第49話 来てほしい
柵を外した翌日、湯治場へ来た人の何人かは、わざわざ管理棟裏まで回って何もない斜面を見てきた。
戻ってくると、ほんとになくなったな、とほとんど同じことを言うので、三人目まで数えたところでピナはもうやめた。
「みんな同じこと言います」
「見たかったのでしょう」
「ないものを?」
「なくなったことを」
自分でも少し変な答えだと思いながら午前の仕事へ戻り、湯温と取水を確認すると、乳は四杯、外来客は二人で、春の冷水樋に使う材も町から届き始めている。
処分が終わって正式な管理人になっても朝にすることはほとんど変わらず、湯温も取水も昨日と同じ順番で見ていくのに、違うのはその普通を自分で選び、ここにいると決めたことだった。
昼前、クレメンスが健康記録を持ってきた。
「昨日の作業で腰を痛めた人が一人います」
「柵を外した人?」
「はい」
「湯は?」
「今日は足湯だけです」
腰を痛めたのは顔役で、本人は大丈夫だと言っているらしい。
「大丈夫と言う人ほど見ます」
こちらが返す前に、クレメンスが先に言った。
「分かっています」
「なら結構です」
このやり取りも処分が終わる前と何も変わらないまま、昼食のあとにはグレタが翌週の備品表を持ってきて、布、石鹸代わりの灰、乳を温める薪、足湯の縁へ敷く古布を順に確認した。
「任命祝いで減ったものは?」
「乳が二杯多かっただけです」
「では、いつもどおりですね」
「はい」
祝いが終われば帳面の数字はすぐ普通へ戻るが、その普通を自分で選んで続けていることだけは帳面の外に残り、午後の外来客である夫婦もいつもどおり受付へ通した。
「近くなりましたね」
「少しだけです」
「でも、前は通れなかったでしょう」
距離より通れること自体が嬉しいらしく、夫婦は足湯へ並んで座り、帰りには同じ道を使って村の宿へ下りていったので、柵のあった場所がもう普通の道として使われ始めているのだと分かった。
午後にヨナス様が来たときは、本当に仕事上の理由が何一つ残っていなかった。
「会いに?」
今日は、こちらから先に聞いた。
「はい」
返事は早く、もう足湯や乳を先に理由へ出すこともなくなった。
「足湯は?」
「入ります」
「乳は?」
「いただきます」
「膝は?」
「少し」
膝の具合だけは会いに来る理由とは別に残っており、珍しく誰もいない足湯で二人並んで春向けに少し低くした湯へ足を入れると、ヨナス様は法衣の裾を膝へまとめ、いつもの深い側で右手だけを石へ少し強く押しつけた。
「昨日、父へ手紙を出しました」
「王都へ戻らない、と?」
「はい」
「そうですか」
「それだけ?」
「何と答えれば」
聞いたこちらも同じように答えが見つからず、しばらく二人で足元を流れる湯の音だけを聞いていた。
「ヨナス様は」
「はい」
「三年後も本院にいると言いましたよね」
「はい」
「それで終わりですか」
口にしてから、自分がまた何かを求めていることに気づいたが、何を求めているのかまでは言葉にできず、それでも今度は止めなかった。
「終わり、とは?」
「テア」
「はい」
「分からないことを聞いていますか」
「たぶん」
ヨナス様が少し困った顔をして、曖昧な質問をするとこうなるのだと思い出したところで、誰もいない足湯には樋から落ちる湯、石の縁を越える細い流れ、遠くで管理棟の戸を閉める音まで一つずつよく聞こえた。
ヨナス様はいつもの深い側、わたしは石一つぶん空けた隣へ座り、春の湯は冬よりぬるく長く入っても肩まで熱くならず、樋から石へ落ちる音まで普段より近く聞こえるのに、さっきから自分の顔だけは少し熱い気がした。
「ヨナス様」
「はい」
「こういう話は、足湯でするものですか」
聞くと、ヨナス様は一瞬だけ目を丸くした。
「ほかに、どこでするのでしょう」
答えの代わりに首を傾げると、ヨナス様も困ったように笑った。
「私もです」
そこで二人とも少し笑い、分からないことを分からないまま置いてもすぐ困るわけではないこの人との話は、湯のように温度も時間も測れず、確かめ方がないらしい。
「では、言い方を変えます」
足元の湯を見ながら、三年後、本院、湯治場、巡回、それから会いに来るという言葉を頭の中で一度だけ並べ直した。
「わたしは、ヨナス様に来てほしいです」
言葉にしても今度は自分で驚かなかったが、ヨナス様は足湯に入れた足まで止めたように動かず、こちらを見たまま一度だけ息を呑んだ。
「仕事がなくても」
「はい」
「膝が痛くなくても」
「はい」
「乳がなくても?」
「それは、あったほうがいいです」
少しだけ笑うと、ヨナス様も同じくらい笑った。
「それでも来てほしいです」
言い直すと二人とも笑うのをやめ、ヨナス様は石の縁へ置いていた手をゆっくり開いてから、こちらをまっすぐ見た。
「私も、テアに会いたいです」
声は低いのに、いつもよりはっきり聞こえた。
ヨナス様はそこで一度だけ視線を足元へ落とし、石の縁へ置いていた手を開いた。
「これを申し上げれば、本院へ出す紙が一枚増えます」
「何の紙ですか」
「異動の候補から外していただくためのものです」
地方に残るなら妻帯はできるが、本院の正式職へ進む道は閉じると聞いた規則のことを思い出した。
「それでも?」
「そのつもりで、ここへ来ました」
