第39話 年間契約
グルント商会からメルダーが来たのは、雪が一度やんだ昼前で、冬に最初の薪を買ったときから、薪と炭の話だけはこの人が持ってくる。
宿や予約を扱うファルケとは掛が違い、今日も紙の束より先に薪置き場を見てから管理棟へ入った。
「年間契約の件です」
外套についた雪を入口で払い、メルダーは去年と今年の数字を並べた。
「春にお出しした案を、こちらでも組み直しました」
去年の使用量は七百四十束、今年は九百五十八束まで増えており、増築棟の火、白湯や乳を温める火、凍結した場所を戻す火まで加わったぶんが、そのまま二百束以上の差になって出ていた。
「二百束以上、増えていますね」
「はい」
「来年も同じだけ増えると考えますか」
「そこまでは」
設備を作った日に多く使った分もあり、今年の九百五十八束をそのまま来年へ足す理由はない。
村の共有林から入る間伐材もあるため、商会から買うのは不足分と予備になる。
「春の案では月ごとの最低量を置きましたが、あれは外します」
メルダーが新しい契約書を机へ滑らせた。
「年間で最低六百束、必要が増えれば千二百束までは同じ値でお出しします」
「夏に少なくても?」
「年間で六百を越えれば構いません」
「千二百を越えたら?」
「そこから先は、その時点の値で相談です」
月ごとに同じ量を取る契約ではなく、冬に多く夏は少なくして年間六百を越えればよいなら、季節で火の使い方が変わるこちらにも合っており、オットーが去年と今年の数字をもう一度見比べた。
「最低六百なら、共有林から入る分を見ても無理はありません」
「こちらも、その線なら在庫を押さえられます」
メルダーは前回のように、続かない相手へ売る値だとは言わず、その代わり、来年の冬まで続くことを前提に、いつまでに何束を置くかの話をしている。
「五年契約ではないのですね」
「一年です」
「よかった」
メルダーが珍しく口元を緩めた。
「五年も同じ値で薪を売る契約をしたら、先に商会から叱られます」
オットーは笑わなかったが、紙へ落としていた視線が少しだけ上がった。
そこでメルダーは、紙だけでなく実際の束を一つ見せてほしいと言い、ボリスを呼ぶと、乾かしてある薪から普段使っている束を一つ抱えてきた。
「これが一束です」
メルダーは縄の位置を見てから持ち上げ、重さを確かめるように一度だけ腕を下げた。
「冬の最初より、少し太くありませんか」
「村の間伐材は木が違う」
ボリスが答えた。
「町から買う束は同じだ」
「では、商会分だけ数えるときは混ぜないでください」
「置き場も分けてる」
二人の話は短いが、こちらが帳面で一束と書いていたものにも違いがあるらしい。
メルダーは町から入れた束の棚だけ見て、今年の九百五十八という数字と照らし合わせた。
「これなら、来年も同じ数え方で構いません」
「束の大きさまで契約に書きますか」
「書きません」
返事は早かった。
「書くと、来年縄を一巻き変えただけで揉めます」
オットーがそこで初めて顔を上げた。
「基準は必要では?」
「必要です。ただ、紙へ全部入れる必要はありません」
商会側の見本として一束を残し、こちらも同じ大きさを使う、違いが出たら、そのとき見比べればいいという。
条件を増やす話ばかりしてきた一年で、書かないほうが扱いやすいものもあるらしい。
契約の数字はそれでまとまり、次に出された紙には、前回の契約にはなかった変更が一つある。
「施設名が変わっています」
ヴェルテ廃湯治場管理所という文字には線が引かれ、その下へヴェルテ王領湯治場と書き直してある。
「こちらは本局からの通知に合わせました」
「管理人名は?」
「現任者を書いてください」
契約書の下には、施設名とは別に管理人の署名欄がある。
「任命が変わった場合は?」
「署名者だけ差し替えます」
「契約は?」
「施設との契約ですので、そのまま残ります」
上の行には施設の名があり、下の行には今ここを管理している人間の名を書く。
管理人の名前は、契約そのものではない。
下の行が誰の名前に替わっても、上の行は残る。
そのまま署名した。
メルダーも商会側へ名を入れ、二部の紙を重ねてずれがないか確かめた。
「これで来冬までですね」
「はい」
「最初の納入は?」
「雪解け後に一度、残量を見てください」
春の樋工事で木材が動く時期と重なるが、そちらはファルケの掛で別の契約になっており、メルダーは、樋の材まで薪の荷車へ混ぜないでください、と先に言った。
「一緒に運べば楽そうですが」
「数が合わなくなります」
「オットーみたいなことを言いますね」
横で帳面を見ていたオットーが顔を上げる。
「正しいと思います」
「ほら」
メルダーは勝ったような顔をせず契約の控えを自分の箱へしまうと、そのまま薪置き場へもう一度出ていった。
「まだ何か?」
「積み方を見ます」
