第23話 入口はひとつ
縄を張ってから半月かけて岩と土手を落とし、石を組み終えた新しい露天へ湯を入れたのは、朝のうちだった。
管理棟裏の窪地には白い湯気が低く溜まり、三方を岩と土手に塞がれているので春の風もほとんど入らず、昨日から湯を通して温めておいた岩の縁へ手を置いても、もう冬のような冷たさは残っていなかった。
これはいいので、できれば仕事ではなく一人でゆっくり入りたいところだが、今日は新しい露天を明日から人へ使わせられるか確かめる利用試験が先だった。
「本日中は試験、明日の朝から通常利用とします」
オットーが入口の木枠を確かめながら、午後に札と鐘を付ける予定も読み上げた。
「札と鐘は午後に取り付けます」
「分かりました」
入口にはまだ札も鐘も掛かっていないが午後に取り付ける予定なので、まずは湯温を測り、水だけを溜めたときの数字では分からない、人が入ったときの熱さや長くいられる場所の偏りまで見ることにした。
クレメンスも入口まで来て、昨日決めた利用条件をもう一度だけ確認する。
「苦しくなったら、数の途中でも上がってください」
「はい」
「眩暈や胸の痛みがあれば、我慢しないでください」
「昨日のことがありますから、そこは守ります」
クレメンスはそれで頷き、試験中の記録を取るため入口脇の台へ帳面を置いた。
「では、入ってきます」
グレタが眉を寄せた。
「お嬢様がなさらなくてもよろしいのでは」
「違和感まで見るなら、わたしが一番分かります」
「そこを否定できないのが困ります」
反対はそこで終わり、湯浴み着へ着替えて縁へ置いた板に最初の印をつけた。
通路の外ではピナが大きな声で数え始めた。
「いーち、にーい、さーん……」
「もう少し普通の速さでいいですよ」
「普通です!」
「百まで行く前に息が切れます」
「じゃあ、少し遅くします!」
数えるだけなのにどうしてあんなに全力なのだろうと思いながら岩陰へ身体を沈めると、足首から膝、腰へ上がってくる熱さは既存の露天より逃げにくく、肩まで入って息を吐いたところで、風のない場所に湯気が留まるぶん長居しやすいことも分かった。
樋の近くへ寄ると流れ込んだばかりの湯が脚へ当たって熱く、反対側へ半歩移るだけでちょうどよくなるので、湯の混ざり方にはまだむらがあり、この露天だけ利用時間を少し短くしたほうがよさそうだった。
「ピナ、今いくつですか」
「ひゃくよんじゅう七です!」
「一度そこで印をつけてください」
「はい!」
返事が岩へ跳ね返った直後、入口の向こうから別の足音が聞こえた。
ボリスたちは朝から通路を行き来し、ピナも入口側にいるので足音の主までわざわざ確かめず、わたしは樋口へ寄って、流れ込む湯が岩へ当たって左右へ分かれる位置を見直した。
完成前と利用開始前に一度ずつ見たいと言ったのは、ヨナス様自身だった。
今日が、その二度目に当たる。
札はまだなく鐘も付いていないうえ、入口から浴槽までは岩壁が一度折れているので、外から来た者には最後の角を越えるまで、中に人がいるかどうかも、誰が入っているかも分からない。
ヨナス様は樋を追い、そのまま岩陰へ入ってきた。
わたしもちょうど反対側へ移ったところで、最後の曲がり角を挟んで顔を合わせた。
「ブルクハルト嬢」
ヨナス様は片足を踏み出した姿勢のまま止まり、濡れた髪の先から一滴だけ湯を落としたが、樋から流れ込む湯まで止まってくれるわけではないので、こちらが先に脇へ避けた。
「確認でしたね。こちらから見たところ、継ぎ目に漏れはありません」
「……はい」
「上流側は?」
「問題、ありません」
返事が妙に短く、そこでヨナス様が外套だけでなく上着まで入口側へ置き、湯へ入って樋の落ち口まで確かめるつもりで来たのだと気づいた。
「入って確認される予定でしたか」
「そのつもりでした」
「でしたら、どうぞ」
縁の板を少し持ち上げ、いまは温度と滞留時間の試験中だと伝えた。
「……今、ですか」
「今です」
ヨナス様は入口と湯を見比べたが、必要なものは入口側の岩の向こうに置いてあるらしい。
戻るにもこちらの前を通って浴槽の縁を回るしかなく、ヨナス様は入口を一度見たあと、息を一つ吐いてから確認を済ませるほうを選び、湯へ片脚ずつ静かに入った。
湯へ入ったところで、通路の外からピナの声が響いた。
「お嬢様ー、二百です!」
「そのまま続けてください」
「はい!」
声を掛ければすぐ届く距離にピナもクレメンスもいるのに、ヨナス様は湯へ沈むにつれて肩を妙に固くし、さっきより少しだけ呼吸を浅くした。
「樋の近くは熱めです。寄りすぎないでください」
「……はい」
「そこはどうですか。百まで入っていられますか」
「……長くは、無理です」
「では、一歩こちらへ」
ヨナス様が湯の中で一歩こちらへ動くと、樋口から離れたぶん脚へ当たる熱さが弱まり、固くなっていた眉間も少しだけ元へ戻った。
「ここは?」
「大丈夫です」
一歩で体感が変わるなら湯の混ざり方はまだ悪く、四人同時に入れば誰かが樋口近くの熱い場所を使うことになるので、明日から人へ使わせる前に分かったこととして板へもう一つ印を付けた。