言い方は静かだったが、そこだけは足湯や膝を理由にしたときとは違って聞き返す余地がなかった。
「それは前にも聞きました」
「はい」
「今日は、その先です」
ヨナス様は足元の湯を見るでもなくこちらを見たまま黙り、それから両手を膝の上で組み直して、親指同士を一度だけ強く押し合わせた。
「その先を、言ってもよいのですか」
「聞いているので」
「後で、仕事の話に戻せなくなります」
「戻す必要あります?」
そう返すと、ヨナス様は目を伏せ、短く笑った。
「ありません」
顔を上げたときにはさっきまでの迷いが少し減っていて、言ってから自分でもずいぶん強く出たものだと思った。
それでもヨナス様は、今度は目を逸らさなかった。
「その先を、言っても?」
「はい」
何を言われるかは分からなくても、聞くという返事だけはすぐに出た。
「私は、テアが好きです」
足湯の湯は流れ続け、閉め時間の鐘もまだ鳴らず、ほかには誰もいないので、聞き間違える理由は何もなかった。
「いつからですか」
最初に出たのがそれで、ヨナス様は少しだけ眉を上げた。
「分かりません」
「分からない?」
「名前で呼びたいと思ったころには、もう違っていた気がします」
混浴のあと、テアと呼ぶようになったころなら、こちらが思っていたよりずっと前だった。
「そんなに?」
「そんなに、とは」
「いえ」
知らなかったのはこちらだけで、周りはもっと前から気づいていたのかもしれない。
「テアは?」
今度はこちらが答える番で、聞かれた時点でもう答えは分かっており、答えが出なければいいと願ったときのように、別の理由へ置き換える必要もなかった。
ヨナス様の喉が一度動き、こちらへ伸ばしかけた手が途中で止まりかけたが、今度は膝の上へ戻らず、そのまま石の縁を越えてこちらの手へ触れた。
握るというより確かめるように指が重なり、湯から上げたばかりの手は少し湿って温かく、力は強くないのに、離すつもりがないことだけは分かった。
「わたしも、ヨナス様が好きです」
言葉にすると驚くほど短いのに、今までで一番言いにくかった。
言い終わったあと、自分の足先まで湯の中で熱くなった気がして、しばらくヨナス様の顔だけ見られなかった。
向こうもすぐには動かず、閉め時間の鐘もまだ鳴らない足湯で石の縁から落ちる湯の音だけが長く続き、どちらもその静けさを急いで動かそうとはせず、ヨナス様はようやく息を思い出したように長く吐いた。
「よかった」
「それだけ?」
「何と答えれば」
さっきと同じことを言われて同じ答えが返ってきたので今度はこちらが先に笑い、そのあと二人ともすぐには次の言葉を出さず、気まずいからではなく、言うべきことを言ったあとに残った静けさを急いで埋めずにいた。
足湯の湯はいつもと同じ速さで石の縁から細い音を立てて落ち、石の縁も湯温も春の風も変わらないのに、重なった手だけが昨日までとは違い、向かい合って話すときに目を逸らす理由も少し減っていた。
「いつからですか」
聞いてみる。
「何が?」
「好きだったの」
ヨナス様は本当に困った顔をした。
「分かりません」
「分からない?」
「気づいたのが、いつかという意味なら」
少し考えてから、足元の湯へ視線を落とした。
「理由がなくてもここへ来たくなったころです」
「かなり前ですね」
「はい」
「どうして言わなかったんですか」
「テアが、湯のことしか見ていなかったので」
「見ていますよ。今も」
「知っています」
それで諦めたのかと思ったら、ヨナス様は少し笑った。
「だから、急がなくてもよいと思いました」
その答えはこの人らしく、足湯の入口から足音が近づくと二人とも同時に振り向いた。
「神官様、乳――」
ピナは入口で足を止め、こちらとヨナス様を交互に見た。
「……あとにします」
「待って」
「はい?」
「乳は置いてください」
「今?」
「冷めます」
入口の向こうにはグレタの姿も一瞬見えたがこちらを見た途端に引っ込み、聞こえていたかどうかを確かめる前に、ピナが妙な顔のまま二杯を石の縁へ置いた。
「では、ごゆっくり」
「ピナ」
「何も言ってません!」
ピナは走って管理棟へ戻っていき、その方向と勢いからすると、たぶんまず真っ先にグレタへ言うつもりらしかった。
「明日には村中ですね」
ヨナス様が言う。
「今日中かもしれません」
「困りますか」
少し考えてから答えた。
「仕事には困りません」
「では?」
「恥ずかしいです」
自分からその言葉を使ったのは初めてかもしれず、ヨナス様が少し笑った。
「私もです」
二人で温かい乳を飲み、足はそのまま湯の中へ残した。
昨日までと同じ場所なのに、今日は何も同じに見えなかった。
「これから、どうしますか」
ヨナス様が聞く。
「何を?」
「私たちです」
今度はこちらが困った。
「分かりません」
「では」
ヨナス様は少し考えてから、前にも聞いた言葉をもう一度出した。
「また来ても?」
「はい」
その聞き方なら、こちらにも答えが分かった。
乳の椀を返すころには、さっきまで誰もいなかった足湯へ村人が二人戻り、何も聞かずいつもの場所へ座ったので、こちらが何を言ったあとでも世界のほうは同じ速さで続いていった。
閉め時間の鐘が一度鳴り、少し間を置いて二度目が続いた。
「明日も?」
「仕事は?」
「ありません」
「では、来てください」




