第48話 柵を外す日
柵を外してよいという許可は任命通知から五日後に領地管理局から届き、本院と王宮祭祀局の確認も済んでいるため、古い刻印の残る支柱を一本だけ保存すれば、その他は施設側で処分してよいとあった。
「一本、残すんですね」
ピナが紙を覗き込む。
「記録のためです」
「柵なのに?」
「柵だったからです」
百年のあいだ意味を変えながら残ったものを全部薪にする必要はないので、ボリスは保存する一本へ先に印を付け、腐っている支柱から順に抜く段取りを決めた。
「今日やるか」
「人、足りますか」
「村から来る」
ラルフがもう声を掛けていたらしく、昼前には男が六人集まり、ヨナス様も教会側の確認者として来ている。
「最後の仕事ですね」
声を掛けると、ヨナス様は一度こちらを見た。
「封印については」
「はい」
そこだけはきちんと区切り、ボリスが最初の支柱へ縄を掛けると、雪解けで土が柔らかいため二人で引くだけで思ったより簡単に一本目が抜けた。
「軽いな」
「中が腐ってる」
倒れた材の内側は黒く、これでよく立っていたと思うほど脆かった。
二本目、三本目と進み、新しく交換されていた材になると四人がかりになり、縄を引く男たちの靴が雪解けの土へ深く沈んだ。
何のためか分からないまま直され続けた柵が、今度は理由を知った人たちの手で一本ずつ外されていく。
少し離れたところで、ピナが本数を声に出して数えていた。
「七本!」
「声に出さなくていい」
「間違えないためです!」
誰も止めなかった。
保存する一本だけはヨナス様とボリスが根元の刻印――疫病時の閉鎖印――を確認してから抜くことになり、ヨナス様も外套を脱いで袖を肘までまくり、縄を握る側へ回ったため、土から離れたときには手の甲へ赤い縄の跡が残り、袖口には泥が跳ねていた。
「これで?」
ピナが聞く。
「柵は終わりです」
ヨナス様が答えたあと誰もすぐには動かなかったが、柵がなくなった斜面は思っていたより何も変わらず、向こう側に別の泉があるわけでもなく管理棟裏の道が少し広く見えるだけだった。
「こんなもんか」
顔役が言った。
「何かあると思ってた?」
「何百年も閉じてたからな」
ラルフが笑う。
「柵がなくなっただけですよ」
「そうなんだよな」
その答えが一番正しく、抜いた支柱はその場で三つに分け、まず保存する一本を脇へ置いた。
残りは、まだ材として使えるものと腐っていて薪にも向かないものへ分け、ボリスが一本ずつ木口を見ながら再利用できる材だけを寄せていった。
「何に使いますか」
「棚の補強なら使える」
「柵だった木を?」
「木は木だ」
その答えを聞いて少し笑い、封印を支えてきた材が今度は薪置き場の棚になるなら、役目が変わるだけで全部を捨てる必要はないらしい。
作業のあとは泥の付いた脚と手を洗って全員で足湯へ入り、ヨナス様も村の男たちと同じように石の縁へ座ったが、袖をまくったままなので普段は法衣に隠れている前腕まで見え、縄を引いたところだけ筋が少し浮いている。
「神官様、もう見張らなくていいんだろ」
「最初から見張っていたわけではありません」
「じゃあ何してた」
「確認です」
「今日で終わり?」
「封印については」
また同じ答えになったが、今日はその言葉のあとに誰も「では次は」と聞かず、足湯へ座ったヨナス様は湯へ入れた両手を一度開いて、縄の跡が残った掌を見た。
「痛みますか」
「少しだけです」
「膝じゃなくて?」
「今日は手ですね」
言われて手を取るわけにはいかないので、クレメンスに見せるよう勧めた。
「それほどではありません」
「では湯へ長く入れないでください。赤くなっています」
「テア」
「はい」
「見ていたのですか」
「作業していれば見えます」
いつもの答えをすると、ヨナス様は少し笑った。
「そうでしたね」
指を湯から上げると水滴が手首を伝ってまくった袖の手前で止まり、普段は法衣に隠れている場所まで見えると同じ人なのに少し違って見えた。
「今日は、神官様というより木こりですね」
「木こりには怒られます」
隣でボリスが聞いていたらしく、すぐに鼻で笑った。
「腕が足りん」
「だそうです」
「精進します」
ヨナス様は本気なのか冗談なのか分からない顔で答え、もう一度足湯へ手を沈めた。
昼の片付けでは、抜いた穴へ誰も落ちないよう縄を張り、ピナが入口側へ小さな札を立てた。
「柵を外したのに、また縄です」
「今日だけです」
「同じことしてるみたいです」
「意味が違います」
朝まで人を止めるためにあった柵と、今日だけ穴へ落ちないよう張る縄は、見た目が似ていても役目が違う。
