第45話 五年ではなく
本局へ候補者調書を送ってから十日ほどして、王都から兄の手紙が届いた。
差出人はアルノーで、父がわたしへの処分見直しを正式に申請したと書かれており、王宮の水盤を壊した罰として、ヴェルテを五年間管理する。
その前提だった廃湯治場はもう存在せず、施設は正式に再開され、管理人も別の手続きで任命されるので、前提そのものが消えた以上、処分だけを残す理由もない。
「分かっていたことですが」
オットーが手紙を読み、少し間を置いた。
「いよいよ紙になりますね」
「そうですね」
兄の手紙にはもう一つ、父は処分を外したあとも王都へ戻れとは言わず、管理人への応募も止めないと書かれていた。
伯爵家の娘として何を選ぶかは、自分で決めろと言っている。
「父上が?」
その一文だけは、最初からもう一度ゆっくり読み直し、戻れでも残れでもなく、自分で決めろとだけ書かれている。
戻れでも残れでもなく、自分で決めろという一文だけで、父から届く手紙としては十分に意外だった。
グレタへ見せると、最後まで読んでから小さく息を吐いた。
「奥方様が何かおっしゃったのでしょうか」
「母上が?」
「旦那様お一人で、ここまで書けますでしょうか」
「グレタ」
「失礼いたしました」
口には出さなかったが、わたしも少しだけ同じことを思ったので、昼前には領地管理局からも正式な通知が届いた。
処分見直しの審査中につき、現在の管理業務とは切り離して扱うので、管理人の任命選考は、そのまま進めると続いている。
「完全に別ですね」
オットーは処分の紙と管理人の紙を、机の上へ少し離して並べた。
最初は同じ一枚の中にあったものが、いまは別の束へ分かれており、五年という数字も、管理人の任期からは消えた。
「もし任命されたら、任期は?」
「三年です」
「三年」
「更新あり、とあります」
三年は五年より短いが、終わったあとには更新するかどうかをもう一度選べるので、罰として数える期限と、自分で続けるか決められる任期では同じ年数でも意味が違う。
ヨナス様が来たのは、兄の手紙と管理局の通知を読み終えた日の夕方で、いつものように深い側へ座ると、今日は巡回の綴じも封印の紙も持っていない。
「今日は何の用ですか」
聞くと、ヨナス様は靴を脱ぐ手を止めなかった。
「来ると言いましたので」
「それだけ?」
「それだけです」
今日は膝も教会も理由へ足さず、それだけで話が終わり、ヨナス様は湯へ両足を入れて熱さに慣れるまで少し待ったあと、いつもより短く足湯を使って帰った。
翌日の昼、足湯には処分見直しの話をもう知っている村人がいた。
「五年じゃなくなるんだって?」
「まだ審査中です」
「じゃあ三年になるのか」
「それは管理人に任命された場合です」
「ややこしいな」
老人はそれだけ言うと、湯へ足を戻し、紙の上では別々になった処分と任命も、村の人にはまだ一つの話に見えるらしい。
説明しているうちに、罰が終わることと、ここを離れることは別の話だと、自分の中でもはっきり分かれてきた。
午後、グルント商会から薪が届き、メルダーも荷車と一緒に上がってきた。
「書類のほう、動いているそうですね」
「どこで聞いたんですか」
「王領施設の管理人が変われば、契約名義の確認が要りますので」
商人は、こういうところだけ妙に情報が早かった。
「まだ決まっていません」
「では、決まるまで現状のままにします」
そのまま薪置き場へ行き、ボリスと今年の残量を数え始めたので、わたしが管理人になるかどうかに関係なく、来冬の薪は必要になる。
自分がいなくても来冬の薪が要るという事実は変わらず、今日はもう、自分が残りたいと書類へ出したあとだった。
残れなければ仕方がないが、最初から残るつもりがないのとは違い、その差は、思っていたよりずっと大きかった。
メルダーが帰ったあと、ボリスは薪置き場の新しい棚を一段増やすと言った。
「来年も使うなら、このままじゃ足りん」
「お願いします」
返事をしてから、来年も、という言葉が自然に出たことへ少し遅れて気づいた。
まだ任命は決まっていないのに、来年の話だけは先へ進んでいくので、それでも春の樋も来冬の薪も、もう自分が見るつもりで考えている。
グレタは何も言わなかったが、横で聞いていた顔だけ少し柔らかかった。
午後の外来客が帰ったあと、兄の手紙をもう一度読み返し、父の文面そのものは一行もなく、すべて兄が伝えた形になっている。
それでも、戻れと言わないことと、応募を止めないことは父自身の判断だと明記されていた。
