と壁板を古い小屋から取れても柱に使う太い材までは足りず、共有林から新しく切るなら、村人無料の代わりに運んでもらっている間伐材とは別の契約として頼む必要がある。
「完成まで?」
「順調なら二か月」
「二か月も?」
「屋根までなら一か月」
「脱衣室だけ先に使える?」
「壁と戸を先にやれば」
「水風呂は?」
「建物の話をしております」
オットーの声がすぐ飛んできたが、春になれば沢水も冬ほど危険な冷たさではない。
こちらの中では、水風呂を後回しにする理由がかなり減っていた。
足湯ならそれよりもっと簡単に作れそうで、全身を湯へ入れたくない人でも服を着たまま使え、順番を待つ人を土間へ詰め込まずに済むうえ、外の壁沿いなら増築棟そのものが完成する前から使える。
足湯の次には湯上がりに飲むものも欲しいし、水風呂も諦めていないので、紙の余白だけは残しておいた。
「お嬢様」
グレタに呼ばれて顔を上げると、オットーは口に出していない足湯まで紙へ足していた。
「なぜ増やしたの?」
「どうせ作るのでしょう」
そこまで分かるようになったらしい。
第一段階では脱衣室を二つと休憩室を一つ増やし、足湯は建物の外周へ沿わせて同時に作り、水風呂と湯上がりの飲み物は水源と保存方法を見てから、宿泊室の増築は利用者数が本当に増え続けるか確かめたあとへ回すことにした。
ヨナス様が来たのは昼前で、正式な春の巡回なので教会の記録箱と祈祷の道具を持っていた。
最初に泉の柵を一周したヨナス様は、建て替えていない古い支柱の前だけいつもより長く足を止め、春の視察で祭祀局のヘニング様が炭で写していった、わたしには読めない刻みの残る根元を眺めていた。
ヨナス様は支柱そのものを確かめたが、まだ刻みについては何も言わない。
祈祷を終えると、帳面へ短く書いてからこちらへ向き直った。
「異常はございません」
「ありがとうございます、ヨナス様」
返事までにほんの短い間が入り、ヨナス様は記録箱の留め具へ指を置いた。
「その……最近、予定外に参ることが多かったものですから」
「はい」
「係属中の案件でもありますし、本院からも詳しく見るよう言われております」
「はい」
「夜間に来たことについても、必要があって」
「はい」
「今日が、本来の春の巡回です」
「先触れも昨日いただきました」
「……そうでしたね」
ヨナス様は帳面の留め具を一度直し、まだ何か説明を足したそうにこちらを見たが、昨日予定外に来た理由まで重ねると長くなると思ったのか、そのまま口を閉じた。
今日は増築場所と封印との位置を見るほうが先なので、土間の机へ配置図を広げる。
封印柵、水槽二つ、露天、蒸す小屋、打たせ湯、薬草の湯まで一本の紙へ収めてある。
管理棟と増築候補地も入れ、既存の樋からどこへ枝を出すか細い線で描いた。
「新しい建物はこちらです」
「封印柵からは、いまの管理棟より離れますね」
「はい。ただ、樋を一本増やします」
オットーが東側を指すと、ヨナス様も顔を寄せて細い線を追った。
反対側から同じ線を見ようとして顔を寄せたところ、危うく額が触れそうになり、先に気づいたヨナス様が椅子の脚を鳴らすほど急に身を引いた。
「失礼」
それだけ離れると細い樋の線は見えにくいはずなのに、ヨナス様は椅子一つぶんほど距離を空けたまま図面へ目を戻した。
「まだ見えますか」
「見えます」
たぶん見えていないので紙の端を少しこちらへ引くと、ヨナス様は一度右手を握り、何もなかったように開いてから、仕方なさそうにまた机へ近づいた。
「ここです」
近いと落ち着かないらしいが、図面を見るときくらいは仕方がなく、横ではオットーが寸法を書き、グレタが増築棟に必要な布を数えているので、こちらだけが距離を気にする場面でもなかった。
ヨナス様は図面の端にある細長い四角を指した。
「この足湯というのは?」
「足だけ入れる湯です」
「足だけ」
「服を着たまま使えます」
その言葉のあと、ヨナス様はほかの設備より長く足湯の四角を見てから、自分の膝へ触れそうになった手を外套の脇へ戻した。
「なるほど」
声まで少し軽くなったので、本人が何も頼んでいないのに、足湯を作る順番を一つ上げることにした。
「膝だけなら、湯浴み着も要りません」
そう付け加えると、ヨナス様は図面から顔を上げ、何か答えかけてから視線をまた細長い四角へ戻した。
「……それは、便利ですね」
便利というだけにしては返事が遅かったが、使ってもらえるなら作る理由としては十分だった。
午後は、増築予定地を実際に歩いて確かめた。
