第28話 商会の使い
グルント商会の代理人が来る朝、オットーは机へ帳面を五冊並べ、そのうち二冊を開かないまま棚へ戻した。
「全部は見せないの?」
「必要になれば出します」
残した三冊には外来客の予約、村への共同費、冷水の運搬がそれぞれ入り、今日の話がどこへ伸びても、こちらで既に決めている線だけはすぐ出せるようになっていた。
「村人の無料利用は?」
「聞かれれば答えます」
「宿は?」
「話がそこまで進んだら出します」
持っているものを全部見せれば説明は早いと思うのだが、相手が何を欲しがっているか分からないうちからこちらの数字を全部並べると、その数字に合わせて提案まで作られることがあるらしく、オットーには順番そのものが商談の一部らしい。
グレタは帳面とは別のところを気にして、王都から持ってきた濃い色の上着を出した。
「着るんですか」
「正式にお迎えしますので」
「暑いです」
「存じております」
「休憩室は涼しいですよ」
「服装の話をしております」
結局、入口で挨拶をする間だけ着て、商談に入ったら脱いでもよいところで折り合った。
昼前に坂を上がってきたのは、三十代の終わりほどに見える男と荷を持った若い従業員だった。
「エーリヒ・ファルケと申します」
グルント商会で街道北部の宿や旅客を扱う掛だと名乗り、薪の担当とは別だと最初に断った。
「冬の値も、春の年間契約も、私の担当ではありません」
「別のお話ですか」
「はい」
ファルケは少し笑った。
「そちらの返事は急がれなくて結構です」
薪の年間契約と今日の話を抱き合わせにはしないと、こちらが何も聞く前から先に言う相手は、裏返せば抱き合わせにもできる位置にいるのだろう。
「お話の前に、一人の客として使わせてください」
ファルケは財布から銀貨二枚を出し、受付の台へ置いた。
「今日は商談で来られたのですから」
「それでは困ります」
「困る?」
「客が何に銀貨二枚を払っているのか、自分で知らないまま話すことになります」
オットーは何も言わず銀貨を受け取り、外来客の帳面へ名前を書いた。
ファルケはぬるい水槽へ入り、新しい露天では入口の札と鐘まで確かめ、足湯へ座ったあとに冷たい水を一杯飲んで、休憩室から出てきたころには濡れた髪を撫でつけ、上着を腕へ掛けていた。
「暑い季節には、この部屋がかなり効きますね」
「湯へ入らず、水だけ飲む村人もいます」
「それは面白い」
ファルケは木椀を返し、休憩室を一度見た。
「湯が何に効くかは、私には分かりません」
「ただ、暑い日に坂を上がった者が、ここで休んで帰りたいと思う理由は分かります」
湯が病を治すとも、冷たい水に特別な効き目があるとも言わず、自分が客として使って分かった範囲だけを話す相手なら、少なくとも噂の訂正から始めなくて済むので話はしやすそうだった。
管理棟へ移ると、こちらはわたしとオットーとグレタ、商会側はファルケと若い従業員で机を囲んだ。
ファルケは紙を三枚並べた。
「どれも別々に断っていただいて構いません」
三枚の紙はどれも、こちらへ今より多く客を入れろとは書いていない。
むしろ一枚目は手紙を減らし、二枚目は水を運ぶ人手を減らし、三枚目は村の家が客を探す手間を減らす話なので、どれも「楽になる」という同じ顔をしている。
だから、何を差し出す代わりに楽になるのかだけは、紙ごとに分けて見たほうがいい。
「三つあるんですね」
一枚目を手前へ出すと、オットーはすぐ紙へ手を伸ばさず、まず見出しと末尾の署名欄だけを読んだ。
「予約の取りまとめです」
内容は、町で希望者を集め、湯治場は十日ごとに空いている日だけを返すというもので、一日三人の上限は変えず、日帰り銀貨二枚と宿泊銀貨三枚というこちらの料金にも触れない。
「商会はどこで取るのですか」
「客から別に手配料をいただきます」
「村人の利用は?」
「触れません」
前日の昼までに商会から予約が入らなければ、その枠は通常の外来客へ戻るので、空いているのに商会のためだけに人を断る形にはならない。
「それ以降は?」
「そちらでお使いください」
これなら、いままでラルフが町まで運んでいた予約の返事はかなり減り、こちらは空いている日だけをまとめて返せば済むので、一枚目は湯治場側の手間を減らす話だった。
「二つ目は?」
ファルケが紙を入れ替えた。
「冷たい水の樋です」
オットーの顔が少し変わった。
「常設には、木樋が三十二区間ほど必要だと聞いております」
「どなたから?」
「町の木材商です」
こちらで出した数字と同じだった。
「商会で費用を持ちます」
「条件は?」
「完成後一年間、一日一枠だけ、前日の昼まで商会客用に確保してください」
「三人のうち一人?」
「はい」
「予約がなければ、通常の外来枠へ戻す」
「はい」
外来客を三人より増やす話ではなく、もともとある三つの枠のうち一つだけを前日昼まで商会が優先して押さえ、その代わりに長い木樋の初期費用を持つ形だった。
「樋は誰のものになりますか」
「完成後は湯治場へ渡します」
「修繕は?」
「そちらで」
ファルケは迷わなかった。
「そこまで商会が持つなら、毎年条件を付け直さなければ合いません」
