第36話 温かいもの
朝晩が冷えるようになると、夏には先になくなっていた冷たい水より白湯のほうが早く減るようになり、白湯で足りるならそれでもいいが、白湯だけで止める理由もなかった。
この土地へ向かう馬車の中で、露天、蒸す小屋、打たせ湯、薬草の湯、そのあとに水風呂と足湯まで順に考え、さらに先には湯上がりに飲むものが欲しいと思っていた。
前世のような冷たい瓶の牛乳はまだ無理でも、温かい乳ならこの土地でも出せそうだった。
「村で乳を出せる家を調べてもらえますか」
ラルフは翌日、乳を出せる三軒の名を持って戻り、毎日同じ量ではなく、子牛へ回す分も家で使う分も先にある。
「一杯でも構いません」
最初の家へ行って伝えた。
「家で使う分を先にしてください」
「毎日じゃなくても?」
「大丈夫です」
女主人が少し安心した。
「チーズを作る日は出せないよ」
「それで構いません」
「冬は一週間くらい無理なこともある」
「それも」
出せる朝だけ杯数を書いた札を渡してもらい、買値は三軒で揃え、家の分を削らず、乳は翌日へ残さないところまで決めた。
クレメンスは、搾った時刻と管理棟へ届いた時刻だけは残してほしいと言った。
「温めれば安全、とは書かないでください」
「書きません」
大鍋へ湯を張り、その中へ乳の小鍋を入れて直接火へ掛けずにゆっくり温めれば焦げつきにくく、この土地は湯を作る前から、ものを温めることだけなら得意だった。
「本当に湯上がりに乳を出すのですか」
グレタが鍋の横で聞いた。
「はい」
「お嬢様が先に飲まれますか」
「飲みます」
「では止めても無駄ですね」
ピナは木椀を並べながら、鍋の中を覗き込んだ。
「これ、甘いんですか」
「砂糖は入れていません」
「じゃあ、牛の味?」
「牛そのものの味ではありません」
「よかったです」
何を想像したのかは聞かず、最初の日は八杯分だけ届き、まず湯から上がった村人二人へ出して、飲み終わるまでクレメンスにも同じ場所で見てもらった。
一人は慎重に口をつけ、もう一人は白湯と同じ勢いで飲んでから少し驚いた顔をした。
「うまいな」
「温かい乳って、こうなるんだな」
クレメンスは味について何も書かず、飲んだ量と、そのあと気分が悪くならなかったことだけを残し、昼には外来客の夫婦へ一杯ずつ出した。
「これは、いいですね」
妻のほうが両手で椀を包み、夫が横から聞いた。
「もう一杯は?」
「今日は一杯までです」
「明日は?」
「乳が来れば」
「来なかったら?」
「白湯です」
「牛が休みなら、それも仕方ない」
ピナが妙に納得し、翌日は四杯しか来ず、外来三人へ一杯ずつ出すと村へ回るのは一杯だけだった。
「今日は少ないです」
ピナが札を掲げる。
「それなら外来三人と、村の方一人ですね」
「誰にします?」
「先に欲しいと言った人へ」
足湯の老人が手を上げた。
「今日は白湯でいい」
「では、ほかの方に」
別の村人が受け取り、ある日は八杯、ある日は三杯、ある日は一杯も来ない日が続き、来ない朝でも誰も怒らず、ピナが今日は牛が休みですと言うと白湯の椀が普通に出ていく。
毎日同じ数を揃えず、ある日だけ出るものとして扱っているうちに、乳がない日は白湯を選ぶことまで含めてこの場所の決まりになっていった。
最後に自分の分を受け取り、熱い湯へ短く入ってから水風呂へ脚だけ浸け、休憩室で少し風に当たって土間へ戻ると、温かい乳の入った木椀が両手へちょうど収まった。
白湯より重いのに食事ほどではなく、口へ含むと温めた乳の甘さが思ったより残っていて、湯上がりの空腹を少しだけ埋めてくれる。
ヨナス様なら、最初に「これは湯ではありません」と言いそうだが、そのあとでは普通に飲む気がして、昨日、乳を飲むことも用に数えていいと言ったので、今日は来るのかもしれない。
椀を空にして夕方の足湯へ座ると、湯気の向こうに教会へ続く道が見え、巡回の日ではないのに一度だけそちらへ目が向いた。
日が傾き始めたころ、本当にヨナス様が坂を上がってきて、今日は木箱も綴じも持っておらず、入口でこちらを見ると少し困ったように足を止めた。
「今日は、何の用ですか」
「昨日、用に数えてよいと言われたので」
「乳?」
「……はい」
そこまで律儀に答えなくてもいいと思うが、ちょうど最後の一杯が残っていた。
「先に湯へ入りますか」
「その順番なのですね」
「湯上がりの飲み物ですから」
ヨナス様は諦めたように笑い、足湯だけではなくぬるい水槽へ向かった。
上がって休憩室で風へ当たったあと、濡れた髪の先を布で押さえながら土間へ戻ってきたので、温め直した乳の椀を渡す。
両手で受け取ったヨナス様は、白湯より少し白い中身を見てから慎重に口をつけた。
「どうですか」
一口飲み込むまで待つ。
「……これは、湯ではありませんね」
「やっぱり言いました」
