第40話 雪の月
雪が三日続くと街道の峠が閉じ、町から来る馬車も外来客も完全に止まり、本院へ続く道まで雪の下へ消えたので、こちらから知らせを出すことも、向こうから人が来ることもできなくなった。
それでも村人は朝と夕方に坂を上がり、熱い水槽と足湯はむしろ冬らしい混み方になった。
「家よりこっちのほうが温かいからね」
村の女が三人、湯から上がってきた。
温かい乳を一杯ずつ持ち、そのまま休憩室へ入る。
一人は縫い物まで持ってきて、窓際の明るい場所へ当然のように座る。
「ここでやるんですか」
「明るいから」
「家でやれば?」
「寒い」
話はそれで終わり、三人は縫い物の続きをしながら次に足湯へ移った。
湯へ入りに来たのか、暖かい場所で話をするために来たのか、縫い物を進めるために来たのかは、もう分けなくてもよさそうで、クレメンスはその三人のあとを追うように休憩室へ入り、いちばん年嵩の女へ声をかけた。
「今日は熱いほうへ長く入りませんでしたか」
「札に書いてあるくらいだよ」
「なら大丈夫です」
「正式な湯治場になったら、急に厳しくなったね」
「前から同じことを言っています」
女は笑いながら足湯へ向かい、クレメンスは顔色だけ見届けてから帳面へ戻った。
雪の日は、外を歩く時間そのものが短い。
そのぶん熱い湯へ長く残りたがる人が増えていた。
正式な王領施設になっても、長く入りすぎる人の顔色を見て声を掛ける仕事まで王都へ移るわけではなく、毎日のところは結局ここにいる人が見る。
帳面の利用人数は落ちたのに、月の紙を見ると入る金は思ったほど減っていない。
「逆ですね」
オットーが二つの数字を指で押さえた。
「何が?」
「利用人数と収入です」
外来客は来ず、村人は無料なのに、宿の前払いと乳、それに商会経由の予約分が別の日に入っており、人が湯へ入った日と、金が動いた日を同じ欄で見ていたことのほうが問題だった。
「分けます」
オットーは紙を裏返し、利用した日と金を受け取った日だけ別々に書き直した。
「これで?」
「合います」
話は短く、利用人数と金の動く日を分けるだけで数字は合い、正式な施設になったことは新しい看板より先に、こういう帳面の欄が増えるところへ出るらしい。
雪のあいだは水風呂を閉めて冷水を昼に必要な分だけ運び、露天の細い樋は朝ごとに凍結を確かめ、足湯は仕事へ出られない村人が早い時刻から使っている。
「今日は十杯あります!」
ピナが乳の札を高く掲げた。
「多いですね」
「牛が元気です」
「それは帳面へ書かなくていいです」
「じゃあ、十杯です」
クレメンスが横から、体調についても元気とだけ書かれると困ります、と言う。
「元気じゃだめなんですか」
「何を見て元気と言ったのか分かりませんから」
「難しいです」
「だから数えるのです」
ピナは少し考えて十杯の札をいつもの位置へ掛け直し、雪で外来客が途切れて二日目には、温かい乳が一杯だけ余った。
「今日は村の方も皆さん受け取りました」
ピナが鍋を覗く。
「お嬢様が飲みます?」
「さっき飲みました」
「じゃあグレタさん」
「私は白湯で」
小鍋の底に残った一杯を見ていると、翌日へ残さない分として処理する前に、最初に別の顔が浮かんだ。
「捨てますか」
「少し待ってください」
なぜ待つのか分からないまま答え、閉め時間まで鍋を弱い湯へ掛けておいた。
もちろん峠は閉じているのでヨナス様が来るはずはなく、来ないと分かってから、ようやく自分の分として椀へ移した。
温かさも味もいつもと同じなのに、一人で飲むと少し量が多く感じる。
「お嬢様」
「はい」
「神官様の分だと思ってました?」
「何をですか」
「その一杯」
「来られませんよ」
「知ってます」
ピナはそれ以上言わず、空になった鍋を持っていった。
何を聞かれたのかは分かったが、どうして最初にヨナス様の顔が浮かんだのかまでは、まだよく分からず、閉め時間のあと、熱い水槽へ入ると、外の雪が明るいぶん湯気の白さまでいつもより濃く見えた。
足から腰、肩までゆっくり沈むと、昼じゅう冷えていた指先まで熱が戻り、息を吐くたびに身体の内側へ残っていた寒さが薄くなる。
冬の湯はやはりいい。
そのあと足湯へ移ると、深い側のいつもの場所が一つ空いており、村人なら誰が座ってもいい場所なのに、ヨナス様が来るようになってからは、そこへ法衣の裾をまとめて座る姿を何度も見ている。
今日は誰も座らないまま湯だけが流れていた。
手を入れて温度を確かめると、樋側も端も問題ない。
設備としては、空いていても何も困らない。
それでも視線が一度そこへ戻った。
雪が止まれば、また来る。
そう考えたところで、規則集の異動候補欄にあったヨナス様の名前を思い出し、本院へ戻れば、この深い側が空く理由は雪だけではなくなる。