ピナは少し考えて、では明日なくなるほうがいい縄ですね、と納得し、ボリスも明日の朝には穴へ土を戻せると言ったので、残った作業は封印を続けるためではなく普通の道へ戻すためのものになった。
午後には王宮から急使が来て、父が申請していた処分見直しの決定として、ヴェルテが正式な王領施設へ再開され本人が管理人に任命されたことをもって残りの処分期間を免除すると伝えられた。
日付は半月前になっており、五年の処分はそこで終わった。
「終わりましたね」
オットーが言った。
「はい」
任命は三年、処分は今日でゼロになり、同じ管理人という仕事に付いていた二つの数字が完全に分かれた。
グレタが通知を読み、目元を少しだけ緩めた。
「王都へ戻らなくてよいのですね」
「管理人なので」
「そうではなく」
言い直される。
「ご自分で残るのですね」
「はい」
今度は意味を間違えず、処分解除の紙を受け取ったあとも午後の受付を止めなかったため、柵がなくなったことを知らない外来客の一人はいつもの道を遠回りして入口へ来た。
「こちらから通れたんですね」
「今日からです」
新しく開いた道を見せると客は少しだけ得をした顔で笑い、大きな制度が動いた日に現地で変わったことは歩く道が一つ増えたくらいだったので、処分解除の通知は任命書とは別の棚へ入れ、使うための紙ではなくてもここへ来た理由を示す最初の記録として残すことにした。
夕方、兄へ手紙を書き、処分解除の通知を受け取ったことと、管理人として三年任命されたことを最初に記した。
続けて父へ礼を伝えてほしいこと、最後に王都へは戻らないことを書き、戻れと言われていない以上わざわざ記す必要はないものの、自分で決めたこととして一度は残しておきたくて、封をする前にグレタへ読んでもらった。
「これで?」
「お願いします」
「旦那様、驚かれますでしょうか」
「たぶん」
「奥方様は?」
「驚かない気がします」
そこだけは二人とも同じ意見だった。
夕食のころには、村の子どもまで柵のなくなった道を見に来た。
「ここ、通っていいの?」
「穴へ入らなければ」
「明日から?」
「明日、ボリスが埋めてから」
子どもは縄の外から斜面を覗いて何もないね、と言って帰り、大人が一日かけて外したものも知らない子には最初から何もない場所に見えるなら、それでいいと思った。
昼に大勢いた斜面も夜になると足跡だけが残り、閉め時間のあとに柵のあった場所へもう一度行った。
保存する支柱は管理棟の壁へ寝かせてあり、斜面には抜いた穴だけが残っていて、明日ボリスが土を入れて埋める予定を思い出したところで足音がし、振り返ると昼に本院へ戻ったはずのヨナス様がいた。
「また?」
「はい」
「今日はもう仕事ではないですよね」
「はい」
「何をしに?」
「……見に」
「柵を?」
「なくなったところを」
なくなった柵を見たいというのは、たぶん半分くらいは本当だと思う。
「昼にも見ましたよね」
「昼とは違います」
「夜だから?」
「それもあります」
また理由を一つ残した。
夜に戻ってきたヨナス様は、昼の作業で使った外套ではなく、乾いたものへ着替えていた。
それでも右手の掌には薄い赤みが残っている。
「手、まだ痛みます?」
「少しだけ」
「だから長く握らないでと言ったのに」
「柵は今日で終わりでしたから」
その言葉を聞いて、昼に抜いた最後の支柱を思い出した。
「終わる仕事、増えましたね」
「はい」
「封印も、柵も」
「はい」
「では次は?」
聞くと、ヨナス様は斜面の下に見える足湯の灯りへ目を向けた。
「次は、終わらないものがいいです」
「何ですか、それ」
「まだ決めていません」
今度は理由ではなく、答えのほうを残したらしい。
斜面の上から湯治場を見る。
露天の湯気、休憩室の灯り、足湯を流れる細い湯。
柵がなくなっても、湯治場は何も変わらず動いている。
「処分も終わりました」
「聞きました」
「これで、本当に残る理由は仕事だけです」
口にしたあと、すぐ違うと思った。
仕事だけではなく、村があり、グレタもピナも、ボリスもクレメンスもオットーもいる。
そこまで考えてから隣を見ると、ちょうどヨナス様と目が合った。
「仕事だけではありませんでした」
言い直す。
「はい」
ヨナス様は理由を聞かなかった。
聞かれなくても、こちらはもう分かっている。
坂を戻る途中、柵のなくなった道を二人で並んで歩いた。
一人ずつ通っていた場所を、いまは二人で並んで歩ける。
肩が触れるほど近くはないが、ヨナス様の歩幅に合わせると、足音だけは同じ間隔で続いた。




