第44話 保留解除
照会終結の通知が届いたのは、ヨナス様が報告を出してから二十日後のことで、領地管理局の封書には、本院と王宮祭祀局の確認を受け、ヴェルテの泉へ恒久封印を続ける根拠を認めないとある。
その下には、施設区分変更と管理人任命の保留を解除する、と同じ筆跡で続いていた。
「来ましたね」
オットーが最後まで読み、紙を机の中央へ置いた。
「はい」
分かっていた内容なのに、実際の文字になると重さが違い、報告を出してから二十日、ヨナス様は一度も坂を上がってこなかった。
照会が本院と祭祀局を回っているあいだは、こちらへ来る公的な用がなく、その二十日ぶんの湯温も、足湯の利用人数も、乳の提供数もいつもどおり全部書いてある。
正式な王領湯治場として扱い、正式な管理人を置く手続きを今日から動かす。
「すぐ替わるんですか」
ピナが入口から顔を出した。
「今日ではありません」
「明日?」
「もっと先です」
オットーが答えると、ピナは少しだけ安心した顔になり、候補者を決め、必要な書類を揃え、本局が任命するまでのあいだは現任者が職務を続ける。
「現任者って湯守様ですよね」
「そうです」
「なら、そのままでいいじゃないですか」
ピナには簡単な話に見えるらしいので、仕事だけを見れば、わたしにも同じように見える。
朝の湯温を測り、取水量を確かめ、村と商会の紙を見て、事故があれば原因を調べる。
やっていることは明日も変わらず、変わるのは、誰の名でそれを続けるかだった。
「本局から候補者調書も来ています」
オットーが二枚目を広げたので、読み書き、計算、帳面の作成、定期報告、施設管理の経験、事故対応の記録。
並んでいる項目は、前にこちらから送った業務一覧とほとんど同じだった。
「これ、わたしたちが出した紙ですよね」
「かなり使われています」
「そのまま?」
「言葉は少し整えられています」
現地で必要な仕事を書いてほしいと言われ、こちらが出した内容が管理人の条件として戻ってきた。
「では、湯守様が一番合ってるじゃないですか」
「ピナ」
グレタが止める。
「だって」
「任命するのは本局です」
そう答えると、今度はグレタまで少し困った顔をし、昼前から候補者調書を一つずつ埋め始めた。
名前、年齢、身分、読み書き、計算、管理経験。
施設管理経験、一年余り。
事故対応、二件。
春の湯あたり。
夏の取水で村の沢を細くした件。
どちらも自分で報告したものだった。
「不利になりますか」
オットーへ聞いた。
「書かなければ、もっと不利です」
「そうですね」
ザント担当官も、書く施設のほうを信用すると言っており、ただし、信用と判断は別だとも続けた。
それでも今ある紙を隠す理由にはならず、昼を過ぎてもヨナス様は来ず、照会は終わったのだから、本院側から見れば今日こちらへ来る必要はない。
足湯へ行くと、深い側のいつもの場所へ村の老人が座っていて、それ自体は何もおかしくないのに、一瞬だけ別の人を探した。
「湯守様、座るか?」
「あとで」
老人が少し詰めてくれたが、今は帳面を持っているので断ったので、管理棟へ戻る途中、グレタが乳の残りを数えている。
「今日は一杯余りそうです」
「そうですか」
「取っておきますか」
「誰に?」
聞き返すと、グレタは少しだけ眉を上げた。
「お嬢様がそうなさるかと思いまして」
「翌日には残しません」
「存じております」
それ以上は言わず、照会が終わっても来ると言ったのはヨナス様自身なので、来るならそのうち来る。
本院へ戻す候補に名前があることまで考えると、そのうちがいつまで続くのかだけは決められず、乳の鍋ではなく坂のほうへ一度だけ目が向いた。
帳面には今日来なかった人を書く欄がないので、そのまま候補者調書へ戻った。
そう考えたあと、今日は来ないのだともう一度思ったので、午後、クレメンスが調書を見に来た。
「健康管理の経験も入れるのですか」
「入っています」
「では、わたしの記録も添えましょう」
「必要ですか」
「管理人が一人で判断していない証拠になります」
その言い方で、少しだけ手が止まり、全部を一人でやっているなら、次の人へ渡せない。
クレメンスの帳面があり、ボリスの修繕記録があり、ピナの札と鐘があり、オットーの収支がある。
グレタの備品、村の代表、商会との契約も同じで、管理人が替わっても全部が消えるわけではなく、そのために作ってきたはずだった。
昼食のあと、候補者調書を持って実際の設備を一周した。
紙には施設管理経験と一行で書けても、その中身は水槽ごとの湯温、樋の詰まり、冬の凍結、足湯の石の緩みまでばらばらで、ボリスは新しい看板の金具を締めながら、管理人になったら自分で全部見るのかと聞いた。
「全部は見ません」
