第35話 二度目の湯治
坂の途中で馬車が止まり、兄は残り半分ほどを自分で歩いて上がってきて、秋の乾いた道を進みながら、管理棟へ着く前に増築棟、足湯、水風呂を順に見ており、昨日届いたザント担当官の照会の紙は、兄が帰るまで机の端に置いたままになった。
「半年で、ずいぶん増えたな」
「増えました」
前に来たのは春で、今回も兄は客として湯治の申請を出しており、オットーは身分を確かめ直すこともなく同じ書式を机へ出し、オットーは迷わず同じ書式を出す。
「三泊でよろしいですか」
「ああ」
兄が銀貨を置いた。
「前と同じく、湯治で頼む」
今度は誰も聞き返さず、受付の横に積まれた帳面を兄が指で数えた。
「七冊?」
「今日は八冊です」
「増えたな」
「必要なものを分けたら、こうなりました」
今度は設備を見て、熱め、ぬるめ、二つの露天、蒸す小屋、打たせ湯、薬草の湯まで数え、足湯と水風呂を足して九つになった。
「九つか」
「使い方は少しずつ違います」
「半年で?」
「増えたのは三つです」
兄は休憩室の窓を開け、入口の札と鐘を見て、村の宿へ客を割り振る紙まで一通り確かめた。
「村まで宿を始めたのか」
「湯治場が始めたわけではありません」
「その言い方をすると思った」
兄が少し笑い、昼前、王都から持ってきた包みをグレタが開くと、布と針、冬用の手袋が入っており、中身より先に、グレタは王都の話を聞きたがった。
「奥方様はお元気でしたか」
「元気だ」
「厨房のマルタは?」
「今は弟子を叱っている」
「東棟の窓は?」
「直った。今度は西廊下の戸が歪んだ」
グレタは一つずつ頷き、父のことだけは自分から聞かなかった。
「それから、グレタ」
「はい」
「母上が、お前はテアを甘やかしすぎていないかと聞いていた」
グレタは一度黙り、九つの設備がある方向と、わたしの顔を順に見た。
「むしろ止めております」
「止まっているようには見えないが」
「止めた結果がこれです」
兄は設備の並ぶほうを見て、それ以上は言わず、昼の利用が始まるころには午前の村人が帰り、外来客の到着と入れ替わり、ピナが札を返す人と新しく渡す人を分け、ラルフは村の宿へ向かう客を案内しており、兄は長椅子へ座り、自分の札が出るまで普通に待った。
「ずいぶん普通に扱われるな」
「外来客ですから」
「そうだな」
伯爵家の嫡男だから順番を変える人はおらず、兄も変えろとは言わず、呼ばれると自分で札を受け取り、ぬるい水槽へ入り、水風呂へは脚だけ短く浸け、休憩室へ移るところまで、前回のように一つずつ説明しなくても自分で順番を選んでいた。
白湯を渡す。
「料金の基準、兄上が春に置いていったお金から作りました」
兄が椀を止めた。
「そうなのか」
「そのままではありませんが」
「分かっている」
少し間を置く。
「置いていかなければ、決めるのはもっと遅れただろう」
「たぶん」
それ以上は広がらず、兄が村へ下りる前、昼の外来客が切れたところで熱い水槽へ入り、秋の冷えた空気の中で足から腰、肩の順に沈むと、夏には長すぎた熱さが今はちょうどよく、息を吐くたび朝から数えていた帳面と設備の数字が少し遠くなった。
湯口から離れた側へ身体をずらして長く入りすぎないよう一度だけ時計代わりの鐘を確かめ、上がるころには冷えていた指先まで温まっており、昼食のあと、兄は前回ラルフに案内された村の宿へ、今度は一人で歩いていった。
「お兄様、お一人で大丈夫でしょうか」
グレタが見送った。
「村の中ですし」
「そういう意味ではなく」
たぶん身分の話だろうが、兄自身が何も言わず歩いている。
坂の下へ消えるまで見送ると、兄は供も付けず、干した薪を積む家や洗った布を干す軒先のあいだを普通の客と同じ速さで歩き、宿の場所を誰かに聞くときも自分で足を止めており、戻ってきたのは半刻ほどあとだった。
「何を食べました?」
「煮込みと黒パン」
「どうでした」
「普通にうまかった」
王都の屋敷なら兄がどこで食べるかだけで何人も動くのに、ここでは一軒の家が昼食を出して代金を受け取る。
兄は歩いて戻り、その違いを面白がっているようにも見えた。
夕方、兄はぬるい水槽へ長く入り、休憩室へ戻ると濡れた髪を布で拭きながら白湯をもう一杯飲んだ。
そこで、王都から持ってきたもう一つの話を出した。
「父上が、処分の見直しを本気で進めている」
先に、戻ってこいという話ではないと付け加えた。
「処分を取り消す?」
「そういう話だ」
王宮の三百年前の水盤を壊し、その処分で五年間ここを管理することになり、父は、その形そのものを見直したいらしい。
「湯治場が、もう処分地のままではないからだ」
兄は賛成とも反対とも言わず、白湯の椀を指先で回した。
「ただし、お前を王都へ戻すと決めたわけじゃない」
「では?」
「処分が外れても、管理人は要る」
普通の管理人として残る可能性もあれば、領地管理局が別の人を任命する可能性もある。
「父上は、お前のために処分を外したいんだと思う」
「はい」
兄が椀を置いた。
「ただ、処分が外れれば、五年ここにいられるという保証も外れる」
そこで、五年という数字に別の意味があったことへ初めて気づいた。
あと四年以上ある、と数えたことは何度もあり、いつまでいられるか分からない、と数えたことは一度もなかった。
罰だからこそ、五年は最初から決まっていた。
「父上は、そこまで考えていますか」