グレタは横で、旦那様なりに書いたのでしょうね、と今度は少しだけ優しく言った。
「兄上が代筆しただけですが」
「それでも、言わせたのは旦那様です」
その見方なら、父の手紙がなくても意味は残る。
夕方の足湯へ向かう前、深い側の縁を拭いた布を片づけかけて、本院へ戻る候補の名を思い出し、使う人がいなくなるなら毎日同じ場所まで磨く必要はないと考えた。
それでも布を戻して縁をもう一度拭き、終わったところで坂の上へヨナス様の黒い外套が見えた。
巡回ではなく、封印の照会ももう終わっている。
「今日は?」
聞くと、ヨナス様は少しだけ間を置いた。
「本院から、最終確認の写しを届けに」
ヨナス様が出した一枚には、恒久封印解除、教会側の管理対象から除外、柵は領地管理局の許可後に撤去可能と並んでいた。
「では、仕事ですね」
「はい」
仕事だと認める返事だけが、少し早く返ってきたので、足湯へ案内すると、ヨナス様は何も言わず靴を脱ぎ、いつもの深い側へ座った。
「処分の見直しも動きました」
「聞きました」
「本院で?」
「王都からの通達に名前がありました」
ヨナス様が膝を動かすたび、足元の湯が小さく揺れた。
「五年ではなくなるかもしれません」
「はい」
「管理人へは応募しました」
そこで、ヨナス様がこちらを見た。
「そうですか」
「驚かないんですね」
「希望されると思っていました」
「どうして?」
「ここに残すものを作るとき、いつもご自分がいなくても続く形にされます」
そこで一度切った。
「でも、いなくなりたい人の作り方には見えませんでした」
言われてすぐには返事が出ず、自分ではそこまで考えていなかったことに気づいた。
「テア」
「はい」
「残りたいのですか」
今度は、仕事の話ではない聞き方で、足元の湯を見ながら、施設を残したいこと、村との契約も春の樋も続けたいことを順番に考えた。
新しい看板の下で、来年の冬も湯温を測りたいので、その理由だけなら、もう候補者調書の中へ十分に書いてある。
「はい」
今度は、紙ではなく自分の声で答えた。
「残りたいです」
ヨナス様の手が、足湯の縁で止まり、湯へ入れていた足も動かなくなり、こちらを見たまま一度だけ息を止めたように見えた。
言ったあと、胸の奥が少しだけ軽くなったので、ヨナス様はすぐには答えず、足湯から上がる時間を少し過ぎても動かなかった。
「残りたいです」と言ったあと、ヨナス様はすぐには何も言わなかった。
湯気が二人のあいだを横切り、向こうの顔が一瞬だけ白く隠れるので、そのあとで見えた表情は、笑っているようにも、息をついたようにも見えた。
「よかった」
小さく出た声だった。
「何がですか」
「……いえ」
そこで止めたので、今度はこちらが待った。
「テアが、ここにいたいと思っていることが」
ヨナス様は言い直すように続けた。
「それが、よかったです」
「ヨナス様に関係あります?」
聞くと、今度は本当に困った顔になった。
「あります」
「教会として?」
「違います」
「膝?」
「それも違います」
理由が全部なくなった。
「では?」
ヨナス様は答えず、足湯から立ち上がる時間を過ぎても動かなかった。
「ヨナス様」
「はい」
「半刻です」
「……そうでした」
ようやく立ち上がり、今日はクレメンスに言われる前に自分から足を拭いたので、足湯から上がったあと、ヨナス様は兄の手紙を読むことはしなかった。
ただ、父上が自分で決めろと言ったことだけ話すと、少し考えてから、それはよかったですね、と答えた。
「よかった?」
「選べるのでしょう」
「はい」
「では、選んだものが残るように動けばいい」
選んだあとに何をするかを先に考えるのは、ヨナス様らしい答えだった。
残るか戻るかではなく、選んだあとに何をするかの話になるなら、父の手紙も初めて命令ではなく選択肢として読める。
閉め時間まで少し余裕があったので、足湯の温度を二人でもう一度確かめた。
二人で足湯の端へ手を入れ、樋側と遠い側の温度を比べているだけなのに、確認が終わってもすぐ立つ人はいなかった。
帰る前、管理棟の入口でヨナス様が一度だけ振り返った。
「テア」
「はい」
「任命が決まる前でも」
そこまで言ったところで、ヨナス様は一度だけ言葉を止めた。
「私は、また来ます」
「膝で?」
「……それもあります」
膝の理由だけは残したまま今度は少しだけ笑い、ヨナス様が坂を下って黒い外套が見えなくなったあと、足元に兄の手紙があることを思い出した。




