第29話 水の風呂
桶百十六杯という数字を見て、最初に決めたのは全部を使わないことだった。
ボリスが測ったのは一日じゅう受け続ければ取れる最大量であって、全部こちらへ回してよい量ではなく、飲み水にも使ううえ、沢へ落ちていく分まで消してしまえば村のほうへ何が起こるか分からない。
「半分までにします」
紙を見ていたボリスが顔を上げた。
「五十八か」
「はい」
水風呂へ使う分と飲み水を合わせても、それを越えないようにする。
槽も大きくせず、一人が脚を伸ばさず座れるくらいに留め、肩まで沈まない深さにして、午後になっても増築棟の影が残る北側へ置けば、汲んできた水が日差しで温まりにくい。
商会の樋が通れば運ばなくて済むが、まだ受けると決めていない話を先に当てにはできない。
「今あるもので作ります」
「二日あればできる」
ボリスはそう言い、本当に二日で浅い槽を組み上げた。
厚い板の隙間を詰め、底の片側だけ少し低くして縁には腰掛けられる幅も残し、湧き口には桶へ受けるためだけの短い樋を置いて、岩も流れも変えないまま水だけを受ける形にした。
八つの桶へ順に水を受け、満ちたものから二人で下ろした。
八桶目が入ったところで槽へ手を入れると、岩場ほどではないが、手を入れたままではいられない。
「入るんですか」
グレタが聞いた。
「そのために作りました」
「分かっております」
まだ何か言いたそうなところへ、クレメンスが帳面を持ってきた。
「先に決めたいことがあります」
「入り方?」
「はい」
心の臓に弱いところがある人、酒を飲んだ人、ひどく疲れている人には使わせず、熱い湯から移る場合も最初から深く入らせず、足先、膝の順に冷たさへ慣らすことを先に決めた。
「息が苦しい、胸が痛い、強い眩暈がする、どれかがあればすぐ上がってください」
「分かりました」
「長く入ればよいものではありません」
クレメンスが最後に言ったのはそれだけで、十分だった。
昼前、まず熱い水槽へ入り、肩までは沈まず額に汗が浮くところまで身体を温めてから、一度上がって休憩室で呼吸が戻るのを待ち、北側の水の槽へ向かった。
足先を入れた瞬間、湯の熱が残っているぶん冷たさが刃のように鋭く感じられ、反射的に息を止めそうになったので、そのまま沈まず一度息を吐き、もう一度足を入れて今度は膝までゆっくり下ろした。
「大丈夫ですか」
クレメンスの声がした。
「大丈夫です」
分かっていた冷たさより一段強く、湯のあとに残っていた熱が足先から引き剥がされるように消えていくが、呼吸を続けていると最初の痛さだけが薄れ、頭の中まで静かになるような感覚へ変わっていった。
腰より少し下まで沈んだところで止め、肩まで入る必要はないと決めた。
息を吐いて最初の痛い冷たさを越えると、今度は冷たいこと自体が気持ちよくなる。
長く入る必要はなく、もう少し入りたいと思うところで出るくらいがちょうどよく、休憩室へ移って窓から入る風を受けると、さっきまで熱かった身体と冷たかった脚が、どちらでもないところへゆっくり戻っていった。
これだ。
熱い湯だけなら夏には重く感じる日があるが、冷たい水と、そのあと何もしないで風へ当たれる場所まで続けば、暑い季節にも湯へ入る理由がちゃんと残る。
もう一度だけ湯へ戻り、短く温まってから水へ入ると、最初ほど冷たさに驚かなかった。
代わりに温度の差がはっきり分かり、水風呂は我慢して長く入るものではなく、冷たさを短く受けて休むところまでが一続きだと知った前世の頃を思い出した。
熱い湯、冷たい水、風の通る休憩室まで揃ったところで、ようやく夏に欲しかった入り方が一つ形になった。
夕方、利用者が途切れたところでもう一度だけ自分で試すと、昼より外気が下がっているぶん、同じ水でも最初の冷たさが強く感じられた。
熱い水槽で短く温まり、水へは膝まで、休憩室では窓を半分だけ開けると、昼に全部開けたときより風が弱く、身体が冷えすぎない。
同じ設備でも時刻で入り方を変えたほうがいいなら、水風呂にも湯温と同じように使う時間を書いておく意味があり、板へ「夕方は短く」と一行足してから、冷たい水を一杯飲んだ。
喉を通る冷たさと、足に残った冷たさは似ているようで別のもので、どちらも熱い湯のあとだから欲しくなる。
夏に湯へ入る人が減ったから作った設備なのに、作ってみると、湯そのものへ戻る理由まで増えており、午後からは村の人にも試してもらい、蒸す小屋から出た男二人が足を入れたところで同時に顔をしかめた。
「冷たっ」
「これ入るのか?」
「短くです」
一人が先に膝まで沈むと、もう一人も続いた。
「……ああ」
「どう?」
「最初だけだな」
二人とも予定より早く上がらず、足湯に来ていた年寄りは水へ入らず冷たい飲み水だけを選んだ。
「わしは水でいい」
