第43話 一時の封印
再開記録についての返事は予想より早く、王都の大書庫ではなく王宮祭祀局から届いた。
封書にはヘニング様の署名があり、同じ写しをヨナス様にも送ったと末尾へ書かれている。
中にあった三枚は、柵の文字、水盤の底から出た板、それから祭祀局に残っていた古い手順書だった。
「再開の手順」
疫病で閉鎖した水場は、流行終息後に再確認し、問題がなければ閉鎖板を外す。
再開日を地方の記録へ残し、外した板は廃棄せず、修繕時に使えるよう保管する。
「だから、水盤の底に?」
グレタが聞き、もう一度水盤の板の写しを見た。
王宮の水盤は疫病後に再開され、外した閉鎖板だけが保管され、後の修繕で底板へ転用されたらしい。
文字のある面が下へ回ったため百年近く誰にも見えず、わたしが水盤を壊したときに初めて裏の刻みが表へ出た。
「ヴェルテは?」
三枚目にはヘニング様の追記があり、北部の再開記録を祭祀局でも探したが名前を確認できないとある。
ただし、閉鎖を恒久化する命令も見つかっていない。
「永久に閉じろ、はない」
「はい」
「閉じた記録だけが残って、開けた記録がない」
「そうなります」
少なくとも、いま残る紙の上ではそれが全部で、午前のうちにオットーは祭祀局の三枚を写し、本局用と湯治場用、封印関係の綴じへ分けた。
「また増えましたね」
「帳面ではありません」
「そこは大事?」
「たいへん大事です」
以前にも聞いたやり取りをしたあと、ピナは増えたのは紙だけですね、と妙に納得した。
昼前に来たヨナス様も同じ書類を持ち、本院から届いた返事を一通追加した。
「大書庫でも再開記録は見つかりませんでした」
ヴェルテの閉鎖は疫病時の一時措置で、恒久封鎖を命じた紙はどこにもない。
そのため現在の封印は、一時閉鎖の理由が失われたあとも慣例として続き、さらに後世の管理で祈祷や巡回が加わって、いつの間にか「解いてはならない封印」として扱われるようになった可能性が高い。
「可能性」
「断定はしません」
そこはヨナス様らしかった。
「本院にも、途中の記録は?」
「あります。ただし古いものほど『年四回確認』『異常なし』のような手順だけが残り、なぜ祈るのか、なぜ続けるのかは書かれていません」
「祈祷は、あとから?」
「おそらく」
ヨナス様は自分の綴じを開き、最古の頁と新しい頁を並べた。
「一時閉鎖の印を確認する仕事が、理由を知らないまま続き、そのうち教会の儀礼として形だけ残ったのでしょう」
誰か一人が嘘を作ったわけではなく、理由の抜けた手順だけが世代を越えて残った結果だった。
「でも、封印を続ける根拠は?」
「ありません」
その言葉だけは迷わず、誰もすぐ次の言葉を出さず、紙をめくる音だけが管理棟の中に一度響いた。
祭祀局の追記には、閉鎖から数十年後の手順書も添えられていた。
最初の行政命令では「板を置く」「再開時に外す」とだけ書かれていたものが、後代の手順書では「印のある泉を確認する」「異常がなければ祈祷を行う」「年四回、本院へ報告する」へ変わっており、再開日を記録する欄は、そこで消えていた。
「ここで変わった?」
紙を指すと、ヨナス様が頷いた。
「おそらく、この時点では既に『閉じた場所を管理する』こと自体が仕事になっています」
「開けるためではなく?」
「はい」
誰かが恒久封印を命じたのではなく、開ける理由を知る紙が失われたまま、閉じている場所を維持する手順だけが残った。
その手順を教会が引き受け、祈祷と報告を足し、次の世代は「なぜ閉じたか」ではなく「閉じたものをどう守るか」だけを教わった。
悪いことをした人はいず、ただ、正しく続けようとした仕事の中から、始まりの理由だけが少しずつ抜けた。
「ヨナス様も、その手順を?」
「教わりました」
「疑わなかった?」
「疑う理由がありませんでした」
そう答えたあと、ヨナス様は少しだけ笑った。
「テアが来るまでは」
「わたし?」
「封印された泉へ、入りたいと言う人は初めてでした」
「湯ですから」
「はい。そこから全部始まりました」
そう言われると、こちらとしては最初から同じ理由しかなく、ピナは意味を確かめるようにこちらとヨナス様を交互に見た。
「じゃあ、柵は?」
「教会として、恒久封印を求める理由がなくなります」
「外すんですか」
「手続きが終われば」
ピナが笑い、グレタもよかったですね、と同じように笑ったので、ボリスは少し離れたところで、柵の支柱を何本抜くことになるのか早くも数えている。
閉鎖の年は、この泉で人が死んだと聞かされてきた年でもあり、病が回った年に、人が集まる場所で人が死に、その直後に泉が閉じられた。
理由の書かれた紙だけが失われれば、「泉のそばで人が死んだから閉じた」という順番へ変わっても不思議ではなく、そこへ祈祷まで加われば「毒の泉」という通念のほうが、元の行政命令より長く生き残る。
クレメンスだけは、湯が無害だと証明した紙ではありませんよ、と念のため付け加えた。
「まだ言うんですか」
「毒ではないと証明した紙ではありません」
「でも一年、みんな入ってます」
「それは別の記録です」
「先生も入ってます」
「それも別です」
