第31話 一枚の札
領地管理局から返ってきたのは「慎重に判断されたい」という短い一文だけで、予約取りまとめも冷水の樋も村の宿も、可とも不可とも書かれていない以上、そこから先はこちらで決めることになる。
ただ、署名がいつものバウマン担当官ではない理由までは分からなかった。
「担当が替わったのでしょうか」
オットーは以前の返書と並べた。
「書かれておりません」
「では、そのままにします」
分からないところを勝手に埋めても仕方がないまま十日が過ぎ、約束の日にファルケが再び来ると、前と同じ若い従業員も一緒だった。
「今日は先に商談でよろしいでしょうか」
「もちろんです」
前回は銀貨二枚を払って全部使ったので、二度目まで同じことをする必要はないらしい。
一つ目の予約取りまとめは、前回の紙から条件が変わっていないことを確認して、そのまま受けることにした。
「一日三人は変えません」
「承知しています」
「商会の予約が前日の昼までになければ?」
「その時点で通常枠へ戻してください」
「村人の利用にも触れない」
「触れません」
そこはすぐ決まり、二つ目の冷水の樋へ進んだ。
「朝は木栓を開けません」
ファルケが紙から顔を上げた。
「朝だけ?」
「村が畑へ水を引きます」
「昼と夕方は?」
「今までどおり使えます」
「それなら、その条件で」
冷水の樋は商会が材を町から運び、村の人へ作業を頼むなら間伐材の契約とは別に賃金を払い、完成後の修繕だけを湯治場側が持って、一年後には商会客の優先一枠も自動で終わる条件になっていた。
「この二件は、これで進めましょう」
ファルケが署名し、そこで三枚目の村の宿が出た。
七軒から追加の希望が来ており、農繁期は泊めたくない、食事だけなら出せる、親戚が来る日は部屋を空けたいなど、それぞれの家で「断りたい日」の理由まで違っていた。
「違う条件でも契約できます」
ファルケは七枚の紙を並べた。
「一軒ずつ結べばよいのです」
実務だけなら簡単に見え、七軒が違うなら七枚に分ければよく、参加したくない家は入らず、最初は三軒だけで試すこともできる。
「最初は三軒だけでも構いません」
「試してから増やす?」
「はい」
話はそこまで進み、夕方、ラルフが予約札を持って戻った。
「あと、一つ聞かれました」
「何を?」
「四軒目の家が」
ラルフは紙を置いた。
「先に商会と決めた家のほうが、客を多く回してもらえるんですかって」
「ファルケさんがそう言ったの?」
「言ってないです」
「誰か聞いた?」
「それもないです」
ただ家の中で、先に決めた家から客を回されるのではないか、遅れればあとから入っても客が来なくなるのではないかという心配が、商会から何も言われる前に生まれていたらしい。
「そう」
その場ではそれ以上言わず、閉め時間に新しい露天へ入った。
入口には札が一枚だけ掛かり、女の面を裏返せば男、使う人がいなければ中央へ戻すが、札は一枚しかなく、作るときにそこだけは譲らなかった。
女用と男用を二枚にすれば、それぞれが別のことを示す日が来て、どちらも空いていると書かれていれば、最後に決めるのは札ではなく、先に来た人か声の大きい人になる。
だから、入口が一つなら札も一枚にした。
湯へ肩まで沈み、七軒の宿と七枚の契約書を頭の中で並べると、入口が一つなのに札を七枚掛けようとしているように見えてきた。
同じ日に二軒が空いていれば、どちらへ客を回すかを決めるのは商会で、どちらの家にも断る自由があると言っても、一軒だけ新しい条件を断れば、その家へ客を案内しないという処理だけで済んでしまう。
商会が脅す必要はないし、誰かが悪意を持つ必要もなく、七枚に分かれているだけで、断った一軒だけが少しずつ弱くなる余地ができる。
四軒目の家が誰にも言われる前から気にしたのは、たぶんそこだった。
湯から上がる前にもう一度入口の札を見ると、一枚しかないからこそ誰が使っているか一目で分かり、使う側もその決まりへ従える。
冷たい水を一杯飲んで管理棟へ戻り、机へ村との間伐材契約、外来客の取り決め、取水時刻の紙を並べると、どれも村側の窓口は一つなのに、その隣にある宿の契約案だけが七枚へ分かれていた。
翌朝、ファルケへ聞いた。
「七軒が別々に契約したとして」
「はい」
「来年、一軒だけが新しい条件を断れば、その家とだけ更新しないことはできますね」
「できます」
「その家へ、商会から客を回さないことも?」
「契約がなければ、案内はできません」
当たり前の返事だった。
「今日そのつもりで出された案ではないことは分かっています」
「はい」
「何年か先も、絶対に起きないとは言えませんね」
ファルケは若い従業員を一度見てから、こちらへ戻った。
「そうなる可能性はあります」
言い訳をしなかったので、話はそこで進めやすくなった。
「村側を一つにしたいです」
「窓口を?」
「はい」
参加する家が共通部分だけ一つの取り決めを持ち、商会はその窓口と話すが、部屋数や休む日は家ごとに違っていい。
「どの家へ客を入れるかは?」
「村側で決めます」
「商会としては、その日のうちに返事が欲しいです」
「それは村で決めてもらいます」
「湯守様が決めるのでは?」
「宿を出すのは、わたしではありません」
ファルケは少し黙り、七軒から別々に返事を受ける場合と、一つの窓口から受ける場合を頭の中で並べているような顔になった。
「窓口が一つになること自体は助かります」
「では?」
「村側が返事を止めない仕組みなら」
「そこまで含めて、村で決めてもらいます」
