第41話 峠が開く
四日目の朝、峠を見に行ったピナが、管理棟へ戻る前から荷車が来ると叫んだ。
外へ出ると、街道側の坂を一台の荷車が、雪の残る轍へ車輪を取られながら上がってきており、商会の紙、村の小包、王都から回された荷をオットーと一緒に分けていくと、最後に本院の印がある細長い包みが一つ残った。
宛名はヨナス様で、受取先だけがヴェルテ湯治場になっている。
「ここで渡すことになっていたのでしょうか」
「本院側の道がまだ悪いので、こちらへ回したのかもしれません」
オットーは受取時刻だけを書き、宛名の違う包みを開けずに別の棚へ置き、昼前には、本院側の峠も歩きなら通れると知らせが来た。
それを聞いてから何度か坂の上を見たのは、包みを早く渡したかったからだと思い、午後、黒い外套が雪の切れた道へ現れたとき、姿がまだ小さいうちからヨナス様だと分かった。
「道、開いたのですね」
「歩きなら通れました」
外套の裾には雪がつき、靴は脛のあたりまで濡れていて、いつもの足取りより少し重い。
棚から包みを持ってくると、ヨナス様は受け取る前に靴の雪を落とそうとした。
「先に包みを」
「足を温めてからでも逃げません」
少し迷ったあと、ヨナス様は素直に靴を脱ぎ、いつもの深い側へ両足を入れた。
冷え切った足が湯へ触れた瞬間、石の縁を掴んだ指先へ力が入り、そのあとで肩からゆっくり抜けていく。
「ずいぶん冷えていましたね」
「峠の上だけ、雪が深く残っていました」
「歩いて越えたのですか」
「はい」
「帰りも?」
「そのつもりです」
グレタが聞けば止めるだろうと思ったところで、本人が土間から顔を出した。
「帰りには乳を一杯お持ちください」
「そこまでしていただかなくても」
「坂を歩かれるのでしょう」
ヨナス様は断れず、わたしも助けなかった。
包みを渡すと、ヨナス様は紐をほどき、中の三枚を膝の上へ広げた。
大書庫から届いたのは原文の写しではなく、疫病の年の特別な束にヴェルテの名があると確認できた、という通知だった。
「見つかったのですか」
「はい」
ヨナス様は二枚目の一行を指で押さえたまま、いつもより短く答えた。
「写しは?」
「別便です。原本の状態を確かめて、必要な頁だけ写すそうです」
「いつ届きますか」
「早ければ次の荷、遅くても雪解け前には」
答えが出なければいい。
そう思った瞬間、手にしていた湯温の紙を同じところまで二度読んでいることに気づき、自分でも少し驚いた。
「テア?」
「はい」
「どうしました」
「同じところを見ていました」
それだけ答えると、ヨナス様は通知から顔を上げ、こちらを少し長く見た。
「写しが届くのが、怖いですか」
「分かりません」
管理人任命の保留が終わるからなら、理由は簡単で、正式な施設になったことで処分の五年はそのまま続かず、封印の照会が終われば、本局が新しい管理人を任命する手続きへ進む。
それなら答えを急ぎたくない理由になる。
けれど、さっき手が止まったのは管理局の通知を思い出したときではなかった。
「写しが届いたら、ヨナス様の照会も終わりへ近づきますよね」
「はい」
「そうすると、巡回も減りますか」
聞いてから、少し違うと思った。
ヨナス様も同じように感じたらしく、通知を畳まずにこちらを見た。
「封印についての特別な確認は減るでしょう」
「では、ここへ来る回数も」
「テア」
名前を呼ばれて、続きが止まり、ヨナス様は足湯の中で膝を一度伸ばし、さっきまで石へ置いていた右手を自分の膝へ移した。
「照会が終わっても、私は来ます」
「乳ですか」
「それもあります」
「足湯?」
「それも」
理由を一つ選ぶ代わりに、ヨナス様のほうが先に小さく息を吐いた。
「……もう、理由を決めなくてもいいことにしたのではありませんか」
確かにそういう話をした。
「そうでした」
「はい」
ヨナス様の口元が少しだけ緩んだ。
「ですから、来ます」
その言葉を聞いてから、さっきまで気になっていた「次の荷」という数字が少しだけ遠くなった。
クレメンスが足湯へ来たので、峠を歩いてきたことを伝えると、ヨナス様の膝を触らず目で確かめてから、熱い水槽へ長く入らず、足湯も半刻ほどで一度休むように言った。
「腫れは?」
「いつもより少しあります」
「痛みは?」
「歩いたあとだけ」
「では今日は確認だけにしてください」
ヨナス様は素直に頷いたが、立つ前に膝を伸ばしたまま足湯の縁へ手を置き、濡れた足首を見ていたクレメンスが一度だけ眉を寄せた。
「古い凍傷のところも冷えています」
「分かりますか」
「色が少し違います」
クレメンスはそれ以上触らず、休むよう念を押してから土間へ戻った。
