第30話 朝の一刻
その日の水運びは止め、一日の上限を守っていても朝の沢が細くなった事実を先に置くことにし、翌朝、日の出から間もないうちにボリスとピナを連れ、まだ桶を一つも取らずに山へ上がり、測る場所は岩の下の湧き口と、そこから沢へ合流した少し下の二つにする。
「今日は何回数えます?」
「何度もです」
ピナが真顔になった。
「普通の速さで?」
「十までを繰り返しましょう」
「それなら普通が分かります!」
一日目は水風呂用の桶を一つも取らず、自然に流れている状態だけを基準として残し、朝から夕方まで同じ場所を何度も測ることにした。
「いーち、にーい、さーん……」
湧き口で桶が満ちるまでを数え、場所を移って沢へ入ったあとの流れも見るが、朝の始め、朝の一刻の半ば、その終わり、昼、夕方と同じ場所へ何度も上がり、桶が満ちるまでの数と、沢へ合流したあとの見た目を同じ順番で残した。
「量、減ってますか」
ピナが聞いた。
「湧き口は、ほとんど変わりません」
ボリスも頷いた。
「前と同じだ」
二日目は朝だけ八桶を取り、最初の桶から順にラルフたちへ下ろしてもらい、五つ目を取るころ沢との合流点へ回ると、昨日の同じ時刻より石の見える幅が増えていた。
「見える?」
ボリスが聞く。
「昨日より細いです」
八桶を取り終えてしばらく待つと、水はまた元へ戻った。
三日目は朝には一桶も取らず、昼に八桶、夕方にも八桶を取って同じ場所を見たところ、どちらも取っているあいだだけ沢は細くなったが、村が畑へ水を引く朝とは重ならないため、下の畑で困るほどにはならなかった。
夕方には元の沢にも余裕があったが、三日分を机へ並べると、原因は数字の中にそのまま出ていて、湧く量そのものは変わらず、一日に取る量も五十八杯を越えていない。
量は守った。
時刻を考えなかった。
村は朝の一刻に畑へ水を引き、こちらも水風呂を満たすため同じ時間へ八桶をまとめていたので、一日全体では半分以下しか取っていなくても、同じ一刻へ重ねれば下へ流れる水だけが足りなくなる。
「原因は分かりました」
最後の数字を書き、そのまま管理棟へ戻らず村へ下りたが、顔役の家にはラルフの父と畑を持つ男が二人いて、こちらが来ることも伝わっていた。
「湧き口の量は減っていません」
最初に三日分の紙を出す。
「こちらが朝に水を取ったときだけ、下へ流れる量が減っています」
「どのくらい?」
「八桶を続けて取るあいだです」
別の欄を指す。
「昼と夕方にも同じことは起きます」
「でも朝だけ困る」
「はい」
そこはもう分かっている。
「こちらの確認不足でした。すみません」
謝るのは一度にして、紙を相手側へ向けると、ラルフの父はしばらく数字を見てから、指で机を二度叩いた。
「上の畑はまだいい」
「下の二枚がな。朝に水が来るまで、少し余計にかかる」
「作物に影響は?」
「今のところはない」
顔を上げる。
「ただ、ずっと続くなら困る」
「朝には取りません」
隣の男がこちらを見た。
「水風呂をやめるのか?」
「やめません」
「そこは早いな」
少し笑われた。
「湯治場を増やすために、村の畑を不便にはしません」
ラルフの父が一度頷いた。
「それならいい」
水風呂をなくせと言われたわけではなく、こちらにもなくす理由はないので、必要なのは設備を諦めることではなく、村が一番水を必要とする時間からこちらの取水を外すことだった。
管理棟へ戻り、水風呂の槽は前日の夕方に満たすことにし、朝の一刻は湧き口へ行かず、昼に飲用分と補充分、夕方に翌日の分を運ぶ。
「朝の水は?」
グレタが聞いた。
「前の日の夕方に少しだけ取ります」
「温くなりませんか」
「試します」
その日の夕方に満たした槽を翌朝見に行くと、北側の建物の陰に置いた水は十分に冷たく、夜のあいだに外気まで下がったせいか、手を入れると朝に運んでいたときよりむしろ指先が痛いほどだった。
「冷たい」
ピナも横から触った。
「前より冷たいです」
「そうですね」
時間をずらした結果なら、それもそのまま使えばよく、取水の始まりは鐘で合わせ、昼の鐘が鳴ったあとと夕方の鐘が二度鳴ったあとだけにし、桶を持って出る人は管理棟へ声を掛け、戻ったときも時刻を伝え、村側にも同じ時刻を書いた紙を渡した。
「朝は取らないって、これで分かる?」
ラルフが紙を見る。
「字を読める人なら」
「読めない人は?」
そこでボリスが木片を持ってきて、桶の絵を描き、その上へ斜めに一本線を入れている。
「朝はこれを表にする」
「分かりやすい」
露天で使っている札と同じで、文字を読めるかどうかに関係なく一目で分かり、人が同じ時刻に同じ場所へ集まるなら、道具の役目も設備の入口とそれほど変わらない。
