第32話 一本だけ
村へ持っていったのは完成した契約書ではなく、商会から預かった案と共通部分だけを書いた紙で、オットーはその一枚を二度書き直し、断定しすぎる言葉だけを一つずつ弱くした。
「起こる、とは書きません」
「弱くない?」
「起こりうる、で止めます」
筆先を紙へ置いた。
「強く書けば、こちらが村を動かしたことになります」
顔役の家には宿を出している七軒から一人ずつ集まり、ラルフの父も壁際に座ったが、わたしは各家が個別に商会と契約する形と、共通部分だけ一本にまとめる形を説明した。
「わたしなら一本にします」
そこで紙を置いた。
「でも、泊めるのは皆さんです」
その日のうちには決まらず、むしろ話し始めてから、同じ「宿を出す家」とまとめていた七軒の違いが一つずつはっきりしていった。
「うちは収穫の時期は夕食まで出せない」
「うちは一人なら泊められる」
「夜遅く来る客は困るな」
「肉を出す日は値段を変えたい」
「同じ客が二泊してくれたほうが楽だ」
同じ条件へ揃える必要はなく、違うところは違うまま残して、商会へ返す共通部分だけを一本にできればよく、二日目には、今度は客を回す順番のところで話が止まった。
「客を偏らせないって、どうやって?」
一番大きな家の女が聞いた。
「順番でいいんじゃないか」
「四人泊められる家と一人しか泊められない家を、同じ一回で数えるのか?」
そこでまた止まり、ラルフが壁際の父親を見るが、父親は口を出さない。
「湯守様なら、どうします?」
「空いている人数まで含めて順番を作ると思います」
「思います?」
「宿をやるのはわたしではないので」
全員の顔を見て、決める人までこちらが引き受けないことだけは先に置いた。
「案は出せます。でも最後は皆さんで」
一番年嵩の女が笑った。
「そこは最後まで押しつけないんだね」
「押しつけたら、あとで毎回わたしを呼ぶことになります」
「それは困る」
笑いが少し起き、決まらないこと自体を失敗だと思う空気も薄くなった。
結局、話し合いには三日かかり、そのあいだにも朝晩の空気は少しずつ冷えて、湯屋の使われ方まで夏とは別の形へ変わっていった。
熱い水槽へ長く入る人が増え、水風呂は最後に脚だけ短く入れる人が多くなり、夏には風を通すため開けていた休憩室の窓も、朝夕だけは閉めて冷気を止めるものへ役目を変えた。
昼の足湯では村人が三人並び、二人は宿の話をしていた。
「俺の家は無理だな」
「空き部屋あるだろ」
「母ちゃんが嫌がる」
「じゃあ仕方ない」
契約書へ書けば条件になることも、足湯の縁では「母ちゃんが嫌がる」の一言で皆が納得してしまい、紙へ直す前の理由は案外そういうところにある。
話し合いの二日目には、最初に出た案の半分ほどが別の形へ変わっており、食事を出せる家と部屋だけ出せる家を同じ順番にせず、その日の空き人数を代表がまとめる形になる。
決まらなかったところには印を付け、翌日にもう一度話すことにして、誰があとで困るか分からないまま空欄を埋めるより、空欄のまま一晩持ち帰ってもらった。
管理棟へ戻ると、足湯では宿を出さない家の老人まで話の続きを聞いていた。
「うちは泊めないから関係ないけどな」
そう言いながら、どの家へ客が多く行くかだけは気になるらしいが、村の中で起きることなら、契約へ名を書かない人まで完全に無関係にはならない。
ヨナス様が来たのは、その二日目の午後で、記録箱は持たず、薄い綴じを一冊だけ小脇に抱えている。
「本院から届きましたか」
「届きました」
綴じを机へ置いた。
「ただ、こちらに残る巡回記録は、四十年ほど前までしか遡れません」
「その前は?」
「王都の大書庫です」
地方の記録がどの束へ入っているか、まず本院から調べる必要があるらしい。
「封印を始めた人の名前も?」
「ありません」
「理由も?」
「ありません」
ヨナス様は綴じを閉じた。
「柵の点検と祈祷の手順だけは、毎年残っています」
何をするかという手順だけは四十年ぶん残っているのに、なぜ泉を封じるのか、いつまで続けるのかという理由の側だけが紙から消えている。
それだけ話すと、ヨナス様は法衣の裾を片手でまとめ、いつもの深い側へ迷わず腰を下ろして靴を脱いだ。
この人が一番よく使う設備は結局ここになり、服を脱がなくてよく、巡回の途中でも使えて、上がるときに拭くのも足だけで済むので、本人の言う「確認」にも都合がいい。
「膝はどうですか」
「朝が楽になりました」
ヨナス様が両足を湯へ入れると、冷えていた足首が熱さに慣れるまで一度だけ指先が石の縁を掴み、そのあと膝をゆっくり伸ばした。
「冷えてくると、むしろ違いが分かります」
