第46話 理由のない来訪
ヨナス様が次に来たのは七日後で、巡回の日でもなければ本院からの紙も持っておらず、柵の確認も前回で終わっているため、仕事の上ではここへ来る理由がもう残っていない日だった。
それでも坂を上がる黒い外套を見つけると、まだ数字を書き終えていなかった湯温の紙を一度だけ机へ置き、入口まで出た。
「今日は?」
「……足湯へ」
返ってきた答えは、いつもより少しだけ短かった。
「膝ですか」
「はい」
膝かと聞いた返事は少し遅れて返ってきて、気になるという答え自体は嘘ではないものの、それだけでもなさそうだったので、こちらから先に理由を聞くことはしなかった。
足湯には村の老人が二人いて、ヨナス様が座ると少し詰めて場所を空けた。
「神官様、仕事じゃないのか」
「今日は違います」
「じゃあ休みか」
「そうなります」
「休みにここまで歩いてきたのか」
ヨナス様が黙ると、老人は気にせず好きだねえと笑い、何が好きなのかは誰も聞かなかった。
そこへピナが、今日の乳の札を抱えてやってきた。
「神官様、今日はありますよ」
「いただきます」
「湯守様も?」
「あとで」
足湯の縁にはいつもの人たちがいるのに今日は少しだけ空気が違って感じられ、それはヨナス様に、ここへ来る仕事上の理由がもうないからだった。
ヨナス様は足湯のあともすぐには帰らず、休憩室で温かい乳を両手に持ったまま村人の出入りを見ていて、巡回なら確認事項へ入るはずのことを、今日は何一つ帳面へ書かなかった。
「書かないんですね」
「今日は仕事ではありませんので」
「本当に?」
「……はい」
答えるまで少し間があった。
ピナはその会話を聞いていたが、神官様も休みの日があるんですね、と別のところへ感心していた。
昼過ぎ、ザント担当官の使いが管理人任命の最終候補は二名だと知らせ、一人目の欄にはわたしの名前、もう一人には北部の宿駅を長く管理していた男の名が書かれていた。
「経験では向こうが上ですね」
オットーは、もう一人の候補者の経歴まで紙の上で確認した。
「湯治場の経験は?」
「ありません」
「では、こちらが上です」
「そういう比べ方になります」
最終選考では、現在の運営記録と、今後三年間の管理方針を出すことになっている。
「三年間で何をするか」
「はい」
机へ新しい紙を置き、春の冷水樋、冬の薪、村の宿、外来三枠、事故記録を順番に並べると、すでに続けるものだけで紙の半分は埋まりそうだった。
「新しいものは?」
紙の端から、ピナが興味深そうに覗き込んだ。
「まだ書きません」
「増やさないんですか」
「増やすかもしれません」
「やっぱり」
やはり増やす気なのだと分かり、横でグレタが小さく笑った。
午後、三年間の管理方針を書いていると、ヨナス様は休憩室の端から紙を見ていた。
「三年、ですか」
「任命されたら」
「長いと思いますか」
「一年で九つまで増えたので、三年後は分かりません」
「また増やすのですか」
「必要なら」
答えると、ヨナス様は少し笑った。
「テアらしいです」
「褒めています?」
「はい」
返事が早く、今度はこちらが少しだけ黙った。
そのあとヨナス様は紙へ近づかず、窓際から村人の出入りを見ながら半日を同じ場所で過ごし、仕事でも巡回でもない日にそれを妙だと思わなくなっている自分のほうが少し妙だった。
候補が二人になったと聞いても、村側の反応は思ったより静かだった。
顔役は、決めるのは本局だからな、とだけ言い、ラルフは向こうの人も湯へ入るんですかね、と妙なところを気にした。
「選考に入浴はありません」
「残念ですね」
「何が?」
「一回入れば、湯守様のほうが有利そうなのに」
入浴で決める選考ではないのでラルフの考える勝負の方法とはだいぶ違うが、村の人が必要以上に騒がないことには少し助けられた。
残りたいのは自分で決めたことだから、最後まで他人に決めてもらう話にはしたくなかった。
午後になると、三年間の管理方針を一枚ずつ書き始めた。
一つ目に設備の安全維持、二つ目に村との契約継続、三つ目に外来客を急に増やさないことを書く。
四つ目には事故や失敗を隠さず記録することを入れ、五つ目だけは少し長くなって、管理人以外の人間がそれぞれの仕事を続けられるようにする、と書いた。
「最後が一番長いですね」
横から読んでいたオットーが、字数だけを指摘した。
「短くします」
「内容ではなく、字数です」