湯の中に残った足首を見ると、皮膚の色がわずかにまだらになっているところがあり、最初にここへ来た夜にも見た跡だった。
「七年前も、冬だったのですか」
聞くと、ヨナス様はすぐには答えず、湯の中で膝を一度だけ曲げてから元へ戻した。
「冬でした」
「巡回で?」
「はい」
封印管理を任されて最初の冬、本院から一人でヴェルテへ向かい、帰りの峠で天気が崩れたのだという。
「戻らなかったのですか」
「戻ることはできました」
「では、なぜ」
ヨナス様の指が石の縁へ触れ、湯気で濡れたところを一度だけなぞった。
「祈祷を終えるまでは、封印から離れてはいけないと教わっていました」
雪が強くなった時点で麓へ戻れば間に合ったが、冬の祈祷は日の出まで続ける決まりだと思っていたため、柵の内側へ背を向けず、そのまま冷えた石の上へ座り続けたらしい。
「日の出まで」
「はい」
前にこの人の膝を診てもらった夜に聞いたのと同じ長さだったが、あのときは苦行の習慣だと思っていて、その一晩が凍傷を残した夜だとは知らなかった。
「遭難しかけた、ということですか」
「本院では、そういう扱いになりました」
「ヨナス様は?」
「務めを終えた、と報告しました」
日の出のあと、峠へ向かう途中で倒れ、次の巡回に来た神官と村の木こりに見つけられたという話も、ヨナス様は天気の記録を読むような声で続けた。
「本院へ戻ったのは?」
「三日後です」
「歩いて?」
「途中から馬です」
「最初から馬を使えばよかったのでは」
「そのころは、巡回へ馬を出すほどの務めではないと言われていました」
封印を守ることだけは絶対なのに、そこへ行く人間の身体は費用として数えられていなかったらしく、凍傷のあとも規則そのものは変わらなかった。
ヨナス様も変更を求めず、次の春にはまた同じ道を歩き、雪のない季節も決められた時刻に柵を確かめ、その冬には厚い靴だけを自分で用意したという。
「それで七年?」
「はい」
膝を痛めたあとも、痛みが増えれば祈り方を変えるのではなく、自分の座り方を変えて務めの形を残した。
声はいつもと変わらず、誇るようでも悔やむようでもないので、余計にどちらなのか分からなかった。
「それで、そのあとも続けたのですか」
「続けました」
「七年」
「七年です」
冬だけでなく、春も夏も秋も決められた日に上がり、封印の状態を見て祈り、本院へ報告する形を一度も変えなかったという。
「痛かったでしょう」
「痛みは、務めを果たした証拠だと思っていました」
ヨナス様はそこで少し間を置き、湯へ入っている自分の足を見た。
「守ることは、苦しいほど正しいと教わっていましたので」
聞いたことのある考え方だった。
気持ちがいいことを怖がり、痛みには慣れたと言った人が、何を基準に七年を数えてきたのかだけは、これでようやく分かった。
「いまも、そう思いますか」
ヨナス様はすぐには答えず、足湯の流れが脛へ当たる位置から少しだけ脚をずらした。
「守ることは必要だと思います」
「苦しいことも?」
「そこは、同じではないと分かりました」
返事のあと、肩の力が少し抜け、石の縁を押さえていた指も離れた。
「では、今日は休んでください」
「はい」
「それも務めです」
言うと、ヨナス様は一度だけ目を伏せて笑った。
「テアに言われると、断れませんね」
「クレメンス先生にも言われています」
「そうでした」
今度は素直に足を上げ、濡れた足首へ布を当ててから休憩室へ移った。
わたしも通知と湯温の紙を持って隣へ座る。
グレタが温かい乳を一杯置くと、ヨナス様は両手で木椀を包み、湯気へ一度顔を近づけてから飲んだ。
「写しが届けば、封印の理由まで分かりますか」
「そこまで書かれていれば」
「疫病の年に一時的に閉じただけなのかも?」
「その可能性はあります。ただ、まだ決めません」
分からないことを分かったようには言わず、それでも必要な紙は最後まで探す。
そのやり方を知っているからこそ、ここまで一緒に来たのだと思い、通知の三枚目には、写しを作る対象として「閉鎖命令」「再開判断」「地方への通達」の三つが挙げられていた。
「再開判断?」
声に出すと、ヨナス様が椀を置いた。
「はい。閉じる命令だけでなく、その後どうしたかも同じ束にある可能性があります」
「封印は永久だと教わっていたのに」
「だから、確かめます」
ヨナス様の声は静かだったが、木椀へ添えた指先だけが少し強く縁を押さえており、もし再開するための記録が残っているなら、封印を守ってきた人にとっては、自分の務めの意味そのものが変わる。
「怖くないですか」
「怖いですよ」
すぐに返ってきた。