最後はクレメンスのほうが少し困った顔になった。
紙を箱へ戻したあと、外来客が来るまでの短い間だけ熱い水槽へ入り、冬の冷気に触れていた足から腰、肩の順に沈むと、朝から古い記録を追っていた頭が湯の温度へ戻り、長く入らなくても指先まで十分に温まった。
昼の外来客が来る前に、祭祀局の紙は一度箱へ戻した。
調査が進んでも受付を止める理由はなく、三人目の客は新しい看板を見て、次は柵ですかと聞いた。
「まだ手続きがあります」
「紙は多いな」
その言い方が少し可笑しく、オットーが聞いていないところでよかったと思ったので、知らせを聞いた村人の反応は、思っていたより静かだった。
一年近く普通に湯へ入ってきた人たちには、紙のほうが後から追いついたように見えるらしい。
「毒なら、とっくに誰か倒れてるだろ」
足湯の老人が言い、クレメンスがすぐ横で、そういう決め方はしません、と返した。
「先生は細かいな」
「仕事ですから」
そのやり取りのほうが、村には紙より分かりやすかった。
村へは確定したことだけを伝え、疫病時の一時閉鎖記録と恒久封鎖命令がないことを説明した。
正式な手続きが終わるまでは柵へ触れない、と最後に付ける。
「じゃあ、今すぐ祝う話ではないな」
「まだです」
「でも、前より近いんだろ」
「はい」
「なら、それでいい」
顔役はそれ以上騒がず、ラルフだけが柵を外すなら人手を出せると先の話を始めた。
「決まってからお願いします」
「分かってます」
返事はしたが、もう誰へ声を掛けるか考えている顔で、ボリスは柵を外す日のために、腐っている支柱だけ先に印を付けた。
「抜くとき折れる」
「まだ抜きませんよ」
「分かってる」
言いながら、使える材と使えない材をもう分け始めており、午後、ヨナス様と柵まで上がると、雪はかなり解けて古い支柱の根元まで見えていた。
「これを外せば、終わりますか」
「柵だけでは終わりません」
教会側の結論と領地管理局への通知、祭祀局の確認を揃える必要があるという。
「照会は?」
「私の報告で終結を求めます」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ狭くなった。
「いつ?」
「今日、戻って書きます」
返事が早く、それでいいと思うのに、聞いた直後だけ息が浅くなった。
この人なら調べたことを最後まで報告し、理由のなくなった封印をそのままにはしない。
「テア」
「はい」
「何か」
ヨナス様は途中で言葉を止め、こちらの顔を一度見た。
「何ですか」
「いえ」
先に斜面へ視線を戻したので、こちらからも続きを聞かず、帰り道には雪解け水が石の間を細く流れ、そのまま沢へ落ちていた。
「春みたいですね」
「まだ冬です」
「もう少しです」
その言い方が季節のことなのか、照会のことなのかは聞かなかった。
管理棟へ戻ると、ヨナス様は報告に添える写しを選び、オットーが一部ずつ控えを取った。
祭祀局の紙、大書庫の写し、柵の文字を並べると、それぞれ別に見えていた紙の行き先まで一つの流れとして読める。
報告の文面も、最後だけヨナス様が声に出して確認した。
疫病流行時の一時閉鎖を確認したこと、恒久封鎖の命令が存在しないこと。
現地では一年以上利用され、湯治場としての管理記録も継続していること。
最後に、封印継続の根拠を認めない、と書く。
「そこまで書くのですね」
「そこが結論です」
「教会として?」
「私の報告としてです」
誰かの判断へ逃がさず自分の名で出すところまで、この人らしかった。
夕方、本院へ戻る前にヨナス様は足湯へ寄り、今日は膝のためではないと言いながら靴を脱いだ。
法衣の裾を片手でまとめ、深い側へ腰を下ろして両足を入れると、熱さに慣れるまで足首が一度だけ強張り、そのあと長い指が石の縁からゆっくり離れた。
湯へ入れた直後、ヨナス様は冷えていた膝を急に曲げず、足首から温度を移すようにしばらく脚を伸ばしたまま座り、石の縁を握っていた指だけが少しずつ緩んでいった。
湯気が法衣の裾をかすめるたび片手で位置を直し、肩から息を吐くと、坂を上がってきたときに残っていた硬さもようやく少し落ちる。
わたしも隣で足を入れると、冷えた爪先から脛へ熱が上がり、同じ湯へ入っているのに、ヨナス様の膝が動くたび水面へ届く波のほうを先に見ていた。
「急いでいるのでは?」
「急いでいます」
それでも深い側へ足を入れたので、わたしも隣へ座った。
冬の足湯は春に作ったときより使われ、石の縁にも人が座った跡が残っている。
「封印がなくなっても」
ヨナス様が足元を見ながら言った。
「はい」
「巡回がなくなるわけではありません」
「王領施設ですから?」
「教会とは別に、私は来ます」
そこだけ言葉の順番が少しおかしかった。
「教会とは別に?」
「……膝がありますので」
理由としては正しいのに、少しだけ笑いそうになった。
「そうですね」
ヨナス様もこちらを見た。
「何ですか」
「いえ」
今度はわたしが続きを言わず、閉め時間の鐘が一度鳴り、少し間を置いて二度目が続いた。
ピナがいつもの数で終えると、ヨナス様は足を上げて立った。
「報告を出します」
「はい」
「照会は、これで終わります」