翌朝、最初の新しい時間割で動くと、誰も湧き口へ行かず、ラルフは村側で沢を見て、昼前に戻ってきた。
「いつもどおりです」
「下の畑も?」
「届いたって」
そこでようやく息を吐くと、水風呂には前日の夕方に張った冷たい水が残り、村の畑へも朝からいつもの量が流れているので、どちらか一方をやめる必要はなかった。
「昨日まで、量だけ見ていました」
オットーへ三日分の紙を渡す。
「今日から時刻も残します」
「承知しました」
帳面には桶数だけでなく取り始めと戻った時刻も入れ、クレメンスの帳面には人が水風呂へ入った時刻が残るので、同じ水でも見ているものは違い、昼の取水にはラルフも一度ついてきた。
「朝じゃないだけで、こんなに違うんですね」
桶を受けながら沢を見る。
「村では昼に水を引かないの?」
「引きますけど、朝ほど一斉じゃないです」
「夕方は?」
「家によります」
同じ沢を使っていても、湯治場の帳面には桶数、村の畑には必要な時刻が残るので、こちら側の数字だけを見ていたら出てこない答えだった。
「今度から、何か増やす前に村の使う時刻も聞きます」
「何かって、また増やすんですか」
「まだ決めていません」
ラルフが少し疑う顔をした。
「その言い方、だいたい増えますよね」
「そうでしょうか」
「増えます」
横でボリスまで頷き、管理棟へ戻ると、オットーが朝の札と昼の札を並べていた。
「同じ水でも、取る時刻まで決めることになるとは思いませんでした」
「わたしもです」
「次は最初から時刻も項目へ入れます」
「次がある前提ですね」
「湯守様がおられますので」
否定できる材料はなく、報告文にはこちらの失敗だけでなく、直した方法まで入れる。
「原因は、管理側の取水時刻の判断不足で」
オットーが書く。
「対策は、朝の一刻を取水禁止」
「はい」
「村側へも時刻を通知済み」
「それも」
前の湯あたりと違って今回は誰も倒れていないが、設備を増やしたことで村側へ不便を出しかけた以上、事故にならなかったからと報告から外す理由にはならない。
村へ渡した紙は顔役の家の入口にも掛け、朝は取らないと分かる位置にし、ラルフの父にも、その場所でよいと確認してもらった。
夕方には朝に使わない桶が土間へ一列に戻り、札も取水禁止の面へ返されており、季節の報告には、朝の取水で村の水が細くなり、三日測って時刻をずらしたところまで書いた。
夕方の取水が終わるころには、空の桶が一列に戻っており、ピナは札を裏へ返し、今日の役目が終わった顔をし、夕方、翌朝分の水を張り終えて槽の蓋を確認していると、足湯のほうからヨナス様が歩いてきたが、今日は教会の帳面を持っているので巡回らしい。
「取水の時刻を変えたと聞きました」
「もう村まで?」
「村ではなく、ラルフ殿からです」
ヨナス様は水の槽を覗き込み、手を入れずにこちらを見た。
「問題は収まりましたか」
「明日の朝、もう一度見ます。たぶん大丈夫です」
「たぶん」
「測ってから確定します」
「そうでした」
納得したように頷いたあと、ヨナス様は槽の横へ置いた八つの桶へ目を移した。
「三日、何度も山へ?」
「はい」
「あなたも?」
「最初と最後は」
またその聞き方だと思った。
「全部わたし一人で運んだわけではありません」
「分かっています」
答えながら、ヨナス様は桶の取っ手へ指を掛けて重さを確かめた。
「それでも、何か起きるたびに先に山へ行くのですね」
「原因を見ないと直せませんから」
「先に行く人が、いつも同じである必要はありません」
水風呂を作った日にも似たことを言われた。
「ヨナス様は封印を見る人でしょう」
「はい」
「クレメンスは身体を見る人です」
「はい」
「ボリスは設備を見る人です」
「では」
ヨナス様は桶から手を離した。
「あなたを見る人は、誰ですか」
一瞬、意味が分からなかった。
「グレタがいます」
そう答えると、ヨナス様は目を伏せ、少しだけ笑った。
「……そうですね」
何か違う答えを聞きたかったようにも見えたが、グレタほどわたしを見ている人はたぶんいないまま話はそこで終わり、オットーへ紙を渡した午後には管理局から封書が届いた。
「商会の件でしょうか」
「おそらく」
オットーが封を切り、最初の一行から最後まで目を走らせた。
「これだけです」
「何と?」
「慎重に判断されたい」
「それだけ?」
「はい」
予約、冷水の樋、村の宿を別々に照会したのに、返ってきたのは一行だった。
「可とも不可とも書いていません」
「では、こちらで決めるしかないですね」
「そのように読めます」
オットーが紙の一番下で少し長く止まった。
「湯守様」
「はい」
「署名が、バウマン担当官ではありません」
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