第37話 区分
本局の判断通知は、その日の業務が終わってから翌朝まで管理棟の机へ置いたままで、オットーは封を切らず、春の湯あたり、夏の取水、ザント担当官が持ち帰った写し、村との契約を順に並べた。
一年のあいだに王都へ送った紙と、向こうから戻ってきた紙だけで机の半分が埋まり、最初は季節ごとの報告一枚で足りると思っていた場所とは思えない量になっていた。
「開けます」
オットーが封蝋へ小刀を入れ、中から六枚の紙を抜き出した。
「読みます」
「お願いします」
最初の紙には施設区分変更とあり、その下へ本局の判断が三項目に分けて書かれている。
「第一項。ヴェルテ湯治場を、廃止施設から稼働中の王領施設へ区分変更する」
グレタが息を止め、ピナは意味を確かめるようにこちらを見た。
「よい知らせ?」
「はい」
そこまでは間違いなく、よい知らせで、屋根を直し、湯を分け、札を作り、村と契約し、外から客を受け入れ、失敗したときには隠さず原因と修正まで書いた一年ぶんが、ようやく「稼働中の王領施設」という言葉へ変わった。
「もう、廃湯治場ではないのですね」
グレタが言った。
「そうなります」
オットーは次の紙へ進んだ。
「第二項。稼働中の王領施設には、領地管理局が任命する管理人を置くものとする」
管理棟から音が消え、処分として五年間ここを管理するという形は、廃止施設の維持を命じられたから成立していたもので、正式な王領施設へ区分が変われば、今度は本局が正式な管理人を任命することになる。
つまり五年という残り時間が、そのまま新しい施設の任期へ移るわけではなく、兄が言っていたのと同じだった。
「それなら」
ピナが大きな声を出した。
「湯守様が管理人になればいいじゃないですか」
「ピナ」
「お嬢様が作ったんですよ」
グレタが止めようとする。
「ほかの人が来るほうがおかしいです」
「ピナ」
もう一度名前を呼ぶと、ようやく口を閉じ、言ってもらえたことは少しありがたいが、紙は誰が適任かを決めているのではない。
任命の形を変える、と書いてあるだけだった。
「続きがあります」
オットーが三つ目へ移り、読み上げる前に一度だけこちらを見た。
「第三項。前二項のうち、管理人任命手続きの執行のみ、現在係属中の泉封印に関する照会が終結するまで保留する」
その紙だけは自分で受け取り、最後の一行をもう一度読み、封印の照会はまだ終わっておらず、王都の大書庫から疫病の年の束も届いていないため、ヨナス様が進めている取り寄せと照会が終わるまでは、管理人を替える手続きも動かず、照会が終われば、この保留も終わる。
最初に照会を作ったとき欲しかったのは、教会だけでも管理局だけでも泉を止められない時間で、そのあいだに湯を残すために作った仕組みが、いまは結果として自分の在任期間まで止めていた。
「当面は?」
グレタが聞いた。
「変わりません」
オットーが答え、外来は一日三人、村人は無料、冷水は昼と夕方、商会の予約もそのまま続き、今日から急に誰かが来る話ではなく、通知を読み終えたあとも、ピナはしばらく札を抱えたまま動かなかった。
「正式な施設って、看板も変えるんですか」
「たぶん」
「じゃあ、廃って消えます?」
「消えます」
そこで少しだけ顔が明るくなった。
「それはいいですね」
グレタも笑い、正式な施設になったことまで曇らせる必要はなく、嬉しいことは嬉しいまま、その横へ次に決めなければならない問題が一枚増えただけだった。
通知を読み終えた昼前、熱い水槽へ短く入ると、紙の上では廃止の文字が消えていても湯口から落ちる湯の速さも温度も昨日と同じで、足、腰、肩の順に沈んだ身体だけが冷えた朝からゆっくりほどけていった。
正式な施設という文字を頭の中で読み返しても、湯面に触れる秋の風は変わらず、長く入らずに上がれば次に測る湯温の時刻もいつもどおりだった。
昼過ぎ、正式な施設になったという知らせを聞いたヨナス様が、教会の巡回日ではないのに坂を上がってきて、最近は「今日は巡回ではありません」と聞く回数のほうが増えている。
「おめでとうございます」
最初の言葉がそれだった。
「ありがとうございます」
「廃止施設ではなくなったのですね」
「はい」
管理棟の入口へ掛ける新しい看板の話をすると、ヨナス様は素直に笑ったが、机の上の六枚を見つけたところで表情が少し変わった。
「通知も?」
「三項目です」
オットーが読み終えた紙を渡すと、ヨナス様は第一項、第二項を順に読み、第三項だけで指を止めた。
「照会が終わるまで、管理人任命も保留」
「そうです」
「私が進めている照会ですね」
「はい」
答えると、ヨナス様は紙から顔を上げなかった。
「では、私が終わらせれば」
「保留も終わります」
それは紙に書いてあるとおりなので、そのまま言い、ヨナス様はしばらく第三項を見たあと、紙を机へ戻した。
「調査は、続けます」
「もちろんです」
返事をすると、今度は顔を上げた。
「止めてほしいとは、思いませんか」
「思いません」
「すぐに答えますね」
「ヨナス様が調べているのは、わたしをここへ残すためではありませんから」
「……はい」