削って、管理人が替わっても運用が続く形を維持する、と一行にした。
「ご自分が替わる前提で書くんですね」
「王領施設なので」
「そうですね」
オットーはそれ以上言わなかった。
方針書を一度読み返したクレメンスは、事故記録を隠さないという項目だけに印を付けた。
「ここは残してください」
「もちろんです」
「新しい管理人が誰でも?」
「誰でも」
クレメンスは頷いて、その横へ小さく、健康記録も同じ、と書き足し、わたしが残るための選考書類へ自分がいなくても続く条件が増えていくことも、矛盾しては見えなかった。
夕方前には、最終候補の知らせを聞いたグレタが、王都へ出す服を用意する必要はあるのかと聞いた。
「面接があるとは書いていません」
「王都へ呼ばれたら?」
「そのとき考えます」
「そのときでは遅いです」
いつものやり取りになり、結局冬用の上着だけ先に確認することになった。
管理人を選ぶ話なのに、グレタにとっては最後まで衣服の心配も同じ重さで残るらしい。
夕方になってもヨナス様はまだ湯治場にいて、足湯から上がったあと休憩室で温かい乳を飲み、本院へ戻る様子がない。
「帰らないんですか」
「帰ります」
「いつ?」
「もう少ししたら」
外ではボリスが新しい看板の金具を直し、ピナが閉め時間の鐘を磨き、グレタも布を畳んでいて、誰もこちらの会話を気にしていない。
「方針書ですか」
休憩室へ戻ったヨナス様が、机の上の方針書へ目を止めた。
「はい」
「読んでも?」
「どうぞ」
五つの項目を順に読み、最後の一行だけ少し長く見ていた。
「管理人が替わっても」
「はい」
「テアが残るための紙なのに?」
聞かれて、答えを急がず少しだけ考えた。
「わたしが残れたとしても、ずっと同じではありません」
「三年後?」
「もっと先も」
湯治場が続くなら、いつかは自分以外が管理する。
「だから、わたしが残るための紙と、わたしがいなくても残る紙は、同じでいいんです」
ヨナス様は、最後の一行へもう一度視線を戻した。
「それが、あなたらしいと思います」
「褒めています?」
「はい」
閉め時間が近づいて村の人が一人ずつ坂を下り始めると、ヨナス様もようやく外套を着た。
「今日は、本当に足湯だけでしたね」
「乳も飲みました」
「そうでした」
入口まで送ると坂にはもう雪がほとんど残っておらず、土の匂いが少し強くなって、冬の終わりが近いことだけは分かった。
「ヨナス様」
「はい」
「今日は、何をしに来たんですか」
聞かないつもりでいた問いが先に口から出ると、ヨナス様は坂の手前で足を止め、すぐには答えなかった。
「足湯へ」
「それは聞きました」
「……乳を飲みに」
「それも」
また黙ったが、この人はもともと誤魔化すことが上手くないので、しばらくして諦めたようにこちらへ向き直った。
まっすぐ見ているのに、外套の脇へ下ろした右手だけは一度強く握られ、指先が白くなってからゆっくり開く。
「テアに会いに来ました」
今度の答えだけは言ったあとに言い直されず、こちらの返事もすぐには出なくて、胸の奥だけが湯へ入ったときより急に熱くなった。
ヨナス様は返事を催促せず、ただこちらを見ているが、呼吸だけがさっきより少し浅い。
同じことをこちらから言うには、この人が何を捨てることになるのかを先に数えてしまう。
「それだけです」
少し間を置いてからヨナス様はそう付け足し、今度は自分から視線を外して坂の下を見た。
「仕事ではなく?」
「はい」
「膝でも?」
「膝もあります」
膝の理由だけは最後まで残しておくらしく、少しだけ笑うと、ヨナス様も息を吐くように口元を緩めた。
坂を下りる前に、ヨナス様はもう一度だけこちらを見た。
「また来ても?」
さっき「会いに来た」と言ったときより声が少し低く、返事を待つあいだだけ肩が固く見えた。
「はい」
長い返事をする必要はなく、一言返した瞬間、ヨナス様の肩からようやく力が抜けた。
坂の途中で振り返るかと思ったが、ヨナス様はそのまま歩いていき、また来ると聞いたあとでは見えなくなるまで追う必要もなかった。
ヨナス様が帰ったあと管理棟へ戻ると、机には三年間の方針書が残っており、最後の一行は「管理人が替わっても運用が続く形を維持する」のままで、読み直しても直す必要を感じなかった。
自分が残りたいことと、いつか自分がいなくても続いてほしいことは、もう同じ紙に書ける。
入口からピナが顔だけ出した。
「湯守様、明日の乳は七杯です」