使わない人もそのまま記録する。
ピナはかなり入りたそうだった。
「わたしは?」
「子どもだけでは使わせないと、今決めました」
「今?」
「今です」
グレタの横で見るだけになり、クレメンスもそれでいいと頷き、ヨナス様が来たのは、その日の遅い時間で、水の槽の前で足を止める。
「これへ入るのですか」
「短い時間だけです」
先にぬるい水槽で温まってもらい、そのあと縁へ座って片足だけ水へ入れた。
口を閉じたままこちらを見たので、相当に冷たかったらしい。
「無理なら、入らなくてもいいですよ」
「……いえ」
もう片方も入れ、少し待ってから膝の下まで沈めた。
「冷たいですか」
「かなり」
「息は?」
「大丈夫です」
返事は短く、膝の下まで沈めた脚へ視線を落としたまま右手で槽の縁を強く掴んでいるので、少なくとも余裕はあまりなさそうだった。
一度上がると濡れた脛へ布を当て、休憩室の窓辺で呼吸を整えてから、こちらが勧める前に自分からもう一度ぬるい湯へ戻った。
少しして出てきたところへ聞く。
「どうですか」
「驚きます」
「水に?」
「水に、です」
ヨナス様はそこで少し黙り、濡れた髪を指で後ろへ払ってから、まだ赤みの残る足首へ一度だけ目をやった。
「これは、教義のどこにも書かれていません」
その言葉だけは、帳面へ書かなかった。
「湯についても、書かれていないのでしょう」
「湯については書かれています」
「何と?」
「よくない、と」
その一行を書いた人は、たぶん熱い湯にしか入ったことがない。
クレメンスは息の乱れと顔色だけを記録し、入った長さも残した。
治ったとも疲れが消えたとも書かない。
休憩室から戻ってきたヨナス様は、最初より肩の力が抜けていたが、水の槽の前だけは少し遠回りして通った。
「もう一度、入られますか」
「今日は結構です」
「では次に」
「次もあるのですか」
「ありますよ。使う設備ですので」
そう答えると、ヨナス様は困ったように口元を緩めた。
「テアは、こういうものを作るたびに最初に試すのですね」
「自分で入りたいものを作っていますから」
「危ないものまで?」
「危ないかどうかを確かめてから、人へ使わせます」
返事を聞いたあと、ヨナス様の笑みだけが消えた。
「その順番は、変えられませんか」
「誰かが先に入らないと分かりません」
「クレメンス殿でも」
「医師見習いは観察する人です」
「ボリス殿でも」
「作る人です」
「……では、私でも」
そこまで言って、ヨナス様は自分でも何を言ったのか確かめるように一度口を閉じた。
「封印の管理とは関係ありませんよ」
「分かっています」
返事が思ったより早かった。
水風呂の冷たさより、そちらのほうが少し意外で、ヨナス様が帰ったあと、グレタが水の槽を覗き込んだ。
「神官様まで入られるとは思いませんでした」
「足だけです」
「それでもです」
ピナも横から覗いた。
「神官様、すごい顔してました」
「冷たかったのでしょう」
「湯守様も最初してました」
「していましたか」
「はい」
そこは見られていたらしい。
クレメンスは二人の会話を聞きながら帳面を閉じた。
「最初の反応が強い設備ですから、無理に勧めないでください」
「勧めません」
「見ていると入りたくなる人は出ます」
実際、その日の夕方には村の若い男が二人、槽の前で立ち止まった。
「これ、神官様も入ったのか」
「入りました」
「じゃあ大丈夫か」
「その決め方はやめてください」
二人とも笑い、一人は膝まで、もう一人は足先だけでやめた。
使い方が同じでなくてもいい。
数日すると暑い時刻にも人が戻り、熱い湯へ入らず水の槽だけ使う人も現れた。
蒸す小屋から水へ移る人もいて、夏に必要なのは冬と同じ入り方をさせることではないと分かる。
翌朝、水の槽の縁には新しい布が一枚置かれ、濡れた足で休憩室へ入らないためにグレタが用意したらしい。
それから四日後の朝、ラルフが管理棟へ来て、いつもなら入口へ着く前から用件を言うのに、今日は帽子を脱いだまま少し黙っている。
「どうしました?」
「ちょっと、聞きたいことがあって」
声も小さい。
「誰か困っていますか」
「まだ、そんな大ごとじゃないんです」
「何があったの?」
ラルフは一度口を閉じた。
「朝の水です」
「水?」
「村で畑へ引いてる沢が、この何日か朝だけ細いんです」
この十日ほど雨は降っていないが、こちらも朝に桶を運んでおり、一日に取る量は五十八杯までに抑え、その数字は守っていた。
「明日、測ります」
ラルフが頷き、帰りかけてもう一度振り返った。
「うちの父が言ってました」
「何を?」
「湯守様は、数えないで決める人じゃないからって」
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