表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あるじのかんさつ  作者: summer_afternoon


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/7

令和のブラックマンデー


 レース編みみたいになったブラン・ピエール・ドゥ・ロンサールの葉っぱに、主人は大量の殺虫剤を噴射する。その周りだけ、雨が降った後みたいにぽたぽたと化学物質の水滴が葉っぱを伝って落ちていく。かけ過ぎだよ。可憐に咲き誇っていた花はそろそろ終わりを迎えるころ。同時に虫の最盛期が始まる。


 朝のランニングが僕にとってハードな季節になってきた。最近の朝のランニング時間は5時台。


 田んぼに水が張られ、田植えが始まった。シオカラトンボが卵を産みに飛んでくる。


 夏が始まるね。僕はさ、一昨年、とても怖い夏を見たんだ。株を持ってる人にとって背筋が凍るホラー。


 あのときのことを話そう。令和のブラックマンデー。


 一昨年8月1日木曜日。主人はパソコンの前に座ってイスを回していた。何してんのかなーって思いながらも僕はエアコンの風が1番ばっちりな場所で、おヘソを天井にして寝てた。


 主人は歩き回ったり、水を飲んだり、落ち着きがない。始終眉間に皺を寄せ、視線を天井にやって、時々爪を噛む。株取引の時間が終わっても、まだ「先物が」とかって何かを気にしていた。大損でもしたのかな。それだったら、僕に泣きついていろいろ喋ると思うんだけど。


 8月2日金曜日、いつもだったらおやつの時間までパソコンに張り付いている主人は、めずらしく、午前10時に緑色の画面のパソコンを閉じた。これは、お日様が西から昇るくらい不可解なこと。


「政宗くん、おでかけしよ」


 ええっ。夏だよ。僕、ダブルコートで防寒対策ありまくりの長毛種、もっふもふのラフコリーだよ。熱中症で死ぬよ。ただでさえ、仕事人カモフラージュで平日昼間に出歩かない主人が、どーして猛暑日の真っ昼間におでかけするわけ。@_@


 首を傾げながら車に乗り込む。車はどんどん街を離れていった。高速道路、車の中では熱いジャズが流れ、主人はトランペットのフレーズを音楽に合わせてハミングする。楽しいのかな? 山の方へ向かってるよね。いったいどこへ行くつもりなんだろ。高速を降りた場所はまだ街。それでも道路は細くなっているし、山が近い。


 僕は家を出る前のパソコンの画面を思い出す。緑だった。一面の緑。ヒートマップ(株価の上下を視覚的に矩形と色で表したもの)。あの緑色は、前の日よりも株価が下がってるってこと。主人のポートフォリオの画面だったとしたら、破滅的な状況。いつもだったら赤い部分が少しくらいあるもんね。


 向かっているのは山。あのパソコンの画面みたいな緑色が多くなってきた。まさか、僕を道連れに心中……。聞いたことある。「買いは家まで、売りは命まで」って。はて、どういう意味だっけ??? でも「命」が! とにかく、主人は尋常じゃない。もし、どこかから飛び降りようとしたら止めよう。ロープを持ち出したら、首吊りにいい感じの木には近づかせちゃいけない。練炭を持ってきたら、


 くんくんくん


 練炭はないな。とにかく、絶対に……


「政宗くん、ドライブスルーあるよ」

「わんわんわん!」


 ベーコンエッグバーガーのベーコンとパテ抜き、それとポテトは塩抜きで。あれ? 何考えてたんだっけ。


 ちょっと食事をして、ご機嫌になったところで、到着したのは山間(やまあい)にある沢だった。おおーっ。風が涼しい。水、冷たい。延長するリードにチェンジして、いっぱい遊んだ。びっしゃびしゃになった。主人と一緒に毛と服を乾かして、かき氷を食べた。


 はっ! まさか。この世の最期の思い出作りだっりして。ちょっとどきどきしていると、車に乗り込んだ主人はスマホを取り出す。


「今回の、いつものと違う。はー。昨日、下がったから1個買ってみたけど、今日、また下がっちゃって。売った。今、もっと下がってる」

「わん」


 せっかく遊びにきたんだから、スマホ見ないで。


「海外投資家が円から逃げてるかも」


 大人気だもんね、安い円。昨日木曜日に日経平均が下がったのは日銀が利上げしますって言ったから。


 海外投資家は円を借りてドルを買い、レバレッジをかけて巨額の取引をする。主な資金はアメリカ市場のIT関連株に流れていた。


 巨額取引のために大金を借りるとき、利率が低い方が安く済む。だから、他の通貨じゃなく、金利が0に近い円だった。これが円キャリートレード。


 ところが、円の金利が上がっては、話が違ってくる。予定外にお金かかって困るんだけどってことで、海外投資家が円を返そうとする。円キャリートレードの逆が起こる。海外投資家は持っていた株を売ってドルにしてドルを円に変える。円を返してバイバイ。──これが主人が言ってる「円から逃げる」。


 その夜、僕は疲れて爆睡した。土曜、主人はスーパーで買い出しをした。お留守番のご褒美は鶏のトサカ。日曜、朝5時からドッグラン。家に帰ると、主人は1日中パソコンに張り付いて、企業の業績を調べていた。いつもだったら夕ご飯を食べる時間になっても、僕にドッグフードを用意しただけ。寝る時間になったころ、食パンを齧りながら、ノートにいっぱい何かを書いていた。


 月曜日、朝8時、主人は言った。


「今日は下がる」


 9時20分。


「すごい。でも、なんか、今回、怖くない。コロナんときとは違う」


 主人は、暴落を人一倍恐れているくせに、実は暴落を待っている。淡々と、株を買い始めた。ノートには様々な株がリストアップされていた。銘柄、株価、どこまで下がったら買うか、何株買うか。いつもみたいに「政宗くん、買ったよ」の報告をせず、ひたすら黙々と実行し、ノートにチェックをつける。お昼、コーヒーを飲んで食パンを齧り、ノートに目を走らせる。午後、また淡々と株を買い続けた。


 僕はただ、その不気味な背中を眺めた。


 15時、終了すると、主人はノートになにやら書き、そのノートを閉じることすら忘れてソファに横になって眠った。ずーっと起きなかった。疲れたんだね。


 ノートの最終行には、「日経平均:31,458.42円( -4,451.28円 -12.4%)」と書かれていた。


 主人が目覚めたのは、夜21時ごろ。カーテンは開けたまま。電気が点いていない真っ暗な部屋で亡霊みたいに半身を起こして、大きなため息を1つ。両手で顔を覆ってから、その手で髪を後までなでつけた。僕は大人しく待ってたよ。だって、こんなことは初めてだったから。部屋が暗いことよりも、主人がいつもと違うことが怖い。


「ああっ、政宗くん、ごめん」


 大慌てで僕に夕ご飯をくれた。主人は僕をいっぱい撫でて、「ごめん」を繰り返す。いいから、自分も食べなよ。ここんとこ、酷い食生活だったよ。ほぼ食パンしか食べてないよね。冷蔵庫を開けて、手でローストビーフをつまんでる姿は見たかな。人間としてかなり終わってるよ。


 主人は次の日、買った株の半分を利確した。暑苦しくも、僕の首にぎゅっとしがみつく。


「政宗くーん、明日から、もう1段下がったら、おやつがなくなるかも。そしたらごめん」


 あ、いつもの主人に戻った。

 


 僕は、夏になると、主人が変になった数日間を思い出してしまうんだ。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