第34話 四十年より前
朝の気温が下がるほど湯気はよく見えるようになり、水槽から上がる白さが地面近くを流れ、山の木も夏の濃い緑から黄色と赤の混じる色へ変わってきた。
こうなると熱い湯がいいので、朝の帳面を見る前に足、腰の順でゆっくり身体を沈めると、夏には長すぎると思った熱さが冷えた朝にはちょうどよく、息を吐くにつれて肩から余計な力が抜けていった。
水風呂は最後に脚だけ短く使い、休憩室の窓も片方だけ開ければ、外の冷気を全部入れなくても熱は十分に引くので、設備が同じでも季節ごとに使う順番と長さは変わる。
坂を上がる村人も増え、外来三枠もまた先の日付まで埋まり始め、冬支度の紙も増えていく。
「薪は去年より増えます」
オットーが紙を置いた。
「増築棟の火がありますので」
共有林から運んでもらう量だけを増やさず、増加分は町から買うが、水風呂は冷え込みが強くなれば夜は空にし、桶は土間へ戻す。
ボリスは朝から細い湯樋を見て回り、凍りやすい継ぎ目へ新しい木片を当てていた。
「夜、流す量は?」
「少し増やす」
「水風呂のほうは?」
「夜は抜くなら問題ない」
ボリスは増築棟の戸も一度開け閉めし、雪の前に直す場所へ炭で印を付けたが、春へ延期した冷水の樋には触れず、ザント担当官が持ち帰った書類の返事もまだ待つ。
「クレメンス先生から二つあります」
オットーが別の紙を出し、一つは入る前の体調確認を村人にも広げること、もう一つは湯ごとの利用時間を入口へ書くことだった。
「客が減るかもしれません」
「減ってもお願いします」
冬は一番長く入りたくなるので先に出しておいたほうがよく、昼にはクレメンスが新しい時間札を入口へ掛け、ピナが下から見上げた。
「これで長く入る人が減るでしょうか」
「減るとは限りません」
「書いてあるのに?」
「気持ちがいいと、もう少し入りたくなります」
それはよく分かる。
「だから、書くんですね」
「そうです」
村の老人が札を見て、こちらへ聞いた。
「前より短くなったのか?」
「変えていません。今まで口で言っていたものを書いただけです」
「なら同じだな」
そう言って湯へ向かい、クレメンスはその背中を見送ったが、紙にしたから新しくなるものと、紙にしても中身は変わらないものがある。
朝の帳面を開く前には熱い水槽へ入り、冷えた石へ足を置いてから腰、肩の順に沈むと、夏には長すぎた熱さが今はちょうどよく、湯気の向こうで黄色くなり始めた山の木を見ながら、息を吐くたび肩の力が抜けていった。
上がる前に一度だけ肩まで沈み直すと、朝の冷気で冷えていた指先まで温まり、布で足を拭いて管理棟へ戻るころには、冬支度の紙を読む前の眠気も残っていなかった。
その日の午後、ヨナス様が薄い綴じと本院の印の紙を持って足湯へ来た。
「目録が届きました」
靴を脱ぎ、そのまま足湯へ入るまでの動きに、もうためらいはなく、わたしも隣へ座った。
「目録は、記録そのものではないのですよね」
「はい」
ヨナス様が紙を開いた。
「どの記録が、どの束へ入っているかを示す一覧です」
ヴェルテに残る紙は四十年ほど前までで、それより古いものは王都の大書庫へ移されているため、現地で探せなかった時期を今度は目録の側から追ったらしい。
封印が始まった時期の前後を探した結果、一つの番号が見つかったらしい。
「問題は、ここです」
数字だけでは分からないが、地方の案件なら通常はこちらの記号になるというが、別の番号と並べると確かに違っている。
「ヴェルテは北部の地域記録に入るはずです」
「はい」
「でも、この番号は違う?」
「違います」
ヨナス様が別の頁を開くと、年ごとにまとめた特別な束が載っており、王族の婚姻、大きな災害、国全体へ共通の指示が出た年などが並ぶ。
「地域ではなく、年の束なんですね」
「はい」
その年の見出しを見る。
「何があった年ですか」
ヨナス様が読んだ。
「疫病の年です」
その四文字を読んだ瞬間、ヨナス様の親指が紙の端で止まり、さっきまで一定だった呼吸も一度だけ浅くなったが、春の視察で、ヘニング様が古い文字と北部の記録箱について話していたことを思い出した。
「ヨナス様」
「はい」
「北部の古い記録箱にも、柵と同じ文字の写しが一枚あるそうです」
言い終える前に柵のある斜面へ目を向けると、ヨナス様も同じほうを見ており、湯へ入れていた両足のうち右だけがいつの間にか動きを止めていた。
「……ヘニング様が?」
「はい」
視線を戻す。
「王宮の水盤の底にあった板とも、同じ文字だと」
ヨナス様はすぐには何も書かず、紙と斜面を一度ずつ見てから、膝の上へ置いた綴じを両手で持ち直した。
「祭祀局には、その写しがあるのですね」
「持ち帰っていました」
「では、照会へ加えます」
「お願いします」
返事のあともヨナス様は綴じを閉じず、足湯の湯が脛を流れるのを見たまま黙っていた。
「ヨナス様?」
「はい」
「何かありましたか」
「いいえ。……いえ」
言い直してから、ヨナス様は柵の斜面を見た。
