第33話 読み方が変わる
新しい担当官が通達の日から一日もずれずに来たのは昼前で、連れてきた馬は二頭だけ、先に若い書記が降り、そのあとから書類箱を自分で持った男が続いた。
「領地管理局のザントです」
三十歳を少し越えたくらいに見え、声も服装もきちんと整っているが、こちらを試すような態度はなく、「本日から、この地域の巡回と報告確認を担当します」と名乗る前から、増築棟と湯へ続く道を一度見ていた。
オットーは朝から帳面を選んでいたものの、途中で考えを変え、棚へ戻したものまで含めて机へ積み直した。
「全部出します」
「多いですね」
「隠したと思われるよりましです」
ザント担当官の前には用途の違う帳面が八冊積まれ、古い革表紙と新しい綴じが高さを変えて並んでいた。
本人は椅子へ深く座らず机との間を少し空け、書記も斜め後ろから手元だけ見える位置へ腰を据えていた。
ザント担当官は冊数を見て一瞬だけ止まり、それから古いものを指した。
「古いものからですか」
「はい」
「では、その順で」
巡回は湯からではなく紙から始まり、ザント担当官は最初の帳面を開くと、人数、設備、取水、事故記録の順番ではなく、数字をどう数えたかという基準から確かめ始めた。
「この人数は、どう数えていますか」
「外来と村人で分けています」
「設備別は?」
「村人だけです」
「理由は?」
足湯だけ使う人、冷水だけ飲む人、休憩室だけ使う人まで一人として同じ「利用者」へ足すと設備ごとの負担が分からなくなるため、外来客は料金単位、村人は設備単位でも数えていると説明した。
ザント担当官は答えそのものより理由のほうを余白へ書き、次に取水の頁を開いた。
「一日の湧出量は?」
「桶百十六杯です」
「使用上限は?」
「半分です」
ザント担当官は答えを聞くたび、頁の端へ小さな印を一つずつ増やしていった。
「現在の取水時刻は?」
「昼と夕方です」
「朝は?」
「取りません」
朝の用水を細らせた件もこちらから出すと、ザント担当官は原因を聞くより先に、変更後に何日、どこで、誰が確認したかまで順に聞いた。
「変更後、村側の流量は確認しましたか」
「三日測りました」
「場所は?」
「湧き口と、沢へ合流した少し下です」
紙の余白へ短い線と印を増やしていく質問は細かいが、こちらが実際にやったことを順番に出せば答えられるものばかりで、何か失言を待っているような聞き方ではなかった。
昼食は管理棟の土間で黒パンと煮込みを簡単に済ませたが、ザント担当官は食べているあいだも帳面を閉じず、頁の端を汚さないよう左手だけで押さえていた。
「休まれなくて大丈夫ですか」
グレタが聞く。
「このほうが早いので」
「湯守様と同じことをおっしゃいますね」
ザント担当官が初めてこちらを見た。
「そうなのですか」
「よく止めております」
「止まりませんが」
「止まっていただいております」
そこで書記が少し笑ったが、ザント担当官本人は笑わず、ただ、午後最初の質問だけは少し柔らかくなった。
「この帳面を増やす判断は、どなたが?」
「だいたいオットーです」
「だいたい?」
「必要になりそうな欄を、頼む前に作ります」
オットーが横で一礼した。
「必要になることが多いので」
その返事まで書き留めたあと、ザント担当官は冊子を二つ戻し、春の湯あたりの頁と、その翌日に書き直した利用規則を並べて置いた。
「『管理人判断による調整不足』とあります」
ザント担当官が該当箇所を指した。
「これはブルクハルト嬢ご自身の判断ですか」
「はい」
「ほかの者から異論は?」
「ありません」
「判断したのは?」
「わたしです」
そのまま書き留められたが、責める声ではなく、事故が起きたときに「皆で決めた」へ逃げず、誰が判断し、誰が直したのかを一行ずつ分けるための質問で、夕方近くになって、ようやく帳面を閉じた。
「設備を見せてください」
水槽二つ、既存の露天、新しい露天、蒸す小屋、打たせ湯、薬草の湯、足湯、水風呂、休憩室まで順に案内すると、ザント担当官は設備の数より、それぞれの入口に何が書かれているかを長く見た。
新しい露天の入口では、一枚だけ掛かった札の前で初めて足が止まり、表裏を確かめるように木札の厚みまで横から見た。
「札が一枚なのですね」
「はい」
「男女で二枚ではなく?」
「一枚です」
書記は顔を上げず、質問と答えのあいだだけ筆を走らせている。
「なぜですか」
「二枚あると、違うことを示す日が来るからです」
少しだけ眉が動いた。
「その場合は?」
「札ではなく、人が決めることになります」
「誰が?」
「先に来た人か、強く言った人です」
その先は設備ごとに入口と札、排水と人の動線を先に見ていき、ザント担当官が足を止めるたび、書記は斜め後ろで板を膝へ載せ直して同じ順番で記録した。
蒸す小屋では戸の開く向き、打たせ湯では濡れた床から戻る道、薬草の湯では入れ替える札の置き場まで確かめた。
足湯では、靴を脱ぐ人と通路を歩く人がぶつからない幅を測るように、ザント担当官の視線が縁から入口までゆっくり動いた。
最後に水風呂へ来ると、ザント担当官は縁へ触れず水面を覗き、クレメンスが決めた利用条件と事故記録の頁を照らし合わせてから、ようやく使うかどうかを聞いた。
