第25話 足湯
朝の机には、向きの違う二つの数字が並んでいた。
村の人は暖かくなるほど減っているのに、外来の三枠は毎日埋まり、受け入れられない人への返事だけが増えているので、オットーは今日の分を五通まとめて机へ置いた。
「二組は三日以内、残りは七日まで待てるそうです」
「宿泊は?」
「今週は四件です」
返事には入れないことだけでなく次に空いている日も添え、待てる日数まで右端へ印を付ける。
「待てる日数まで書くの?」
「三日なら待てる方と、明日でなければ困る方を同じ列に置けません」
断る側にも順番があるらしい。
「村の方は昨日七名です」
三日前は八名、その前は九名で、冬の多い時期より少しずつ減っており、春になれば畑仕事のあとにわざわざ坂を上って全身を温める理由まで減るので、外から来る人が増えても近くの人の使い方まで同じにはならない。
それでも足湯は作る。
利益だけを考えるなら、足湯は後回しでもいい。
それでも服を着たまま膝から下だけ温めるものを、一度ここで使ってみたかった。
昼前には石張りが終わり、底を二段にして座る位置ごとの深さを確かめ、深い側は膝を大きく曲げずに足を下ろせる高さへ合わせた。
その寸法には、妙に覚えがあった。
「流します」
ボリスが木栓を抜くと、細い樋を伝った湯が石の槽へ入り、最初は底を薄く濡らした。
少しずつ水位が上がり、足首を越えるころには白い湯気が立っており、靴と靴下を脱ぎ、服はそのままで石の縁へ腰掛けた。
両足を沈めると、膝から上は春の空気に触れたままなのに、足先から脛へじわじわ熱が上がり、全身を湯へ入れたときのように身体まで重くならないので、やはり仕事の途中に使うならこちらのほうがいい。
着替えも髪をまとめる必要もなく、靴さえ脱げばそのまま座れる。
前世で駅前の足湯へ寄った日は、電車へ乗ったあとも足の裏だけずっと温かかった。
「ピナも入ってみますか」
「入ります!」
返事のほうが早く、ピナは浅い側へ座って足を入れた瞬間に肩を上げた。
そのまま恐る恐る沈めると、今度は声を出さずに笑った。
「熱い?」
「最初だけです」
足を揺らしながら、もっと奥まで入れている。
「でも、ずっと入れていたいです」
グレタは最後まで、仕事中ですからと言っており、裾をまとめて座ってもらうと、足を湯へ入れたまましばらく黙った。
「これなら、確かに着替えなくて済みます」
「でしょう」
ボリスは深い側へ片足だけ入れ、悪くないと言ったあと、結局もう片方も沈めた。
それだけで評価としては十分だった。
石の縁は座れるよう少し幅を取り、濡れた足を上げても滑りにくいよう表面を粗く残してあり、ピナが浅い側から深い側を見た。
「こっちも入っていいですか」
「一度だけ」
移ってみると、深い側では膝のすぐ下まで湯が来た。
「こっちのほうが温かいです」
「脚の長さで選んだほうがよさそうですね」
使ってすぐ最初の問題が出て、槽が浅く外気へ触れる面が広いぶん樋から遠い端は思ったより早く冷え、流す量を増やすと今度は入口側だけが熱くなった。
「このままだと、近くの人だけ熱いですね」
「石を置くか」
「二つに分けたいです」
ボリスが平たい石を二枚持ってきて、樋の出口へ置きながら流れを左右へ散らした。
一度目は片側へ寄りすぎ、二度目は勢いが弱く、三度目でようやく両側へ同じくらい流れた。
「これでどうだ」
手を入れて確かめる。
「さっきよりいいです」
外気へ触れる面が大きい以上、端まで完全に同じ温度へするのは難しい。
それなら座る人が場所を選べばよく、もう一つの問題は設備そのものではなく、もう一つ、設備としては不具合ではない問題もすぐ分かり、誰も出ていかない。
ピナは足を入れたまま札を揃え、グレタは布を畳む場所を足湯の脇へ移し、ボリスまで次の板を削る前にもう一度深い側へ座って、午後には村の年寄りが二人加わった。
「ここ、いいな」
「風がある日はもっといいぞ」
仕事の話をしているのか休んでいるのか分からなくなったころ、オットーが紙を持ってきた。
「時間を決めますか?」
「決めません」
「混んだ場合は?」
「そのときだけ譲ってもらいます」
一律に時間を切れば、少し座って話して帰れる良さまで消えてしまう。
「では、休憩場所としても扱います」
オットーが紙へ一行足し、湯へ入らず足湯だけ使って帰る人も数えることになり、足湯へ座ったまま仕事をする人が増えると、湯そのものとは別の使い方も見えてきた。
グレタは乾いた布と濡れた布を左右へ分け、ピナは予約札を膝の上で並べ、ボリスは板へ印を付けるときだけ立ち上がって、終わるとまた同じ場所へ戻ってくる。
全身浴なら入る前と上がったあとがはっきり分かれるのに、足湯にはその境目がなく、仕事と休憩のあいだへ湯だけが入り込んでいる。
わたしも帳面を一冊持って深い側へ戻り、外来客の数と村人の利用数を見比べてみたが、足先が温まっているだけで机へ向かうより肩へ余計な力が入らない。
「お嬢様も出なくなりましたね」
札を抱えたピナに言われて、時計代わりの砂を見た。
「まだそれほどです」
「わたしが二回並べ直しました」
「では、少し長いですね」