「もし、封印が疫病の年に始まったのなら、私が教わってきた『毒の泉だから封じた』という順番そのものが違う可能性があります」
「疫病が先で、封印があと?」
「まだ分かりません」
そう言いながらも、声はさっきより低かった。
「ですが、永久に近づいてはならない場所だと教えられてきたものが、一時の措置だったのなら」
そこで言葉が止まり、ヨナス様にとっては、古い記録の読み違いだけでは済まないのかもしれない。
疫病と泉が関係しているとはまだどこにも書いていないが、地域別ではなく国全体の特別な年へ入れられた記録、柵の文字、王宮の水盤の底板が同じ方向へ寄り始めている。
同じ年に別の理由で入っただけかもしれず、目録の番号が違っている可能性もあり、そこは決めない。
「中身を読めば分かりますか」
「分かるかもしれません」
ヨナス様が紙を閉じかけた。
「分からないかもしれません」
「まだ王都に?」
「はい」
「取り寄せですか」
「申請します」
しばらく二人とも紙を見ている間、足湯の向こうではピナが時間札を運び、グレタが布を取り込んでいた。
誰もこちらの紙を気にせず、疫病の年という言葉だけが足湯の縁に残っているようで、ヨナス様は案件番号を指でなぞり、同じ数字を二度確かめた。
「ここまで来るのに、ずいぶんかかりました」
「四十年より前ですものね」
「それもあります」
紙を閉じずに続ける。
「何を探せばよいのか分からない状態が、一番長かったです」
「今は?」
「読むべき束が一つ分かりました」
それだけでも前とは違うらしいが、ヨナス様は申請用の紙へ案件番号を書き写すあいだ、左手で紙の端を押さえたまま右手の指へ力を入れ、さっきより筆圧が強くなったため、数字を書き終えるころには細い紙の下へ木板の跡まで残っていた。
「強く書きすぎています」
「……そうですね」
指を緩めると、今度は一度深く息を吐いた。
「封印を疑うことが、怖いですか」
聞いてから、少し違う気もした。
「封印を疑うことではありません」
ヨナス様はすぐ答えた。
「自分が正しいと思って守ってきたものが、誰かの一時的な判断だったかもしれないと知ることです」
この人は泉へ近づくことを止め、年四回祈り、異常がないことを本院へ報告してきたが、もし始まりが疫病の年の一時閉鎖なら、その務め自体が間違いだったわけではなくても、意味は変わる。
「でも、守ったから壊れなかったものもあります」
柵を見る。
「支柱も、記録も」
「そう考えてよいのでしょうか」
「少なくとも、なくなっていたら調べられませんでした」
ヨナス様はしばらく黙り、それからようやく筆を置いた。
「テアは、こういうときにも先に使えるものを探すのですね」
「残っているなら使います」
「……そうでした」
少しだけ肩の力が戻り、足元の湯が少しぬるくなり、樋を見ると木の葉が一枚入口へ張りついており、手を伸ばして取ると、湯が左右へ分かれて冷えていた側にも戻る。
「こちら、少しぬるかったです」
「葉が詰まっていました」
ヨナス様が足元を見てから、こちらの手へ視線を移した。
「記録の話をしている途中でも、そちらを見るのですね」
「足がぬるかったので」
それ以上の理由はないらしく、ヨナス様は一度だけ頷いた。
「冬を越すかもしれません」
「記録が?」
「申請して、向こうで確認してから写しを作ります」
「春まで待つものが、また増えましたね」
「また?」
「冷水の樋も春です」
「そうでしたか」
知らなかったらしいが、それ以上は聞かなかった。
「気にはなりませんか」
「なります」
ヨナス様が法衣の裾を整えた。
「ですが、いま開けられないものは開けられません」
「そうですね」
「次に来たとき、またお伝えします」
「お願いします」
足湯の向こうで村人が一人増えた。
「神官様、今日は長いですね」
「少し調べものがありまして」
「足も温まっただろ」
「はい」
ヨナス様は普通に答え、足湯へ長く座っている理由を誰にも足さなかった。
立つ前に、ヨナス様は法衣の裾を押さえながら膝をもう一度ゆっくり曲げ、痛みを探すように一拍置いてから伸ばした。
「テア」
「はい」
「申請は今日出します」
紙を持ち上げる。
「番号が違うというだけで、何かが間違っているとは決めません」
「そのほうがいいと思います」
ヨナス様が立ったあと、足湯の縁にはまだ少し湯が跳ねており、自分の足も上げ、冷たい石へ触れる前にもう一度だけ柵の斜面を見る。
古い支柱も斜面も春から同じ場所にあるのに、疫病の年という見出しが一つ増えただけで、別々に見えていた水盤、柵、本院の記録が同じ線の上へ並び始めた。
ヨナス様が帰って半刻ほどすると、ラルフが領地管理局の印のある紙を持って上がってきたが、オットーが表書きを読む。
「湯守様」
「はい」
「ザント担当官から、追加の照会です」
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