足湯の記録には入らない話なので帳面へ書くことはなく、湯温だけ確かめて立ち上がった。
そう考えたあとで、自分が「来る」と決めていることに少し遅れて気づき、昼前には、ボリスが新しい看板を抱えて坂を上がってきた。
古い板にあった廃の文字は消え、新しい板にはヴェルテ王領湯治場と彫られている。
「掛けるか」
「お願いします」
古い板を外すと、一年前から毎日見ていた文字だけが入口からなくなった。
代わりの板をボリスが掛け、左右の傾きを少し離れて確かめる。
「右が低くない?」
ピナが言う。
「雪だ」
ボリスが看板の端へ積もった分を払うと、今度はまっすぐに見えた。
そこへ村の老人が上がってきて、新しい文字をしばらく眺めた。
「変わったな」
「はい」
「中は?」
「同じです」
「ならいい」
老人はそれだけ確かめて、いつものように足湯へ向かい、午後には雪で仕事を切り上げた男たちまで加わり、足湯の縁へ四人が並んだ。
「今日は畑も山も無理だ」
「じゃあ湯か」
「ほかに行くところがない」
その横でピナは予約札を整理していた。
「外の人が来ないと暇です」
「今、忙しそうですが」
「これは村の人です」
「村の人も人数に入ります」
「でも予約札がないです」
ピナにとっては、人の数より紙の枚数のほうが忙しさへ近いらしい。
グレタが休憩室から顔を出し、乳があと三杯です、と声をかけた。
「飲む!」
足湯から二人が同時に手を上げたので、クレメンスが一人一杯です、と先に言った。
「分かってるよ」
雪で道が閉じても、湯治場の中まで静かになるわけではなく、男たちが帰ったあと、クレメンスは熱い水槽の頁を開いて、冬に入ってからの利用時間だけを拾い直した。
「長くなっていますね」
「寒いですから」
「だからこそです」
夏より湯温を下げる必要はないが、長く入る人が増えるなら、入口の札は雪の日ほど見える位置へ置いたほうがいいという。
ピナと一緒に札を一段高い釘へ移すと、湯気の向こうからでも数字が見えやすくなった。
「これなら?」
「見えます」
「でも、見ても長く入る人はいますよ」
「そのときは声を掛けます」
規則だけで人が動かないところまで含めて、クレメンスの仕事なのだろう。
正式な施設になった最初の冬も、結局やっていることは去年の続きで、昼過ぎ、ラルフが町から戻り、街道側の峠は早ければ数日で荷が動くと知らせてくれた。
「王都からも?」
「止まってた分から順番に出すそうです」
大書庫の束も、その荷のどこかに入るかもしれない。
王宮祭祀局から届く返事も、同じ道を通ってくる。
管理棟へ戻ると、机の端に封筒が一通残っていた。
峠が閉じる前に届いた、ザント担当官の私信だった。
「まだ開けていませんでしたね」
「そうでした」
公印のない封を切ると、中には一枚だけ入っており、ザント担当官の字は公文書より少し小さく、最初は秋の巡回で読んだ記録について書かれており、書く施設のほうを信用するという判断は、今も変わっていない。
ただし正式な王領施設になった以上、管理人の任命は別の手続きとして判断される。
そこまでは、公文書で読んだ内容と同じだった。
最後の二行だけが違う。
王宮祭祀局からも、ヴェルテについて照会が一件入っており、領地管理局でも、廃止以前の古い施設記録を確認しているという。
「祭祀局」
声に出すと、オットーが顔を上げた。
「ヘニング様のところですね」
「はい」
春に柵の古い文字を炭で写した人だ。
王宮の水盤の底から出た板と同じだと言ったのも、ヘニング様で、北部の古い記録箱にも同じ文字の写しがあるという話まで、ヘニング様から始まっており、ヨナス様は大書庫にある疫病の年の束を追っており、管理局は廃止以前の施設記録を見て、祭祀局からも別の照会が入った。
別々の場所にあった紙が、王都でも同じヴェルテの名へ寄り始めている。
「これ、全部つながるのでしょうか」
「まだ分かりません」
「そうですね」
オットーもそれ以上は言わず、私信を置く場所だけ公文書とは別にした。
グレタが横から、何か分かりましたか、と聞く。
「王都でも、同じものを調べ始めています」
「良いことですか」
すぐには返せず、たぶん、とだけ答え、答えが見つかること自体は悪いはずがなく、向こうで調べる仕事も止まっていないのに、窓の外へ目を向けるたび、本院へ続く道が白いままなのを先に確かめてしまう。
外から戻ったピナは、髪と肩へ雪を載せたまま窓際へ走ってきた。
「湯守様」
「はい」
ピナは本院へ続く白い道を指した。
「峠の雪が昨日より少し低くなっています」
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