立とうとしたところで、隣の年寄りが笑った。
「時間を決めないって言ったのは湯守様だろう」
「混んだら譲ります」
「いま空いてる」
確かに一人分空いているので、もう少しだけ座った。
そのうち誰が先に座ったのか分からなくなり、畑帰りの男が一人、靴を脱いで端へ座った。
「ここ、金いるのか」
「村の方は要りません」
「湯へ入らなくても?」
「足湯だけでも同じです」
男はそれを聞いて両足を沈めた。
「じゃあ毎日ここで休めるな」
「畑仕事は?」
「終わってから来る」
隣の年寄りが笑った。
「そのうち畑へ行かなくなるぞ」
「そこまでは温まらん」
足湯の縁では笑い声が続き、土間の長椅子とは違う空気ができている。
長椅子と違って全員が同じ向きへ座るので、話したくなければ湯気や坂の下を見て黙っていられ、話したければ隣へ顔だけ向けてそのまま声を掛けられる。
ピナはその間を行ったり来たりしながら札を運んでいた。
「お嬢様」
「はい」
「ここ、わたしの仕事場所にしていいですか」
「何の仕事?」
「札を並べる仕事です」
すでに膝の上には札が十枚ほど積まれている。
「落とさないなら」
「落としません」
返事をした直後に一枚滑り、ボリスが足先で止めた。
「今のは?」
「落としてません」
「止めてもらっただけですね」
ピナは札を抱え直した。
湯気の向こうには、もう何人かが並んでおり、作ったばかりの石の槽が、前からそこにあった場所のように見えた。
坂の上からヨナス様が歩いてきたのは、その少しあとだった。
「テア、もう使えるのですか」
「今日から試しています」
深い側を指すと、ヨナス様は足湯を見てから迷わず靴を脱ぎ、外套の裾を脇へ避けて石の縁へ腰を下ろした。
「こちらなら膝の少し下まで入ります」
長い脚を少し前へ出して両足を沈めると、湯に触れた瞬間だけ足首が強張り、そのあとで力が抜けるように膝をゆっくり曲げ伸ばしした。
「どうですか」
「膝は楽です」
もう一度曲げたときには最初より動きが滑らかで、ヨナス様は濡れた脛へ片手を添えかけてやめ、代わりに足元の湯を見た。
「腰まで温まるわけではありませんが、ここなら巡回の途中でも使えますね」
「全身を温めなくて済みますから」
ヨナス様はすぐには立たず、外套の袖を少し捲った腕を膝へ置いたまま湯気の向こうを見ていて、ピナもグレタもボリスも同じように長居していたので、そこはもう驚かなかった。
「ずいぶん長く座れますね」
「休憩に近いんです」
「なるほど」
ヨナス様は足湯の縁に並んだ人たちをゆっくり見てから、わたしの隣に空いている石一つぶんの場所へ視線を戻した。
「湯へ入ることより、ここに座ることまで含めて一つなのですね」
年寄り二人は話を続け、ピナは札を揃え、グレタは布を畳んでいる。
「そうですね」
立ち上がるとき、ヨナス様は一度だけ石の縁へ手をつき、温まった膝へ体重を乗せるようにゆっくり伸びたあと、さっきより軽い足取りで靴を履いた。
ヨナス様の隣へ座っていた年寄りが立つと、一人分の隙間ができたが、ヨナス様は詰めるでも離れるでもなく、こちらが帳面を持って戻るまで同じ位置にいた。
「湯温を見ます」
「はい」
足湯なので肩まで沈むことはなく、見るのは湯へ入っている脛と膝の動きくらいだが、ヨナス様はなぜか先ほどより姿勢を正した。
深い側の端へ手を入れると少しぬるく、樋側へ寄るとまだ熱い。
「その場所はちょうどいいですか」
「はい。かなり」
「では、そのままで」
返事のあと、ヨナス様は何か言いかけて止まり、足元の湯を見た。
「……こうして座っていると、巡回で来たのか休みに来たのか分からなくなりますね」
「今日はどちらですか」
「今日は」
少し考えてから、ヨナス様は膝を一度ゆっくり伸ばした。
「膝の確認ということにしておきます」
確認なら帳面へ書けるので、深い側が合うと一行だけ足した。
夕方までに湯のむらは少し改善し、混んだ場合だけ譲り合うよう入口へ小さな札を掛けた。
排水口には掃除用の木栓も足し、試してみなければ分からなかった問題は一つずつ減っていく。
ただ、誰も出ていかないという問題だけは、たぶん直さないほうがよかった。
その日の外来客の一人は、以前妻と来たことのある街道の町の宿屋主人で、帰り際にも足湯からなかなか立たず、ようやく靴を履きながら槽の長さを何度か見た。
「湯守様」
「はい」
「商売のことで、一つだけ申し上げても?」
「お願いします」
男は濡れた足を布で拭き、足湯へ振り返った。
「今は春ですから、旅の疲れで温かい湯へ入りたい客が多いでしょう」
「はい」
「でも暑くなれば、金を払ってさらに身体を温めたい人は減ります」
責める声ではなく、長く宿をやってきた人が知っている季節の話を置いていく声だった。
「こちらは、冬ほど客が減ります」
「湯も?」
「温まりたい客は、です」
男は靴紐を結び終え、立ち上がった。
「夏になったら、湯は売れなくなりますよ」
坂を下りる背中を見送ってから足湯へ戻ると、そこではまだ誰も立ち上がっていなかった。
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