「言うと思っていたのですか」
「はい」
ヨナス様が初めて声を立てて笑い、笑うと肩まで少し揺れ、さっきまで濡れた髪から落ちていた水滴が頬の横を一つ流れた。
「ですが、いいですね」
「でしょう」
「湯のあとだから、というのも分かります」
もう一口飲んでから、ヨナス様は木椀を両手で包んだ。
「昨日、これを飲みに来てもよいと言われたとき」
「はい」
「少し嬉しかったのです」
「乳が?」
「……それもあります」
また少し間が空いた。
「用がなくても来てよいように聞こえましたので」
乳の話からそこへ繋がるとは思わなかった。
「来てはいけないとは言っていません」
「はい」
ヨナス様は椀の中を見たまま、今度はすぐに笑わなかった。
「だから、来ました」
返事を考えているうちに、土間の向こうでグレタが鍋を洗う音がした。
「明日は乳があるか分かりませんよ」
「なくても、白湯があります」
「足湯も」
「はい」
「では大丈夫ですね」
そう言うと、ヨナス様はようやくこちらを見て、静かに頷き、四日目の朝には、乳の札が出る前から村の女が一人、土間の鍋を覗き込んでいた。
「今日はある?」
「六杯です」
「じゃあ、湯のあとに一杯もらおうかね」
隣で白湯を飲んでいた老人は首を振り、乳よりこっちが軽くていいと言って椀を両手で包み直し、同じ湯から上がってきても、欲しいものまで同じにはならないらしい。
昼の外来客は反対に、乳があると知ってから熱い水槽を選び、上がったあとに飲むところまで楽しみにしているようだった。
「これを目当てに来る人が出たら、湯治場ではなくなりませんか」
ピナが空いた椀を集めながら聞いた。
「乳だけ飲んで帰るなら、少し困ります」
「水だけの人はいましたよ」
「いましたね」
クレメンスが横で帳面を閉じた。
「飲み物を理由に坂を上がって、ついでに足湯へ入るなら、順番が逆なだけでしょう」
医師見習いにそう言われると、ピナはしばらく考えてから、では乳も入口です、と勝手に決め、グレタが訂正しなかったので、その日のところは入口ということにしておいた。
温かい乳は毎日出るものにはならず、三軒のうち一軒は二日に一度、もう一軒は量の多い朝だけだった。
残る一軒がほぼ毎朝二杯ほど出せるので、それで十分で、出ない日は白湯、出た日は乳という形を、客もすぐ覚えた。
「今日はありますか」
入口で聞く人が出る。
「今日は六杯です」
ピナが札を見る。
「早い者勝ち?」
「外来客の一杯を先に分けて、残りです」
「じゃあ二杯」
「一人一杯です」
それもすぐ決まった。
十日ほどすると、温かい乳を目当てにする外来客まで出てきて、入口で「今日はありますか」と同じことを聞いた。
「五杯です」
「では、一杯いただけますか」
「料金に含まれています」
それを聞いて少し得をした顔をし、隣にいた夫は白湯を選んだ。
「乳は重い」
「白湯は軽い?」
「そういう気がする」
二人とも同じ湯へ入って違うものを選び、選択肢が増えるほど来る理由も少しずつ増えていく。
ピナはその日の提供数をオットーへ伝え、空いた椀を洗った。
最初は珍しがっていた仕事も、十日もすれば普通になり、夕方、乳の鍋を洗っていたグレタが机の紙へ気づいた。
「それは何ですか」
「薪です」
「また?」
「二度目の冬ですから」
今年は脱衣室、休憩室、白湯、乳、足湯まわりの火まで増え、去年の数字だけでは足りない。
閉め時間のあと、空になった鍋を洗いながら、グレタが翌朝の札を机へ置いた。
「明日は三杯だそうです」
「少ないですね」
「それでも出しますか」
「出します」
三杯しかないなら三人までで終わりにし、足りない分を別の家へ無理に頼む必要はない。
続けるために毎日同じ形へ無理に揃えるより、出せる日に出せるだけ出し、ない日は別のものを選べるほうが、この場所には合っていた。
そこで、返事を保留していたグルント商会の年間契約をもう一度出した。
「まだ返事をしていなかったのですか」
「必要量が決まっていなかったので」
「ずいぶん待ってくれますね」
「本当に」
今年の実績を閉めてから、最低六百束と上限千二百束の条件が合うか見る。
急いで返す話ではなく、外ではボリスが雪の前に直す戸を見て、ピナは翌朝の乳札を取りに村へ下りた。
足湯には仕事帰りの人が並び、休憩室では外来客が温かい乳を飲んでおり、夏には冷たい水が先になくなり、今は白湯と乳が先になくなる。
季節が変われば、欲しい温度も変わる。
閉め時間を過ぎたころ、馬が一頭だけ坂を上がってきて、領地管理局の印があり、封書の外側には判断通知と書かれている。
オットーが受取時刻を帳面へ残し、封を切らずにこちらへ差し出した。
「湯守様」
「はい」
「本局の判断が届きました」
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