「でも、知らないまま守り続けるほうが、今は怖いです」
それなら、やはり調査を止めてほしいとは言えなかった。
「届いたら、一緒に読みましょう」
そう言うと、ヨナス様は一度だけ目を伏せた。
「はい」
返事のあと、乳をもう一口飲む。
「テアも?」
「わたしも?」
「写しを」
「読みますよ。わたしの泉ですから」
「王領の泉です」
「管理しているあいだは、わたしの湯です」
ヨナス様が笑った。
「そうでした」
休憩室を出る前に、ヨナス様は足湯へもう一度だけ戻り、半刻を越えないよう砂時計を横へ置き、さっきより浅い位置へ足を入れると、歩いてきた直後より膝の動きは軽くなっている。
「帰り、本当に歩くのですか」
「本院側から迎えが途中まで来る予定です」
「最初からそう言ってください」
「聞かれませんでしたので」
「歩いて帰るとしか言いませんでした」
「嘘ではありません」
こういうところは妙に律儀だ。
ヨナス様は少し笑い、温まった足首へ布を当ててから、靴を履く前に一度だけ立ち上がって膝へ体重を乗せた。
「痛みますか」
「朝よりは」
「なら、次に峠を越えるときは馬を使ってください」
「テアがそう言うのは珍しいですね」
「膝を悪くしたら足湯の記録が変わります」
「……記録のためですか」
「ほかに何が?」
返事はなく、ヨナス様は靴紐を結び直した。
午後の後半、ヨナス様は柵の斜面まで上がらず、足湯と休憩室だけで過ごした。
ボリスが雪解けで地面が動いたら支柱を見直すと伝えると、お願いします、と任せ、ピナが「神官様、今日は長いですね」と言えば「峠を歩いたので」とだけ答え、今日は、封印管理の確認をもう一つの理由には足さなかった。
夕方、帰る前にグレタが乳を小さな蓋付きの器へ移して持たせた。
「冷めますよ」
「それでもいただきます」
「次は道がもっと開いてからにしてください」
「努力します」
たぶん守らない返事だと思い、入口で靴を履いたヨナス様は、本院の通知を外套の内側へしまってから、もう一度こちらを見た。
「次の荷は三日か四日後です」
「はい」
「分かりました」と答えると、ヨナス様は少し間を置いた。
「……待っていますか」
今度はわたしの返事が少し遅れた。
荷を待っているのか、写しを待っているのか、それともヨナス様が来るのを待っているのか、分けようとすると妙に難しい。
「届いたら、読まないといけませんから」
「そうですね」
ヨナス様はそれ以上聞かず、雪の残る坂を下りていった。
三枚の通知は、オットーがその日のうちに控えへ写し、原本はヨナス様が持ち帰ることになり、こちらへ残した控えには「閉鎖命令」「再開判断」「地方への通達」と三つの見出しだけが並び、そのうち真ん中へだけ、まだ何も書けない。
封じた理由を探していたはずが、途中から「いつ再開するつもりだったのか」まで探す話に変わっており、もし再開判断が本当にあったなら、永久の封印という前提そのものが崩れる。
それはヨナス様の務めだけでなく、ヴェルテがなぜ百年近く廃れたままだったのかという話にもつながるはずだった。
閉め時間のあと、新しい露天へ入ると、昼に少し解けた雪が岩の上で薄く凍り直しており、湯へ足を入れ、腰、肩の順に沈むと、外気との差で湯気がいつもより濃く上がり、顔の前を何度も白く横切る。
処分なら、あと三年以上はここを管理するものだと思っており、正式な施設になった今は、その先が紙一枚で変わる可能性があり、でも、ヨナス様が来る回数まで同じ紙で決まるわけではなく、そこを分けて考えればいいはずなのに、今日まで同じものとして数えていたらしい。
肩まで沈み、樋から落ちる湯の音を聞いた。
気持ちがいい。
それは変わらない。
翌朝、足湯の縁には薄い氷が張り、ボリスが木片で落としている横で、ピナが昨日の札を箱へ戻していた。
「昨日より寒いです」
「でも道は開いています」
「不思議です」
空が晴れているので、昼にはまた少し解けるだろう。
朝の外来予約は一件だけで、管理棟の土間もいつもより静かで、それなのに坂から足音がすると、一度だけ手が止まり、湯温を測っていると、本院へ戻る前のヨナス様が坂を下りてきた。
「テア」
「はい」
昨日渡した乳の器を返しに来たらしく、手には空の容器だけがあり、昨日の約束を確かめるような顔を見て先に頷いた。
「分かりました」
ヨナス様は器をグレタへ渡して本院側の道へ向かい、角を曲がる前に一度振り返ったので、こちらもまだ同じ場所に立っていた。
「では」
「はい」
「また」
「また」
今度はヨナス様のほうが先に歩き出し、数歩進んだところでもう一度だけ振り返った。
「写しが届いたら、すぐ来ます」