今年は去年より置き場が広がり、濡れた束と乾いた束を分ける棚も増えており、メルダーは奥まで入り、地面から一段上げた板の高さを確かめた。
「雪が吹き込む側だけ、もう少し内へ寄せたほうがいいでしょう」
「ボリスにも見てもらいます」
「そうしてください」
売ったあとまで見るのかと思ったが、湿った薪を来年不足分として買い足されるのも商会には困るらしい。
管理棟へ戻ると、グレタが温かい乳を一杯出した。
「これは料金に入りますか」
「今日は客ではありませんので」
「では遠慮します」
「余っています」
メルダーは椀と鍋を見比べてから、余るならいただきます、と受け取った。
一口飲むと、すぐ土間の火床へ視線を移す。
「これも今年増えた火ですね」
「設備ではありませんが、薪は使います」
「来年の見積もりへ入れておきます」
「一杯の乳まで?」
「一杯ではなく、毎日の火です」
使う側には小さく見える火でも、売る側から見れば一年分の束になるらしい。
帰り支度を終えたメルダーは、入口で新しい施設名の看板用の板にも気づいた。
「王領湯治場、ですか」
「まだ掛けていません」
「春に来たときとは、ずいぶん変わりましたね」
最初の冬には、続かないかもしれない相手だと言われた。
いまは来年の在庫まで同じ机で決めている。
「値段も変わりました」
「そこを覚えておられましたか」
「覚えています」
「忘れていただいたほうが、商人としては助かります」
「無理です」
メルダーは少し笑い、それ以上は言わず雪の残る坂を下りていった。
メルダーが外へ出たあと、次の確認まで少し時間が空いたので熱い水槽へ入り、雪の冷気に触れていた足から腰、肩の順に沈むと、契約書の数字を追っていた頭がようやく湯の温度へ戻った。
冬の湯は長く入りたくなるが、湯口から少し離れた側で短く温まり、上がるころには指先まで熱が戻っており、契約書へ署名する前に、外の薪置き場でもう一度今年の残量を見た。
町から買った束と村の間伐材は棚が分かれ、湿ったものはさらに端へ避けられているので、帳面の数字だけでなく、何をどれだけ残しているかが目で見ても分かる。
去年は冬の途中で足りなくなるかもしれないと数え続けた薪が、今年は来年の購入量を決める材料になっており、メルダーは棚の前で手袋を外し、乾いた束の端を指で押した。
「今年の分は、このままなら足ります」
「雪が長くても?」
「長ければ予備を使います。そのための上限です」
契約は未来を当てるものではなく、外れたときにどこまで同じ条件で動けるかを決める紙なのだろう。
そう考えると、最低六百と上限千二百のあいだが、急に広く見えなくなった。
メルダーが帰ったあと、オットーは二部ある契約書の控えを綴じ直した。
「これで冬の購入量は読めます」
「来年の管理人にも?」
「施設との契約が残るなら、同じ条件を使えます」
「では、残りますね」
自分の署名を一度だけ見て、控えをオットーへ返した。
その下にある有効期間は、署名した人間の在任期間ではない。
契約書の日付を見れば、有効期間は来年の冬を越えるところまで伸びており、冷水の樋も春へ回し、乳の提供も続けるなら、来年の管理人が誰であっても薪は必要になるので、施設の側へ残る契約としては正しい。
それでも「来年」という文字を紙で見ると、設備の予定を書いたときとは少し違って見えた。
自分がいなくても残る仕組みを作ることと、自分がいない前提で来年を数えることは、同じではないらしい。
そこまで考えて、署名欄へもう一度目を落とした。
紙は誰が書いたかを残すが、使う人まで縛らない。
それでいいはずだった。
夕方にはまた雪が強くなり、町へ続く道は通れても、本院側の峠は朝から閉じたままで、ヨナス様もしばらく来られない。
王都の大書庫から送られる写しも、峠が開くまでは途中で止まることになる。
夕食のころ、グレタが契約書の控えを見て、来年もこの紙を使うのですね、と聞いた。
「はい」
「お嬢様でなくても?」
「施設が続くなら」
グレタは少しだけ黙ったあと、鍋の蓋を戻した。
「乳がもう一杯あります」
「いただきます」
話はそこで終わり、閉め時間に足湯へ行くと、ピナが積もった雪へ靴跡をつけて遊んでいる。
「明日も外の人、来ますかね」
「道が開いていれば」
「閉じたら?」
「村の人だけです」
ピナは白い坂を見上げた。
「静かですね」
「そうですね」
雪そのものの音は聞こえず、足元では湯だけがいつもどおり流れており、管理棟へ戻ると、机の端に見慣れない封筒が置いてあった。
「これは?」
「ザント担当官からです」
オットーが裏を見せたが、公印はどこにも押されていなかった。
「私信です」
「わたしに?」
「読んでほしい、と」
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