流動性リスク
「クレオパトラだ」
画眉鳥の派手な歌を聴いて、主人は嬉しそうに微笑む。どこで知ったのか、主人はとうとう声の主に辿り着いた。目の周りの「画眉」の部分だろう白い縁取りが、主人にとっては「クレオパトラ」らしい。疑問が解消されて何より。
主人はいつものごとく、僕に誰にも喋れないことを打ち明ける。
「どうしよっかな。本当はドル、こっちの証券会社に移したいんだけど。対人って苦手」
「わん」
困ったね。人間界でちゃんとやっていけるか心配になってくるよ。
でも分かるかも。その証券会社からの電話で、めちゃくちゃ投資信託勧められてたもんね。
「ドルのまま移せればいいのに。いや、移せるけど、手数料がなー。いっそのこと、ドルで下ろして旅行とか。うっわ、どんだけ手数料取られるんだろ。怖っ」
「わん」
僕を置いて海外旅行はダメだよ。
主人が今、古い対人の証券会社に置きっぱなしにしているドル。それは昔、まだネットで海外の国債が買えなかったころ、高い手数料を払ってわざわざ円から変えたもの。今はネットで安く円をドルに替えて米国債を買える時代。だけど、古の口座からドルを引き出すには、また高い手数料を払って円に戻さなきゃいけない。それが癪なんだね。110円以下で買ったドル。今は150円以上だけど、この先分かんないもんね。
「はー」
溜息まで。時代が変わったんだから仕方ないって。潔く、円に戻して引き出しな。
なぜ今、主人が悩んでいるか。それは、今、米国債が大安売りだから。国債は、その国の先が危ないと思われれば思われるほど安くなる。
主人は最近、最悪の予想ばっかしてる。株価大暴落、世界恐慌、ブラックスワン、ドル離れ、アメリカ経済の沈没、資本主義崩壊、米国債デフォルト、ドルの終焉、日本円ハイパーインフレ。さらには、第三次世界大戦、食糧不足。食料供給困難事態対策法ってのができたときから、主人は日本の参戦を怖がってる。
「ロシアがウクライナに侵攻するなんて、絶対にあり得ないって思ってた。でもあった」
「わん」
僕は主人が元気になるよう、立ち上がって肩を叩く。
どさっ
「うわ。政宗くん」
急に僕からのしかかられた主人はバランスを崩して倒れる。次はれろんえろん顔を舐めてあげた。
「もういい。やめて、降参。あははは」
過去の続きに現在があって、現在が未来へ続いてるとしても、考えるのやめなよ。人間って大変だね。
5月と言えば、母の日。その母の日を何日か過ぎたころ、電話があった。
「お母さん? 元気? なに?」
主人ママだった。主人ママには会ったことがない。新幹線と在来線とバス2本を乗り継いでやっと到着する遠い場所に住んでいる。主人は主人ママのことを気にかけているし、主人ママは主人のことをとても心配している。
「元気やよ。仕事はどお?」
主人は「仕事」という言葉を聞くと、姿勢を正す。収入はあるけれど、世間一般が仕事とみなすことをしていないから。
「ぼちぼち」
「こんな時間に家にいるの? コロナ終わって、もう、在宅勤務はとっくになくなったのに」
主人は瞼を重くし、目を細めた。分かるよ。抜き打ち検査された気分だね。
「そーゆー仕事なの」
「ふーん。どんな?」
「パソコン使う」
「そうなの。今の人は分からんねー」
どうやら乗り切ったらしい。嘘をつかずにイイネ。主人はソファに深く腰掛けた。
「で、何? 元気確認?」
「ああ。あのね」
スマホの通話は全て聞こえる。主人ママはそこで言葉を一旦止めた。
「……」
「……」
「……」
不自然な沈黙があった。
「言わなあかんと思いながら、言い出せなくて」
「……」
主人の背筋が再び伸びる。どころか、今度は前屈みになっている。
「もう私、年取ったから……」
ああ、なんて悲しそうな顔。眉の形が情けなくなって口が半開き。きっと主人は、最悪のことを考えてる。
「お母さん、どうしたの?」
「……もう」
「もう?」
「母の日のカーネーション、やめてもらえる?」
「は?」
主人の目がまんまるになった。
「カーネーションってね、多年草なの。あれね、何年も咲くの。夏は涼しいとこに置かなきゃダメで、でも日当たりは要るんや。冬はあったかくしなあかん。私ね、植木鉢を何個もあっちへ動かしたりこっちへ動かしたりして。しかも暑い日と寒い日に。もうメンドク、じゃなくて、もう年だから」
メンドクサイって言いかける主人ママ。
「何年も? そんなにもつの?」
「うん。古いので枯れたのもあるけど、今、10個ぐらいある」
「そーなんや」
「株分けしてわっさわさに増えたのもあって」
主人は「株」という言葉にびくっと肩を揺らす。
「分かった。じゃ、来年は別のにする」
「せっかく送ってくれるのに、悪いね。こんなこと言って」
「ううん。ぜんぜん。よかった」
「え?」
「なにごとかと思った」
「なんで?」
「いーのいーの。来年、何がいい?」
「フィナンシェかプリン」
「OK」
通話終了。
主人はほっとしてる。僕は笑いが止まらない。主人の植物の面倒見の良さは、親譲りだったんだね。
ただ、ちょっと気の毒。仕事してないってことが主人のコンプレックスだから。株式市場が15時30分に閉まっても、平日は18時以降にしか出歩かない。ドッグランだって平日の方が空いているのに、仕事をしてるふりをして、わざわざ休日に行く。「今日はお仕事、お休みですか?」なんて訊かれないように、注意深く行動してる。
僕? 僕は仕事してるよ。24時間体制の自宅警備。それに、主人を、毎朝ランニングさせて、夜ウオーキングさせる専属トレーナー。ほっとくと人と喋る機会すらない主人のために、会話のきっかけ作り。それから、主人はかなりのペシミストだからさ、メンタルケアも。
僕は「人間を育てる」って、すっごく重要な仕事をしてるんだよ。
「わんわんわん」
主人、元気出して。なにごとも、深刻に考えすぎないほうがいいって。
ぴぴょぴぴょぴぴょぴゅーいぴゅーぴゅーい
僕の声に画眉鳥がハモる。オペラ歌手のように高らかに。ほら、あれくらい堂々とすればいいんだよ。鳥も犬も人も、それぞれなんだから。




