第50話 いい湯ですね
春になり、雪解け水でぬかるんでいた坂もようやく乾き、村から湯治場へ上がる道には朝から人の足跡がいくつも続いている。
管理棟の窓を開けると去年より少し早い風が入り、朝の湯温と取水量を確かめて足湯の札を表へ返すところから一日が始まる。
正式な管理人になっても、朝いちばんの仕事は何も変わらなかった。
「今日は乳、八杯です!」
ピナが土間へ札を持ってきた。
「多いですね」
「牛が元気です」
「それは帳面へ書かなくていいです」
「もう分かってます」
前にも同じことを言った気がして少し離れたところではグレタが笑っており、その向こうでは雪解け前から用意していた材をボリスが組み、完成した春の冷水樋を通って山側の冷たい水が新しい槽まで落ちている。
水風呂へ回せる量は多くないが、そのぶん毎朝の確認は簡単だった。
「今日は入れるぞ」
樋の先を見ていたボリスが昨日より少し多いと教えてくれたので、湯とは逆の数字を帳面へ書くと、熱い水とぬるい水、それから冷たい水まで同じ帳面の中へ並んだ。
一年前にはどれもここになかったことを思い出すうち、昼前には外来客が三人来た。
一人は二度目の客で、入口の新しい看板を見上げたところで足を止めた。
「本当に王領湯治場になったんですね」
「はい」
「前は、廃って付いてましたよね」
「付いていました」
「もう戻らない?」
「看板は?」
「そこです」
「戻しません」
客が笑ったのでこちらも笑って銀貨二枚を受け取り、いつもの札を渡しながら、料金は変えず、外来は一日三人まで、村人は無料、宿泊は村の家へ回す形を続けている。
増やせる余地はあっても今すぐ増やす理由はなく、昼になると足湯には村人と外来客が混じって同じ石の縁へ座っていた。
顔役は腰が治ったと言い張っているが、クレメンスはまだ長湯を許していない。
「もう痛くないぞ」
「痛くなくてもです」
「先生は厳しいな」
「仕事ですから」
いつものやり取りの隣ではラルフとオットーが春の宿泊客について話し、七軒のうち二軒は屋根を直している。
一軒は今年から朝食も出せるようになり、残りは去年と同じ形を続けるため、全部を一度に変えずできる家だけ増やすやり方も村へ定着してきた。
管理棟へ戻ると机の上には三年間の任命書の控えが置かれており、その数字はまだほとんど減っていないが、今日は残りの日数より春の樋、夏の取水、秋の薪、冬の凍結のほうが先に浮かぶ。
春は樋、夏は取水、秋は薪、冬は凍結と季節ごとに見るものは変わり、来年も同じことをするとは限らないので、そのたびに考えればいい。
「湯守様」
入口からピナに神官様です、と呼ばれたところで紙を置いて坂の上を見ると、黒い外套がこちらへ歩いてきており、もう身体が先に向いても別人ではなくヨナス様だと分かる。
「今日は?」
聞く。
「会いに」
返事は迷わない。
「仕事は?」
「ありません」
「膝は?」
「今日は大丈夫です」
「乳は?」
「飲みます」
乳だけは会いに来る理由と別に今日も飲むらしく、昼の混雑が少し引いた足湯へ行くと、石の縁にはちょうど二人分の場所が空いていた。
ヨナス様が靴を脱ぎ、わたしも隣へ座ると、湯温は春向けに少し低かった。
「任命されてから、変わりましたか」
ヨナス様が聞いた。
「何が?」
「ここにいる感じが」
少し考えてから答えた。
「朝は同じです」
「朝?」
「起きて、湯温を見て、足湯を開けます」
「では夜は?」
「閉めます」
「それも同じですね」
「はい」
そこで二人とも少し笑った。
「でも」
言葉を続ける。
「帰る場所、とは思うようになりました」
口にしてから自分でも少し驚いたが、王都の家でも伯爵家でもなく、いま一日を終えて戻る場所として最初に浮かんだのはここだった。
「そうですか」
ヨナス様はそれ以上聞かず、それからしばらく二人とも何も言わずに足湯を流れる音だけを聞いた。
「ヨナス様は?」
「何がですか」
「ここは、何ですか」
今度はヨナス様が少し考えてから答えた。
「来たい場所です」
「短いですね」
「分かりやすいほうがいいかと」
「そうですね」
その短い答えでこちらには十分で、午後の足湯では初めて来た客が村の老人へ入り方を聞いていた。
「熱いほうへ先に入ればいいですか」
「最初は短くしとけ」
「誰に教わったんです?」
「湯守様に何度も言われた」
老人は自分が最初から知っていたような顔で説明し、少し離れたところで聞いていたクレメンスも今回は訂正しなかったので、教える人まで増えたなら管理人一人で全部を言わなくてもよくなっている。
午後には兄から返事が届き、父は手紙を読んだあとしばらく何も言わず、母は最初からそうなると思っていたと言ったらしい。
アルノー自身は次に来る日を決めたと最後に書いており、もちろん湯治で来るらしい。
届いた手紙は、管理棟でグレタと一緒に最後まで読んだ。
「やはり奥方様は驚かれませんでしたね」
「そうですね」
「旦那様は?」
「何も言わなかったそうです」