雪解け水で柔らかい東側を避け、樋を分けられる場所を探す。
湯気が風に押されてきたところでヨナス様の歩みが止まり、白い湯気の向こうへ目を細めたまま、こちらが斜面の高さを測り終えるまでその場所から動かなかった。
膝を冷やしたくないなら、暖かい場所を選ぶのは合理的だった。
「このあたりから分けると、第二の露天まで届きますか」
「距離だけなら届きます」
ヨナス様が斜面を見たので、その先を指して説明した。
「ただ、ここより下へ持っていく必要があります」
「では、上へ作る案はなしですね」
「封印との距離を考えても、そのほうがよいと思います」
ボリスも同じ斜面を見て頷いた。
上は封印柵に近く、東は雪解け水で地面が柔らかく、西は打たせ湯の排水と重なるため、最後に残ったのは管理棟裏から少し下りた岩の窪地で、三方を岩と低い土手に囲まれ、既存の樋から枝を出せば風を避けながら自然落下で湯を引ける場所だった。
「ここしかないね」
あとから来たラルフも周りを一周し、ほかに置けそうな場所がないことを確かめた。
「ほかは無理そうだな」
「たぶん」
ボリスが縄を伸ばしたところで、管理棟から見えにくいという問題が出てきた。
候補地へ移る途中、ピナが新しい縄を抱えて追いついてきた。
「わたし、何する?」
「まず、ここから管理棟が見えるか確かめて」
ピナは岩陰へ入り、こちらへ手を振ると肩から上だけが見えた。
「見える?」
「顔は分かる」
「寝転んだら?」
その場へしゃがんだ途端に姿が消え、オットーが紙へ一行を書き足した。
「利用者が倒れた場合、管理棟からは確認できません」
昨日、熱い水槽で利用者が座り込んだことを思い出すにはそれで十分で、湯温や時間だけでなく、誰かが倒れたときに見つけられる位置まで設備の一部として考えなければならない。
「測る人は、入口の近くね」
「そこなら中へ入りすぎず、通路も見られます」
岩陰から顔を出したピナが、すぐ手を上げた。
「わたしやる」
「ずっとは無理よ」
「ずっとじゃなければ?」
「交代なら」
本人はそれで満足したらしく、また縄を抱えてボリスのところへ走った。
いまの露天なら、土間にいても人の気配は分かる。
この窪地は岩陰へ入るため、中の様子がほとんど見えない。
「時間を測る人を近くに置く?」
「その場所も要ります」
脱衣場所から細い通路を作ると、途中で蒸す小屋への道と交わる。
男女を分けるなら、入口には札か鐘も必要になる。
「面倒ね」
オットーが顔を上げた。
「やめますか」
「作ります」
入口を一つしか取れないなら札と鐘で人の流れを分ければよく、面倒なのと新しい露天が欲しいことは別なので、答えは最初から決まっていた。
新しい露天を一つ、足湯を一つ、増築棟には脱衣室二つと休憩室一つを作る。
宿泊室は第二段階へ回し、まず利用者の流れを分ける設備を優先することにした。
ヨナス様は、増築範囲が封印柵から離れていることを先に確かめた。
教会側として異議を出す理由はない、とだけ答える。
ただ、図面へ視線を戻すと樋の線だけをもう一度指で追った。
「新しい露天へ湯を引く樋は、完成前に一度確認させてください」
「分かりました」
「利用を始める前にも」
「それもお願いします」
ヨナス様は一度口を開き、「教会側の確認ですので」と言いかけてから何も足さずに閉じ、こちらが普通に返すほど妙に落ち着かなくなるのに、膝以外の体調が悪い様子はなかった。
夕方、帰る前にクレメンスが膝の動きを見た。
「今日は湯へ入っていかれますか」
クレメンスに聞かれたヨナス様は外套の留め具へ手をかけ、一度こちらへ視線を向けてから、指を止めた。
「今日は遅いので、次にします」
「次は、完成前の確認ですか」
何となく聞くと、ヨナス様は答えるまでほんの少し間を置いた。
「……それもあります」
確認以外にも何かあるらしいが、膝なら湯へ入る理由として十分なので、それ以上は聞かなかった。
ヨナス様は留め具を外しかけた指を止めたものの、結局それ以上の理由は足さなかった。
斜面を下りる背中を見送ったあと、ボリスと窪地へ戻って杭を一本打った。
そこから管理棟側へ縄を伸ばし、樋を通す高さを測る。
「どう?」
「この高さなら、湯は来る」
「なら決まりね」
「ただ」
ボリスが珍しく言葉を足し、岩陰の通路と蒸す小屋への道が交わる一点を指した。
「入口は、一つしか作れない」
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