「使われますか」
「お気遣いありがとうございます」
ザント担当官は丁寧に頭を下げた。
「ただ、私は入りません」
「そうですか」
「入浴は身体を開き、外の悪いものを取り込みやすくすると教わっています」
恥じてもいなければこちらを否定する声でもなく、この国では普通の考え方なので、バウマン担当官が入ったからといって次の担当官まで入る必要はなく、ザント担当官は湯へ入らず、「入口一つにつき札一枚」と記された理由を記録から読む側を選んだだけだった。
「無理には勧めません」
それで終わり、少し後ろにいたクレメンスだけが一度瞬きをし、この人も一年前は同じ側にいて、医師見習いとして湯を止める理由を探しており、翌朝、所見の説明があった。
ザント担当官は規則集を開き、健康被害と周辺住民への影響をそれぞれ一件ずつ数えた。
「この一年で、健康に関わる事案が一件」
春の湯あたりだった。
「周辺住民へ影響した事案が一件」
夏の取水だった。
「どちらも、こちらから報告しています」
「はい」
「自己申告であることは管理上、良いことです」
そこで一度切った。
「ただし、自己申告だから軽く扱う規則にはなっていません」
こちらから書いたから紙に残っているが、起きた件数そのものが消えるわけではない。
「外来客も受け入れていますね」
「一日三人までです」
「商会との予約取りまとめも?」
「始めます」
ザント担当官は紙を揃えた。
「この国の考え方から見れば」
こちらを見る。
「健康被害を一件出し、周辺へ一件影響を出した施設が、さらに利用を広げようとしているように読めます」
そう読めるし、書いたのは自分たちだった。
「ですので、無条件で拡大可能とは判断できません」
少し黙ってから、こちらから一つだけ聞いた。
「この二件は、こちらが書かなければ届いていませんでした」
「届いておりません」
「では、書かない施設のほうが、記録では安全に見えます」
ザント担当官はしばらく黙った。
「そのとおりです」
規則集を閉じた。
「ですので、私は書く施設のほうを信用します」
そこで一度切る。
「ただし、信用と判断は別です」
「今後は?」
オットーが聞いた。
「現時点で停止を命じるだけの材料はありません」
「拡大は?」
「認める材料も足りません」
最後にクレメンスの帳面を開き、脈、息、顔色、眩暈、入った長さを最初から読み、治ったとも効いたとも書かれていない。
「効果については?」
「測れないことは書きません」
クレメンスが答えると、ザント担当官は数頁戻って春の記録とも比べ、所見自体は変えなかったが、帳面を閉じる手だけはほかの冊子より少し慎重だった。
「これは本局でも読む価値があります」
昼の確認が途切れたところで空いていた熱い水槽へ短く入り、秋の冷えた空気の中で足、腰、肩の順に身体を沈めた。
朝から帳面と人の動きを追っていた頭がようやく湯の温度へ戻り、長く入らず上がったあとも指先にはしばらく熱が残った。
設備確認の最後に、足湯の前でも立ち止まった。
「これは利用時間を決めていないのですね」
「はい」
「なぜですか」
「休む場所としても使うからです」
ちょうど村の老人が一人座っていて、話を聞かれた本人がこちらを見た。
「追い出されるのか?」
「追い出しません」
「ならいい」
そのまま湯へ足を戻す。
「混雑した場合は?」
「譲ってもらいます」
ザント担当官は湯の縁を一度だけ見て、それから次を聞いた。
「規則ではなく?」
「今はそれで回っています」
「回らなくなれば?」
「そのとき決めます」
巡回の終わりには、ザント担当官が入口から管理棟までをもう一度歩き、帳面で読んだ規則が実際の動線と食い違っていないかを確かめてから、写しへ戻す頁の順番まで書記と揃えた。
その晩、土間には黒パンと煮込みの匂いが残り、書記が紙を送るたび、乾いた筆の音だけが管理棟の中へ続いた。
ザント担当官は二階へ上がる前にも写しの束を一度数え直し、昼と同じ距離から書記の手元を確かめていた。
夕食後も書記は写しを取り続け、オットーが隣で頁を揃えるあいだ、ザント担当官は上着だけを脱いで壁際へ掛けた。
本人は机の端に立ったまま、出来上がった頁と原本の順番を一枚ずつ見比べていた。
「全部持っていくのですか」
「原本は残します」
ザント担当官が答えた。
「向こうで同じ順番に読めるように、写しだけ持ち帰ります」
翌朝、春の事故、夏の取水、その後の改善、クレメンスの記録、現在の利用人数を箱へ入れた。
「次の判断が出るまで、運用を変えないでください」
「外来は一日三人のまま?」
「はい」
馬へ乗る前に、ザント担当官は一度だけ振り返った。
書記が最後まで抱えていた写しの箱には、春の事故や夏の取水だけでなく、泉の封印に関する頁も入っていた。
祭祀局への照会とヨナス様が本院へ出した申請の写しまで、別々に出した紙が同じ順番で収められている。
「停止を求める意見が出る可能性も含めて、私はこの記録を提出します」
読んでくださりありがとうございます!
・本作を★★★★★で評価
・ブックマーク
この二つで応援していただけると、とても励みになります。