「では、たいへん驚かれたのでしょう」
たぶんそうだと思いながら手紙を閉じるころには、外来客と村人が一人ずつ坂を下り、ピナは札を戻し、ボリスは冷水樋を閉め、クレメンスは最後の記録を書くという閉め作業も順番に始まっていた。
オットーが銀貨を数える横では、グレタが使い終わった布を集めていた。
誰か一人がいなくても全部が止まらない形を、この一年で少しずつ作ってきたが、それと、自分がここにいたいと思うことは別だった。
閉め時間の鐘が一度鳴り、少し間を置いて二度目が続いた。
「終わりですね」
ヨナス様が言ったので、今日の営業は、と付け足した。
「はい」
鐘が二度鳴れば今日の営業は終わり、明日になればまた同じ順番で湯温を測り、札を返す。
足湯の前を通ると、昼に入り方を教えていた老人が別の村人へ札の向きを説明し、横で聞いていたピナは、そこはわたしの仕事です、と少し不満そうにしている。
誰かが覚えればまた誰かへ渡っていくのを見てから、管理棟へ戻る前に二人で最後に露天へ寄ることにした。
春の夕方はまだ少し寒く、露天の湯気が低いところを横へ流れていた。
「入っていきますか」
「今日は?」
「仕事ではなく」
ヨナス様が少し笑った。
「では、入ります」
グレタへ声を掛け、入口に残っていた最後の札も裏へ返した。
露天にはほかに誰もおらず、入口の札も戻してあるので、湯気の向こうには二人ぶんの影しかない。
ヨナス様は先に縁へ腰を下ろし、足からゆっくり湯へ入った。
以前なら胸のあたりで止めていた人が、今は肩まで自然に沈み、濡れた髪を後ろへ払ってから、岩へ背を預ける。
湯に触れた肩から腕へ薄く赤みが広がり、湯面へ出ている前腕には昼の仕事で付いた細い傷が一つ残っていた。
「そこ、熱くないですか」
「大丈夫です」
「樋側なので、少しだけ動いたほうが」
「はい」
ヨナス様が一歩ずれると肩までの湯気が揺れ、そのぶんこちら側へ細かな波が届いたので、わたしも足から腰、肩の順に沈んだ。
春の夕方はまだ少し冷えるが、首まで入れば外気との差がちょうどよく、息を吐くと肩の力が抜けた。
仕事ではなく入る湯は、同じ温度でも少し違って感じる。
「今日は湯温を見なくていいのですか」
「閉めたあとですから」
「それでも見ています」
「癖です」
「そうでしょうね」
笑うとヨナス様も少し笑い、湯の中で膝をゆっくり伸ばして痛みがないか確かめる動きまで、もう見慣れている。
「膝は?」
「今日は大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「では、会いに来ただけ?」
「はい」
今度は返事まで早く、それを聞くと胸の奥が少しだけ熱くなり、湯のせいではないことくらいはもう分かった。
去年の冬、ここへ来た最初の日には、五年も温泉へ入れるのだと思って一人で喜んだ。
あのとき欲しかったのは湯だけで、誰と入るかも、誰がここへ来るかも、何一つ考えていなかった。
その五年はもうなくなり、処分も封印も終わったが、湯治場と、ここで働く人と、自分で選んだ三年は残っている。
そして向かい側には、今日もヨナス様がいる。
湯へ入ったあと、いつものように向かい合う位置へ座りかけたヨナス様が少し迷い、石一つぶん離れていた場所を半分ほど詰めて腰を下ろした。
肩が触れるほどではないが、湯の流れが二人のあいだで分かれず同じ方向へ抜けていくくらいには近い。
「テア」
「はい」
「明日も来ても?」
「仕事は?」
「ありません」
「膝は?」
「たぶん大丈夫です」
「乳はあります」
「では、来ます」
その答えが可笑しくて少し笑うと、ヨナス様は湯の中で一度だけ目を伏せ、それからこちらを見た。
「三年後も?」
今度は、仕事の話ではないと分かった。
「三年後は、まだ分かりません」
「そうですね」
「でも」
湯面へ落ちた一滴が、二人のあいだで小さく広がる。
「来てほしいと思っていたら、また言います」
「では、聞きます」
「何を?」
「三年後に」
「覚えていたら」
「覚えています」
返事が早すぎて、少し笑った。
「乳がなくても来てください」
「はい」
前に、次は終わらないものがいいと言われて、まだ決めていないと答えたことを思い出した。
終わらないかどうかは今も決められないが、明日も来て、その次も来るかをその都度選べるなら、それで十分な気がした。
今度は間違えず、湯面へ春の風が触れると細かな波が向こう側まで広がった。
毒の泉と呼ばれていた湯は、今日も何も知らないまま流れている。
人が勝手に怖がって封じ、理由を忘れ、長い時間を経てまた開いた場所へ、最初は罰として来たのに、いまは自分で選んで残っている。
しばらく二人とも何も言わず、樋から落ちる湯の音と、遠くで片付けるグレタたちの気配だけを聞いた。
湯そのものは最初の日と同じ温度で流れているのに、そのそばにいる人との距離だけは、最初の日にはなかったものになっていた。
「いい湯ですね」
最後に、それだけ言った。
ヨナス様がこちらを見る。
「はい」