「今の深さで膝は?」
「大丈夫です」
「少し曲げられますか」
ヨナス様は湯の中で黙って膝を曲げ、ふくらはぎを岩へ当てないよう足を少し浮かせながら一度伸ばし、痛みを確かめるようにもう一度ゆっくり曲げた。
「痛みますか」
「いえ」
「では、そのままで」
背を向けてもらうと、肩から背にかけて湯へ触れたところだけ熱で薄く赤くなり、濡れた髪が首筋へ張りついたところから細い水滴が一筋落ちていた。
「そこ、温まると赤くなりますね」
「……どこですか」
「肩から背中です」
ヨナス様の動きが止まった。
「痛みますか」
「ありません」
「痒みは?」
「ありません」
湯に触れた場所だけなら体調が悪い赤さには見えず、入口側のクレメンスにも声を掛けた。
「クレメンス先生、肩だけ赤いですが、痛みも痒みもありません」
「息が普通なら、そのまま短く見てください」
「分かりました」
体調の線を確認できたので、今度は入り方のほうを見直す。
「次からは肩まで入ってください」
「……はい」
「いままで胸のあたりで止めておられたでしょう」
ヨナス様が少しだけこちらを見た。
「……見ておられましたか」
「湯温を見る係ですので」
誰がどこまで浸かり、どのあたりで姿勢を変えたかくらいは湯温を見ていれば自然に目へ入るし、そこを見なければ同じ温度でも入り方で感じ方が変わることを記録できない。
ヨナス様は樋のほうを見たまま、今日はなかなかこちらへ顔を戻さない。
「少し熱くありませんか」
「平気です」
「顔が赤いです」
「湯です」
湯だけではなさそうな赤さでも、息は乱れておらず眩暈もないうえ、さっきまで固かった肩まで別の意味で力が入っているので、少なくとも湯あたりとは違いそうだった。
「そうですか」
通路の向こうでは、ピナが三百を越えている。
「さんびゃく……二十六、二十七……あれ、今どこでしたっけ!」
「三百二十八です」
「ありがとうございます!」
ヨナス様がこちらを見て、今度はすぐ岩壁へ顔を戻した。
「数えられるのですか」
「聞いていましたから」
「……そうですか」
樋から落ちる湯は二人が動いても溢れ方を変えず、水面も安定していたので、あとはこの風のない場所で少し長く浸かったときの体感を確かめれば試験は終わる。
「息苦しさは?」
「ありません」
「膝は?」
「先ほどより楽です」
「腰は?」
少し間があった。
「……楽です」
「それなら、この場所はヨナス様には合っていますね」
返事はすぐに来ず、しばらくして小さく、はい、と聞こえた。
初めて夜に来たとき、この人は気持ちがいいことが怖いと言ったのに、いまは湯の中で膝を伸ばし、肩の力まで抜いたまま、樋の音を聞いている。
「そろそろ上がります」
予定していた時間は十分に経っていた。
「はい」
そこで縄を張った日にボリスが言った「入口は一つしか作れない」を思い出し、ヨナス様の服も、わたしが上がる場所も同じ入口側にある以上、どちらかが先に出なければ狭い縁ですれ違うことになると分かった。
「わたしが先に出ます」
「しかし」
「湯浴み着を着ていますから、そのほうが早いです」
縁へ手をかけたところで、ヨナス様に呼び止められた。
「ブルクハルト嬢」
「はい」
すぐには続かず、樋から岩へ湯が落ちる音と、遠くでピナが数える声だけが聞こえ、ヨナス様の右手は湯の中で一度だけ握られてから開いた。
「……もう、怖くはありません」
何が、とは聞かなかった。
「それなら良かったです」
わたしは先に露天を出て、岩を一つ回ったところでクレメンスへ試験結果を伝えた。
「息も眩暈も問題なし、膝と腰は入る前より楽だそうです」
「赤みは?」
「上がったあとも見ます」
その先ではグレタとオットーが待っていたので温度差のこともまとめて説明し、二人で動いただけでも場所による熱さの差がはっきり出たため、同時に入れる人数は予定していた四人から三人へ落とすことにした。
「四人では駄目ですか」
「三人までなら、熱い場所を避ける余地が取れます」
「では三人までで書きます」
ピナは途中で数を失ったことを悔しがったが、今日は札も鐘もない試験なので十分だった。
「次は間違えません」
「次は札と鐘がありますから、今日は十分です」
少し遅れて戻ってきたヨナス様は、樋については問題なしと答えた。
そのあと、ヨナス様は継ぎ目の位置まで細かく説明し始めた。
オットーは途中から諦めたように、図へ一つずつ印を付けていく。
「では、明日から使えますね」
「はい。封印との位置関係にも問題ありません」
「ありがとうございます」
オットーが確認欄へ印を入れ、クレメンスは赤みが引いていることだけ帳面へ残した。
板を持って管理棟へ戻ろうとしたところで、もう一度ヨナス様に呼び止められた。
「ブルクハルト嬢」
振り返ると、ヨナス様は一度口を閉じた。
それから、今まで使ったことのない呼び方を選ぶように言った。
「テア。……そう呼んでも、いいでしょうか」
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