正しい答えのはずなのに、ヨナス様の声だけが少し低くなった。
「でも」
言葉が続いたので待つ。
「照会が終わったあとも、来てはいけない理由にはなりません」
何の話か一瞬遅れて分かった。
「巡回が終わるという意味ですか」
「それも、あります」
またそれだ。
「乳もありますよ」
「はい」
「足湯も」
「はい」
ヨナス様は今度こそ少し笑った。
「では、理由は残りますね」
用がなくても来ると言っていたはずだが、本人が理由を欲しいなら、いくつか残しておけばよく、午前のうちに、顔役と宿の代表二人へも知らせた。
「正式な王領施設になりました」
「それは、いいことだな」
顔役が頷き、二つ目の管理人任命を説明すると、代表の一人が紙へ顔を近づけた。
「湯守様が替わるってことですか」
「まだ決まっていません」
「でも管理人を決め直す?」
「正式に任命する手続きになる、というところまでです」
顔役が聞いたのは別のことだった。
「無料の湯は?」
「契約は残ります」
「管理人が替わっても?」
「はい」
村との契約はわたし個人との約束ではなく、王領施設と村のあいだに残り、顔役がゆっくり頷いた。
「今日から何か変わる話じゃないんだな」
「はい」
「だったら、決まってないことで先に騒ぐこともない」
そこまで言って立ち、戸口で一度振り返った。
「ただしな、湯守様」
「はい」
「続くように書いたのはあんたたちだが、続けるかどうかを決めるのは、次の管理人だ」
ラルフが何か言いかけたが、父親に見られて黙り、村へ配る紙には、正式な王領施設になったこと、今の運用を続けること、管理人の任命は保留されていることだけを書き、商会へも同じ内容を送り、契約の相手の名称だけ廃湯治場管理所から王領湯治場へ変える。
「春に樋を引くころ」
グレタが紙を見た。
「お嬢様がここにおられるかは、まだ分からないのですね」
「そうです」
答えたあと、湯温の記録へ戻った。
村へ知らせたあと、入口の古い板を見に行った。
長く風雨にさらされた文字には、まだ廃湯治場と残っており、ボリスが横へ立った。
「外すか?」
「まだいいです」
「正式になったぞ」
「新しい板ができてからで」
古い名を先に外して、何もない入口にする必要はない。
「じゃあ削る木を選んでおく」
「お願いします」
ボリスはすぐ作業場へ戻り、正式な施設になった実感は紙よりその背中のほうが少し早かった。
作業場では乾いた板を三枚並べ、反りの少ない樫を一本選ぶと、ボリスは古い看板の字より少し深く削れる厚みがあるか木口を指で確かめ、節の位置を避けて文字を置く幅まで炭で印を付け、昼になると、クレメンスが新しい施設名の紙を見に来た。
「正式な施設になったら、こちらの記録方法も変わりますか」
「本局からは何も」
「では変えません」
答えは早く、脈と息、それから入浴前後の状態を見る欄をいつもの頁へ開いた。
「正式になったから安全になるわけではありませんので」
「そうですね」
ピナは横から紙を覗き込み、名前だけ立派になって仕事は同じなんですね、と少し残念そうに言った。
「仕事まで急に立派になったら困ります」
オットーが返すと、グレタまで小さく笑い、通知が届いた翌日も、湯温を測る手順も、村人へ札を渡す順番も、クレメンスが入る前の顔色を見ることも変わらなかった。
午後には普通に外来客が三人来て、村人も来て、乳も届いた。
正式な施設になっても、今日の湯温や入口の札が急に変わるわけではなく、夕方、足湯へ行くと村の老人が新しい話をもう知っていた。
「王領の湯になったそうだな」
「前から王領です」
「そうなのか」
「はい」
「じゃあ何が変わったんだ」
少し考えた。
「廃止された場所ではなくなりました」
「前から人はいたぞ」
「そうですね」
老人は足湯を見た。
「紙のほうが遅かったんだな」
それで済ませた。
現場から見れば、ここはもう毎日人が来て湯へ入り、料金を払い、札を返す場所になっていて、王都の紙がようやくその状態へ追いついただけなのだ。
夕方、新しい看板に使う板を選んでいたボリスが、古い板を外す時期だけ聞きに来た。
「新しいのができてからでお願いします」
「字はどうする」
「王領湯治場まで入りますか」
「入る」
ボリスは板へ指を当て、長さを測るように端から端までなぞった。
「前より長いな」
「廃の一字が消えたのに?」
「湯治場が増えた」
文字数だけなら確かに増えており、ピナが横から、では大きい看板にしましょうと言い、ボリスは木が余るならな、とだけ答え、正式な施設になった最初の相談が看板の幅だったことは、たぶん悪くなかった。
閉め時間の少し前、オットーが規則集を持ってきて、新しい紙を一枚だけ置いた。
「何ですか」
「稼働中の王領施設で、管理人へ求められる条件です」
俸給、任期、資格、報告義務、任命権者が並び、いちばん下だけ空いている。
「ここは?」
「ヴェルテのような施設には、前例がありません」
オットーが紙をこちらへ向けた。
「湯守様。まず、管理人になるための要件そのものを調べる必要があります」
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