わたしも石一つぶん空けて隣へ座ると、夕方の空気に触れている膝から上は少し寒いのに、湯へ沈めた脛から下だけはじわじわ熱が戻り、夏よりありがたさがよく分かる。
「テア」
「はい」
名前を呼んでからもヨナス様はすぐには続けず、足元の湯を見たまま右手の指で石の縁を一度なぞった。
「作るものを、どうやって決めておられるのですか」
少し考えて、そのまま答える。
「わたしが入りたいものから作っています」
ヨナス様がこちらを見た。
「村のためではなく?」
「村のためだと言ったほうが、たぶん通りはいいのですが」
足湯へ足を揺らす。
「まず、自分が欲しいものです」
ヨナス様は少し笑い、それから視線をこちらへ向けた。
「それを聞けて、安心しました」
「どうしてですか」
今度は聞いた。
「皆のためだけに作っているのなら、あなたはいつか、自分の分を最後へ回し続ける気がしたので」
「自分の分?」
「湯も、休む時間も」
水風呂を作った日から似たようなことを何度か言われている。
「わたしは湯には入りますよ」
「知っています」
「足湯にも」
「はい」
ヨナス様はそこで少し黙った。
「だから、安心したのです」
言っていることは分かるようで、全部は分からなかった。
ただ、気持ちがいいことを怖がっていた人が、いまは自分から足を湯へ入れ、こちらが湯へ入っているかまで気にするようになったらしい。
足湯から上がるとき、ヨナス様は片足ずつ布で拭き、靴を履く前に膝を一度だけ曲げ伸ばしした。
「今日は、巡回の綴じを届けに来たのですよね」
「はい」
「昨日は?」
聞くつもりはなかったのに、昨日の「近くまで来たので」を思い出して口から出たが、ヨナス様の手が靴紐のところで止まった。
「昨日は……」
かなり長く考えてから、こちらを見ないまま続けた。
「足湯の確認です」
「膝ではないと言っていました」
「そうでしたか」
「言いました」
「では」
ヨナス様はようやく顔を上げ、困ったように笑った。
「理由を決めずに来た、ということにしてください」
「そんなことがありますか」
「最近は、あるようです」
何を確認すればいいのか分からない答えだったので帳面には書かず、夕方までには村の話し合いが一つ進み、全員が毎回集まる形は無理だというところだけ一致した。
顔役一人へ任せるのも違うので、宿を出している家から二人の代表を選ぶことになり、一人は宿泊の割り振り、もう一人は食事の調整を受け持つ。
「父じゃなくて、宿を出してる家からです」
ラルフが言った。
「そのほうがいいと思います」
「父も、俺が決めることじゃないって」
全員参加にはならず、一軒はいままでどおり湯治場から直接紹介される客だけ受けることにした。
その家へ不利益を付けないことも共通条件へ入れ、残る六軒が一本の条件を持つが、部屋数も休む日も食事も違ったままでいい。
代表二人が決まった夜、顔役の家ではまだ灯りがついており、ラルフが最後の紙を持ってきた。
「これで送れます」
「全員、見ましたか」
「六軒は」
「参加しない一軒は?」
「見てます。自分の名前がないことも」
参加しないことまで含めて一つの決め方になったので、ファルケへ送ると、返事は四日後に来た。
六軒が一本で返事をする形なら受けられ、宿泊代は季節の途中で変えず、食事代は二種類までにし、手配の仕事が増えるぶん、利用者から取る料金は少し上がる。
「村から取る額は?」
「増えていません」
オットーが答えた。
「なら、こちらから下げろとは言えませんね」
六軒も条件を受け、最後の紙には六軒の名と代表二人、商会の署名が並んだ。
参加しなかった一軒の名はなく、七軒を一つにしたのではなく、違う六軒が共通するところだけ一本にし、契約がまとまった翌朝、代表二人が管理棟へ来た。
「商会から直接、ここへ問い合わせが来ることはありますか」
「予約は町で受けます。宿だけ村の窓口へ確認が来ます」
「返事はその日のうち?」
「そうです」
二人は顔を見合わせた。
「じゃあ、朝のうちに空きを揃えとかないとな」
「十日ごとです」
オットーが補足した。
決まった仕組みは、代表二人が自分たちで空き部屋を揃え始めた時点で、もうわたしが毎回指示しなくても動き始めていた。
樋は春になり、冬のあいだは桶を半里運び続けるが、それでも今の水風呂は満ちるので、この冬に止まるものはなく、夕方、オットーが馬の音へ顔を上げた。
届いたのは客ではなく、領地管理局の封書で、表には前回と同じ署名がある。
「湯守様」
「はい」
「次の巡回について、新しい担当から通達です」
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