第24話 札と鐘
翌朝、新しい露天の入口には片面に女、裏面に男と大きく彫った木の札が一枚掛かり、使う側を表へ向け、誰もいなくなったら中央の印へ戻す仕組みにしたうえで、入口の少し手前には利用開始と終了を知らせる小さな鐘も吊った。
「入り始めに一度、利用を終えたら二度です」
オットーが集まった人へ説明した。
「札と鐘が食い違った場合は、札を見てください」
「鐘を鳴らし忘れたら?」
ラルフが聞いた。
「札があります」
「札を戻し忘れたら?」
「鐘があります」
「両方忘れたら?」
「管理棟へ戻って反省してください」
オットーが真顔で答えたので、ラルフが笑い、ピナもつられて笑った。
昨日までは札も鐘もなかったが、もともと今日から使う予定だったのだから仕方がないのに、妙なのは皆が昨日の試験について一度も口へ出さず、入口を見るたび少しだけ動きを固くすることだった。
グレタは畳む布へ必要以上に力を入れ、ラルフは鐘の縄を何度も真っすぐに直し、ピナは札の文字を確かめ続け、クレメンスまで帳面へ目を落としたままこちらを見ようとしない。
「テア」
「はい」
ヨナス様に呼ばれて振り返ると、その場にいた人たちの動きが一瞬だけ止まった。
ボリスは木槌を持ったまま、ラルフは鐘の縄を握ったまま、ピナは札へ伸ばした手を途中で止め、グレタにいたっては畳みかけていた布を一枚だけ床へ落とした。
「こちらの鐘ですが」
ヨナス様は普通に続けた。
「もう少し入口から離したほうがよいと思います」
「湯気ですか」
「はい。金具が湿り続けると傷みます」
「では、この柱の外側へ」
「そのほうがよいと思います」
「ボリス、動かせますか」
ボリスが返事をするまで二呼吸ほどあり、そこでようやく木槌を持ち直した。
「ああ」
「お願いします」
鐘の位置を変える話はそれで終わったのに、グレタだけは拾った布を握ったまま、なぜかヨナス様ではなくこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「いえ」
「鐘の場所?」
「違います」
それなら何なのだろうと思っている間に、ヨナス様は樋を見て管理棟へ戻っていった。
最初の女客が入ると入口の鐘が一度鳴り、札は女の面へ向いたので、昨日は何もなかった入口にも、今日は誰が中にいるのか外から分かる印がある。
村の女たち、外来の女客の順に使い、午後の後半を男の時間にして、外来客は一日三人までのまま変えず、新しい露天だけ既存の水槽より短い時間で区切った。
午前の利用が落ち着いたころ、原因の一部はピナが教えてくれた。
時間札を並べていると、隣で同じ札を揃えていたピナが急に顔を上げた。
「お嬢様」
「はい」
「お二人、いつからです?」
「昨日からです」
ピナの目が丸くなったので、昨日の利用試験が終わったあと、ヨナス様から名前で呼んでもいいか聞かれたことを、そのまま説明した。
「そこじゃなくてです」
「では何でしょう」
「ええと……」
ピナが困った顔をすると、少し離れた机で帳面を見ていたクレメンスが口を挟んだ。
「ピナ。その質問は湯守様には難しいです」
「難しくありません」
「そうですか」
「意味が分からないだけです」
「それを難しいと言います」
納得はしなかったが、外来客の馬車が着いたので、ピナは札を抱えて入口へ走っていった。
午後、グレタと洗った布を干していると、坂の下から女が二人上がってきた。
一人は昨日も湯へ来た村人だった。
「湯守様」
「はい」
「神官様も今日は来てるんですか」
「先ほどまでいました」
「そう」
そこで隣の女が肘で小さく突いた。
「だから言っただろ」
「何をですか」
「いや、こっちの話」
二人とも笑い、そのまま露天の札を見に行った。
どうやら村の中では、わたしが知らないところで、昨日の利用試験とは別の話までかなり先へ進んでいるらしい。
グレタは布を竿へ掛けたまま、こちらを見ない。
「グレタ」
「はい」
「何がそんなに面白いの?」
「面白がっているわけではございません」
「では」
少し間があり、グレタは最後の布を掛けてからこちらを見た。
「安心しているのだと思います」
「何に?」
「お嬢様がお一人ではないことに、でしょうか」
「一人ではありません。グレタも、オットーも、皆います」
「そういう意味ではなくてですね」
また同じところで説明が止まり、グレタは濡れた布の端を二度伸ばしてから、諦めたように息を吐いた。
「ヨナス様は、お嬢様のお名前を呼ぶ前に、ずいぶん考えておられたのでしょう」
「そうかもしれません」
「そこは気にならないのですか」
「呼び方を変えるなら、最初に確認したほうが間違いはありません」
グレタはしばらく何も言わず、最後には「そうでございますね」とだけ返したが、納得した声には聞こえなかった。
名前で呼ばれること自体は、湯温の数字が一つ変わるほどの違いでもないし、こちらから呼ぶヨナス様という呼び方も変わっていない。