こちらは毎日桶を運ぶ手間と長い木樋の初期費用を減らせて、商会には一年だけ確実に案内できる枠ができるので、二枚目も互いの得が紙の上で見えやすい。
「三つ目は、村の宿です」
最後の紙を出した。
「七軒を、当商会でまとめたいと考えています」
「まとめる?」
「町で宿まで手配します」
七軒が出せる部屋と日を商会へまとめて知らせ、客は町で馬車と宿を一度に頼めるようにする仕組みで、ここまでの二枚と違って、湯治場ではなく村の家が契約の相手になる。
「家が受け取る額は?」
「今と同じです」
「商会は?」
「客へ手配料を加えます」
「家からは取らない?」
「取りません」
全部の家が参加する必要はなく、農作業が忙しい日は部屋を出さず、泊めても食事だけは断る選び方もできるので、紙に書かれた条件だけを見れば、これも悪い話には見えなかった。
ただ、三枚目だけはすぐ重ねる気にならなかった。
「宿の契約は、村の家と商会で直接?」
「はい」
「湯治場は入らない」
「宿泊代を受け取っていませんから」
「そうですね」
湯治場が宿泊代を受け取っていない以上、契約へ入らないという整理自体は合っているが、村人の無料利用と共有林の間伐材を運ぶ契約は、湯治場と村のあいだで既に一つのまとまりになっている。
宿だけを切り離して商会へ渡したとき、その周囲にある関係まで本当に今のまま保てるのかは、一度紙の外まで見たほうがよかった。
「今日は決めません」
ファルケはすぐ頷いた。
「もちろんです」
「一つ目と二つ目は、確認すれば決められそうです」
「三つ目は?」
「領地管理局へ照会します」
「理由を伺っても?」
「村との契約が一つあります」
村との契約書をその場で見せる必要はないのでそれ以上は言わず、ファルケも理由の輪郭だけ分かれば十分らしく、それ以上は聞かなかった。
「筋の通った手順だと思います」
ファルケは紙を畳まず、そのまま机へ残した。
「湯守様は、三つ目だけ警戒されていますね」
「警戒というほどではありません」
「では、気にされています」
こちらが紙を重ねる順番まで見ていたらしく、客として湯を使ったときとは違う目でこちらの顔を読んでいる。
「村の家が、商会へ断りにくくなる形にはしたくありません」
「参加は自由です」
「最初は」
ファルケが少しだけ目を細めた。
「なるほど」
「何年かして、商会から客が来るのが普通になったあとでも、自由に断れますか」
「契約上は」
「契約上ではなく」
そこで初めて、ファルケは即答せず、三枚目の紙の余白へ視線を落として指先で一度だけ机を叩いた。
「実際には、断れば客が減るでしょう」
「そこです」
七軒のうち一軒だけが忙しいからと断れば、商会は悪意がなくても、空いている別の六軒へ客を送るほうが簡単になる。
それが何度か続けば、断る家だけ客が減り、やがて「自由に断れる」という契約の文言と、実際に断れるかどうかが別のものになる。
商会が意地悪をしなくても、仕組みとしてそうなる。
「ですから、今日は決めません」
「承知しました」
今度の返事は最初より少し遅かった。
午後、ラルフが三つ目の話だけを村へ持っていくと、夕方には質問を抱えて戻ってきた。
「食事だけ断ってもいいなら助かるって」
「ほかは?」
「畑が忙しい日は泊められないって家が二軒」
「それも大丈夫です」
「値段は今のまま?」
「その予定です」
「親戚が来る日は?」
「出さなくていいそうです」
村側にも、町と毎回手紙を往復せずに済み、客が来る時刻も先に分かる利点はあるので、三枚目だけを危ない話として退ける理由もなかった。
だからこそ良い悪いを急いで決めず、村の家が断る場合の扱いまで管理局へ確認してから、ファルケには十日後にまた来てもらうことにした。
「返事がまだなら?」
「さらに待ちます」
「急がないんですね」
「こちらから急がせる話ではありません」
帰る前、ファルケは休憩室で冷たい水をもう一杯飲んだ。
今度は銀貨を出さなかったが、最初に一人分を払っているのでそれで合っている。
二人を見送って濃い色の上着を脱ぐと、机には同じ商会名の入った三枚の紙が残っていたが、一枚目は返事を減らす紙、二枚目は桶運びを減らす紙、三枚目だけは村の家の選び方まで変えるかもしれない紙に見えた。
紙の端を揃えていると、窓の外では足湯から上がった客が冷たい水を飲み、空になった椀をもう一度桶のほうへ向けていた。
樋ができれば運ぶ桶は要らなくなるが、水そのものをどこまで使えるかは、まだ別の話だった。
「三つとも、単独なら良い話ですね」
オットーが言った。
「単独なら」
「はい」
それ以上は続けず、わたしも三枚目だけ別の場所へ置いた。
領地管理局へ送る照会書を封じていると、巡回帰りのヨナス様が足湯へ寄り、机の三枚へ一度だけ視線を止めた。
こちらも説明はせず、そのまま深い側へ向かう背中を見送った。
夕方、ボリスが外から紙を一枚持って入ってきた。
「水、出たぞ」
「三度とも測れましたか」
「ああ」
紙の一番下を指で叩いた。
「一日で、桶百十六杯分だ」
数字を見ると、ボリスは先に続けた。
「ただし、全部取ったらだ」
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