七枚の契約書は、その日は重ねて戻されたが、代わりに冷水の樋には別の問題が出た。
「樋の着工ですが」
ファルケが二枚目へ手を置いた。
「村の形を決めるまで待つなら、今年は雪にかかります」
「どのくらい待てますか」
「半月でも厳しいです」
秋の終わりまでに材と人を山へ入れなければならず、今から村で話し合えば間に合わない。
「今年は無理です」
「春ですね」
「春になります」
水風呂の槽を増やし、冷たい打たせ湯も作るつもりだったので一年待つのは惜しいが、今年中に樋を通すため村の話し合いまで急がせれば、設備一つと引き換えに別のものを壊す。
「春でお願いします」
ファルケが紙をまとめた。
「商売の話として申し上げます」
「はい」
「こちらは今日の判断で、今年の商いを一つ落とします」
そこで小さく息を吐いた。
「それでも、悪い判断だとは思いません」
村の話し合いは、その日の夕方から始まり、七軒全部は来られず、まず五軒だけが顔役の家へ集まった。
「客を回す順番はどうする」
最初に出たのはそこだった。
「空いてる家からでいいだろ」
「毎回同じ家が空いてたら?」
「じゃあ順番にするか」
「三人家族と一人暮らしを同じ順番にするのか」
すぐに止まり、ラルフがこちらを見る。
「湯守様はどう思います?」
「宿を出すのは皆さんです」
「でも」
「わたしが順番を決めたら、あとで困るのも皆さんです」
誰もすぐには返さず、少しして顔役が口を開いた。
「じゃあ、誰が返事をするかだけ先に決める」
「それなら決められる」
話が一段だけ前へ進み、一度で全部決めないことになり、話し合いが終わったあとも五人はすぐ帰らず、足湯へ移ってさっき決まらなかった順番の話を続けた。
机を囲んでいるときより、同じ方向を向いて足だけ湯へ入れているほうが、誰かの顔色を見ずに言いたいことを出しやすいらしい。
五人が足湯へ移ったあと、わたしは一度だけ新しい露天へ戻った。
女の面を表へ向けた札を確認して入ると、昼より少し低くなった外気の中で湯気が岩壁へ沿って溜まり、肩まで沈めば外気に触れていた首の後ろまでゆっくり温まって、七軒の契約書を一枚ずつ分けて考えていた頭も、湯の流れる音へ少しずつ戻っていった。
入口の札は木片一枚に表と裏しかなく、それでも誰が使っているかを外から一つに決められるため、机に並べた七枚の紙よりずっと小さいのに、曖昧さを残さない仕組みとしては同じ働きをしている。
湯の設備を作ったときに決めたことが、紙の上へ形を変えて戻ってきた。
上がろうとしたところで、入口側から鐘が一度鳴ったものの、今日は女の札が表なので、中へ入ってくる人はいない。
「テア」
岩壁の向こうからヨナス様の声がした。
「はい」
「いま、入っておられますか」
「入っています」
「では、外で待ちます」
何の用だろうと思いながら湯を出て、布を整えてから札を中央へ戻すと、ヨナス様は鐘の横で本当に待っていた。
記録箱も巡回の綴じも持っていない。
「今日は巡回ですか」
「いいえ」
「膝?」
「それも、違います」
そこで答えがなくなったので、わたしも次を待ったが、ヨナス様は何も持っていない両手を一度組み直し、こちらではなく入口の札を見た。
「村で、宿の話をしていると聞きました」
「はい。まとまりません」
「困っていますか」
「少し。でも形は見えました」
「そうですか」
それだけなら、わざわざ坂を上がって来るほどの用ではない気がする。
「誰かに頼まれたのですか」
「いいえ」
「教会から?」
「いいえ」
「では、どうして?」
ヨナス様はそこでようやくこちらを見た。
「……近くまで来たので」
教会からここまでを近くと呼ぶなら、村の人はたぶん笑う。
「足湯へ入っていきますか」
「はい」
返事だけはすぐで、足湯へ移ると、ヨナス様はいつもの深い側へ座り、法衣の裾を整えてから両足を湯へ入れた。
「宿の契約は、何が問題なのですか」
「七軒が別々に商会と契約すると、断った家だけ客が来なくなる形が作れます」
「商会が、そうすると?」
「しなくてもできます」
入口の札の話から説明すると、ヨナス様は湯の中で膝を一度伸ばし、長い指を石の縁へ置いたまましばらく黙った。
「同じ入口を使うから、一枚なのですね」
「はい」
「では、七軒も一つの入口を持たせる」
「そうです」
話し終えると、ヨナス様は少し笑った。
「テアは、湯を作っているときと同じ顔で契約の話をするのですね」
「どんな顔ですか」
「楽しそうです」
「困っている話ですよ」
「それでもです」
そう言われると少し分からないが、わたしは契約が好きなのではなく、壊れない形が見つかる瞬間が好きなのだと思う。
「ヨナス様は、今日は何をしに来たのですか」
もう一度聞くと、今度は答えがさらに遅かった。
「……足湯へ」
「さっき膝ではないと」
「そうでしたね」
ヨナス様は自分で言ったことに困ったように目を伏せ、そのまましばらく湯から出ず、商会の二人を見送ったあとには、ラルフへ参加したい家だけ集めてもらえるか頼んだ。
「全員ですか」
「参加したい家だけで構いません」
「何を決めるんです?」
「誰が商会へ返事をするか」
ラルフは簡単そうに頷き、七軒の名前を一つずつ数え、三軒目あたりから顔が変わった。
「これ、一回じゃ決まらないと思います」
「そうでしょうね」
「だから、村で決めてもらいます」
「同じ宿って言っても、欲しいものが全然違いますよ」
読んでくださりありがとうございます!
・本作を★★★★★で評価
・ブックマーク
この二つで応援していただけると、とても励みになります。