「じゃあ誰が見る」
「いままでどおりです」
樋と木はボリス、体調はクレメンス、札と鐘はピナ、帳面はオットーが見て、わたしはそのどれかが止まったときに次を決める。
「なら変わらんな」
「たぶん」
ボリスはそれで納得し、金具のほうへ戻り、正式な資格を考えているのに、現場で出る答えは今までとほとんど同じで、夕方、顔役と宿の代表へも知らせを出した。
「任命が動くのか」
「はい」
「湯守様も候補なんだろ」
「書類は出します」
顔役は少し考えてから、村からも一枚出そうと言った。
「何を?」
「この一年、困ったことと助かったこと」
「悪いことも?」
「そのほうがいいだろ」
ラルフが横で笑った。
「父、そういうところありますから」
「悪いことを書かない推薦なんて、王都じゃ信用されないんじゃないか」
ザント担当官なら、たぶん同じことを言う。
「お願いします」
その晩、グレタは候補者調書の控えを見て、身分の欄だけ少し長く眺めた。
「伯爵令嬢と書くのですね」
「ほかに書きようがありません」
「湯守様ではなく?」
「それは役目です」
グレタは少し考え、では今度は役目を取りに行くのですね、と言い、処分で渡された役目ではなく、自分から希望して取りに行く。
同じ管理人でも、そこだけは確かに違った。
翌朝には、村側の紙が届いた。
湯の利用が増えたこと、宿へ金が入るようになったこと、朝の取水で沢が細くなったこと。
そのあと時刻を変えて、同じことが起きなくなったこと。
最後に、現在の管理人の継続を希望する、と書かれていた。
誉めるための紙なのに、失敗まで入っている。
そのほうが、この村らしかった。
村の紙を読んだクレメンスは、取水事故まで書かれているのを見て少し笑った。
「推薦する気はあるのですよね」
「あるそうです」
「正直ですね」
「そこは信用できます」
オットーが横で頷き、事故を書いた紙と推薦状が同じ封へ入るのは妙に見えるが、この一年を一番正確に表している気もした。
夕方、候補者調書の写しを作るため机へ戻ると、ヨナス様から預かったままになっていた古い封印関係の綴じが端に一冊残っており、照会が終わった以上、本院へ返すべきものだ。
「次の便で返しますか」
オットーが聞く。
「そうですね」
答えたあとで、少しだけ手が止まり、これを返せば、ヨナス様が取りに来る理由はなくなるので、そう考えた自分に気づき、綴じを閉じた。
「返します」
「はい」
オットーは何も言わず、発送の束へ移し、理由を残すために紙を手元へ置くようになったら、それこそ何をしているのか分からない。
午後、本局へ送る書類を封へ入れた。
候補者調書、クレメンスの記録、村の紙、業務一覧、事故報告。
オットーが順番を確認してから、最後に一枚だけ机へ残した。
「一つ、空いています」
「何が?」
「本人の希望です」
管理人として任命されることを希望するか。
希望する。
希望しない。
二つしかない。
仕事を続けられるかではなく、続けたいかと聞かれている。
紙を前にして、炭筆を持った手が少しだけ止まった。
五年だからここにいるのではない。
処分だから続けるのでもない。
その二つは、もう理由にならなくなる。
「湯守様?」
オットーが待っており、炭筆を持ち直し、希望する、の欄へ印を付け、書いてしまえば、驚くほど短かったので、封を閉じたところで、坂の下から馬の音が一度だけ聞こえた。
ピナが入口まで走っていき、戻ってきた手には見慣れた家紋の封書があった。
閉め時間の前、ピナが足湯の札を戻しながら聞いた。
「出しました?」
「出しました」
「どっち?」
「希望する、です」
ピナが笑い、少し遅れてグレタも笑ったので、足湯の向こうにいた村の老人が、やっと自分で決めたか、とこちらを見た。
「聞いていたんですか」
「声が大きい」
「湯守様、明日の乳は六杯です」
ピナが慌てて口を押さえたので、その日の最後に、古い処分書の控えも棚から出し、五年間管理する、と最初の頁に書かれており、今の候補者調書を隣へ置くと、同じ管理人という言葉でも意味が違って見えた。
片方は命じられた仕事で、もう片方は自分から選んだ仕事で、オットーは二枚を同じ束へ戻さず、処分と施設の棚へ分けてしまった。
足湯の湯気の向こうで、村の人たちはいつもと同じように靴を履き直しており、こちらの肩書が正式になるかどうかで、今夜の帰り道が変わるわけではない。
外した古い処分書と新しい候補者調書は、同じ棚には戻さず、どちらもわたしの名前があるのに、もう同じ仕事を指す紙ではなかった。
閉め時間の鐘が二度鳴ったあと、ピナが入口から顔だけ出し、閉め時間のあと、ピナが机の端に置いていた封書を持ち上げた。
「王都からです。ブルクハルト家の印があります」