それでも朝から皆が一度ずつこちらを見るので、変わったのはこちらではなく、聞く側なのだろうと思うことにした。
あとで聞けば、そこで終わった話は村へ下りるほど形を変えていて、朝には「湯守様と神官様が新しい露天へ一緒に入っていた」だけだったものが、昼には完成した湯を二人で試したらしいとなり、午後には神官様が湯守様だけを名前で呼ぶ話まで加わったらしい。
夕方には、湯守様が神官様の膝を湯の中で診ていたことになっていて、最後だけ聞けばクレメンスの仕事まで奪っているが、誰か一人が嘘を作ったわけではない。
聞いた者が自分の知る範囲で筋の通る形へ直し、その結果、事実より話のほうが滑らかになっていく。
年寄りたちの間では、さらに単純な形になっていた。
「湯守様と神官様が一緒なら、この湯屋はなくならないな」
足湯予定地の横で一人がそう言い、持っていた板を地面へ置いた。
「どうしてですか」
「どうしてって」
年寄りは少し困った顔をした。
「教会の人も入る湯なら、また急に封じたりはしないだろう」
もう一人も頷いた。
「湯守様もここにいるしな」
その言葉だけは少し耳に残り、手にしていた板を置きかけてやめたが、外から来た管理人がいつまでここにいるのかは、村の人たちにとって設備の数と同じくらい先の見えないことなのだろう。
岩陰なので、長く入っていても管理棟からは見えない。
「終了予定を過ぎたら、入口から声を掛けます」
オットーが言った。
「返事がなければ?」
「同性の者が中を確認します」
「それでお願いします」
時間を測る役はピナ一人に固定せず、管理棟にいる者が交代で受け持つことにした。
「今日はわたし!」
ピナが鐘の横で手を上げた。
「途中で交代してください」
「はい!」
札と鐘が一つずつ増えただけなのに、利用する側も見ている側も、昨日よりずっと動きやすくなった。
昼を過ぎたころ、オットーが利用の紙を持ってきた。
「村の方が七名、外来が二名です」
「少ない?」
「村の方は三日続けて減っています」
暖かくなってから、坂を上がってまで身体を温めに来る村人は少しずつ減っており、冬には湯があるだけで十分だった利用の理由も、春になれば同じではないらしい。
「水風呂はまだですね」
「水源を見てからです」
「湯上がりの飲み物は?」
「保存できるものを探してから」
「足湯は」
「それは先に作ります」
オットーは足湯の紙だけ別へ移した。
「服のまま使える設備ですと、外来の銀貨二枚には含めにくいですね」
「料金を取りたいから作るわけではありません」
「承知しております」
そう答える声にはもう驚きがなく、増築棟の外ではボリスが足湯の溝を掘り始めていた。
建物の壁から少し離して細長く伸ばし、座る場所を石にするか木にするかはまだ決めていないが、服を着たまま使う以上、先に決めるべきなのは足を下ろしたときの深さだった。
「ここは二段にしましょう」
地面へ棒で線を引くと、ボリスがしゃがんで深さを見た。
「外を浅くするのか」
「はい。子どもや小柄な人はこちら」
「深いほうは?」
少し考えてから、自分の膝の下へ手を当てた。
「膝の下まで入るくらい」
ボリスが棒で印をつけた。
「排水は?」
「端へ寄せたいです。掃除のとき全部抜けるように」
ボリスは増築棟の角から排水路まで地面へ一本の線を引いた。
「これなら流れる」
「お願いします」
その横をラルフが予約札を抱えて通り、明日の外来三人が埋まったと声を上げた。
「明後日は?」
「二人です。宿泊が一人」
「村への食事の連絡をお願いします」
「もう頼んできました」
「早いですね」
「馬車が来る前に走りましたから」
この人もいつのまにか、外来客が来ることを前提に動いている。
夕方には足湯予定地の輪郭がはっきり見え、まだ湯も石も入っていない細長い溝なのに、壁沿いへ人が並んで座り、足だけを温めながら順番を待つ姿はもう想像できた。
深い側へ印を付けた場所を見ると、昼に図面を覗き込んでいたヨナス様の膝なら、たぶんこのくらいでちょうどいい。
「そこだけ深くするのか」
ボリスに聞かれ、初めて自分が同じ場所を長く見ていたことに気づいた。
「背の高い人にも使えるようにです」
「そうか」
ボリスはそれ以上聞かずに杭を打ち込んだが、少し離れたところで予約札を持っていたピナが、なぜか口元を押さえていた。
「ピナ、どうしました」
「なんでもないです!」
今日だけで三度目なので、たぶん本当にわたしには分からない種類の話なのだと思う。
そこへ町から戻ったラルフが、予約札とは別の紙を持って駆け込んできた。
「湯守様、問い合わせです!」
「何人ですか」
「人数じゃありません」
ラルフが紙を広げた。
「春のうちに来たい人が多すぎて、三人ずつじゃ夏まで待つ人が出るそうです」
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