「分からない」
兄が首を振った。
「俺が言ったのは、見直すなら任地の扱いまで一緒に決めたほうがいい、というところまでだ」
「返事は?」
「まだない」
父に悪意がないのは分かる。
手紙を一枚も書けなかった人にとっては、処分を外すことが詫びになるのかもしれず、でも、こちらにとって処分の中には、五年間ここを管理する権利まで入っていた。
照会が終われば、封印管理者としてヨナス様がこちらへ上がってくる用も少なくなり、紙の上では、それで正しいはずだった。
「兄上」
「なんだ」
「父上から手紙は?」
「ない」
「そうですか」
「書けば、認めることになると思っているらしい」
そこだけは春から変わっておらず、翌朝、クレメンスが兄の脈を取り、そのまま別の紙束を机へ置いた。
「現地で探せる記録は、一通り見終えました」
「封印の?」
「はい」
村の古い家、教会の帳面、管理棟の古紙を見ても、四十年より前へ遡れるものはない。
「見つからなかった、という報告です」
「そこで終わりですか」
「いいえ」
クレメンスは兄の脈の数を書いた。
「王都の記録が来るのを待ちます」
ヨナス様も同じ時期の記録を待っており、二人は別の入口から同じところへ向かっており、二日目の夕方、兄が休憩室から足湯へ移ったころ、坂の上からヨナス様が本院の印のない薄い封筒を持って現れた。
「今日は何ですか」
「返事ではありません。照会に添える写しを一枚」
「では、仕事ですね」
「……はい」
答えがわずかに遅れたところで、兄が足湯の向こうからこちらを見て、ヨナス様は兄へ挨拶し、そのままいつもの深い側へ座って靴を脱いだ。
「神官殿は、よく来るのか」
兄が聞く。
「巡回がありますので」
「今日は巡回ではないのだろう」
「写しがあります」
「そうか」
兄はそれ以上聞かなかったが、なぜか少し笑っており、わたしも足湯の端へ座ると、ヨナス様は持ってきた紙を膝の上へ置かず、濡れないよう背後の台へ離した。
「疫病年の照会は出せましたか」
「昨日、本院へ。祭祀局へも写しが回ります」
「では待つだけですね」
「はい」
そこで話は終わったのに、ヨナス様は立たず、兄も白湯を飲みながら動かないので、三人でしばらく同じ湯気を見ていた。
「テア」
「はい」
「乳を出し始めるという話を聞きました」
「まだです。明日から試します」
「そうですか」
ヨナス様の声が少しだけ残念そうに聞こえた。
「明日も来ますか」
聞くと、今度は兄が椀を口元で止めた。
「……用があれば」
「乳を飲む用ならあります」
「それは、用に数えていいのですか」
「飲みたいなら」
ヨナス様は足元の湯を見て、ほんの少し笑った。
「では、数えておきます」
兄は最後まで何も言わなかったが、管理棟へ戻る途中で一度だけこちらを見た。
「何ですか」
「いや」
「何かあります?」
「ない。お前はそのままでいい」
意味が分からないので、そのままにし、兄が三泊目の朝に熱い水槽へ入ったとき、ちょうどヨナス様も巡回で来ており、二人が同じ水槽へ入るのは初めてだったが、兄は伯爵家の話をせず、ヨナス様も教会の肩書きを持ち出さず、湯温と膝の話だけをしていた。
「神官殿は、この湯へ入るようになって長いのか」
「冬からです」
「最初から?」
「いいえ」
ヨナス様が少し困った顔をしたので、代わりに答えた。
「最初は入りませんでした」
「やはり」
「気持ちがいいことが怖いと言っていました」
「テア」
ヨナス様の声が一段低くなった。
「事実です」
「そうですが」
兄が笑いを堪えるように口元へ手を当てた。
「なるほど。ずいぶん変わったな」
「湯の入り方が?」
「まあ、それもある」
何がほかにあるのか聞こうとしたが、兄は水槽の縁へ腕を置いて目を閉じ、ヨナス様は反対側を向いた。
そのあと休憩室へ移るまで、二人とも妙に静かだった。
二日目の夜、足湯では兄とラルフが薪の話をしていた。
「冬はそんなに使うのか」
「去年は足りなくなりそうで大変でした」
「今年は?」
「町からも買います」
「村の木だけじゃないんだな」
「外から客が来る分まで村に持たせるのは違うって、湯守様が」
兄がこちらを見た。
「言いそうだ」
「兄上まで」
ラルフは二人を見比べて笑い、兄は足湯へ来ても村人と同じ場所へ座り、薪の話に混じっているので、伯爵家の嫡男がいることより、今日の湯温や冬の薪のほうが先に話題へ上がった。
兄の三泊は前回より静かで、湯の入り方を説明する必要もなく、昼は村の宿で食事を取った。
最終日の朝には自分で札を返しに来た。
「次は、日付を決めてから来る」
「湯治で?」
「湯治で」
春と同じ確認をしたが、今度は王都の話を足さなかった。
馬車が坂を下りていく。
机の端の照会をようやく開くと、春の湯あたりの記録について写しを送れという内容で、オットーが半日で揃え、町へ下ろす荷へ載せた。
午後、領地管理局の急使が上がってきて、厚い封書をオットーへ渡した。
宛名にはヴェルテ湯治場運営記録一式とあり、ザント担当官の名ではなかった。
「本局からです」
封を切ると、ザント担当官が持ち帰った写しがそのまま戻ってきていて、一枚だけ紙が添えてあった。
「受け取った、と書いてあります」
オットーがその一行の下を指した。
「判断は追って通知する、と」
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