特別損失
暑い。ブラン・ピエール・ドゥ・ロンサールが咲き乱れ、主人は花柄摘みに忙しい。僕も付き合って芝生の上から主人を監督しているけれど、最近、暑いんだよね。
花が咲き終わると散り始める。主人は、1枚の花びらも落としたくないらしく、せっせせっせと開き切った花をハサミで切り、ついでに芋虫も取る。1000個以上花が咲くから、毎日大変そう。先日雨が降って、たくさんの花がダメになった。雨水が花びらの間に入ると、花が寿命を迎える前に、雨が残った花びらが茶色くなってしまう。主人は残念そうに、1輪ずつ丁寧に切り取っていく。
「わん」
「あ、こんなところにも。政宗くん、ありがと」
ときどき摘み残しを教えてあげないとね。主人は上ばかり見て、下の方にあまり気づかないんだ。
「政宗くん、ヨーロッパの株って、かっこよくない?」
「……」
出た。この中身のない感じ。主人は基本トレンド好き。SNSで誰かが発信していたのかもしれない。
「結構調べたんだよね。でも、今の証券会社では買えなくて」
「……」
やめときな。そんなに手を広げなくてもいいと思うよ。日本株、米国株、日本国債、米国債、インゴット。もう何目指してるのか、僕には分かんないよ。ちょっと前はステーブルコインのこと調べてたよね。トークンとかも。その前は仮想通貨。FXも調べたことがありそう。
僕は、部屋の本棚コーナーのラインナップを横目で見る。
「ヨーロッパって気高いイメージない? 全て最強みたいな」
「わん」
ない。全てではない。たぶん。断じて。
「時代はAIなんだろーけど、もう半導体も電力も空調も注目された後じゃん。一旦、そーゆーのから外れて老舗を狙うってのはどうかな?」
「わん」
やめとけ。
主人は株の話を僕としかできないから、受け止めてあげなきゃって思う。だけど、それは方向性に問題があると思うよ。知らんけど。
「動画に入ってくるブランドのCMとかさ、スタイリッシュな家電とかさ、人口が激増してる国に侵出してる食品会社とか」
いつも、利益率がどーの、売上がどーの言ってる割に「かっこいい」に弱い。謎。
その夜、眠っていたら蚊が音だけで存在を主張してきた。いらいらいらいらいらいら。気になって、目が覚めた。食ってやる。二度と音が出ないように瞬殺してやる。
暗闇の中、僕が耳を澄ましていると、蚊の音は主人の方へ行った。食ってやる。
音を頼りに蚊に近づき……音が止んだ。あ、いる。主人のほっぺに。けれど安眠妨害をすれば、怒られること必須。僕は見守るしかなかった。ふー。
「うわっ」
急に主人が飛び起きる。あ、ごめん。鼻息が顔にかかっちゃった。
「なに。もう」
ご立腹。ごめんて。
主人は、夜中にふと目覚めたときムーブを発動し、アメリカの株をチェックする。あれ? ほっぺ、痒くないの?
「あ! なんか、変」
なになになに。なんかあった?
主人はベッドから飛び起きて、パソコンのある部屋へ行った。起動。高速でキーボードを操作する。表示されたのは、いきなり垂直に落ちているグラフ。うっわ。ここまで鮮やかなのって久しぶりだね。ストップ安がないアメリカの株ってエグい。
姿勢を正した主人はパソコンで何やら入力し、やたら調べ始めた。
「決算発表、忘れてた。うっわ。売上は増えてんのに、なんで利益がこんなに減ってんの。トータル・アザー・インカム・エクスペンス・ネットがすっごいマイナス。ああ、アメリカ版、特損。営業外でここまでマイナス……」
どうも、会社が投資してた別の会社が大幅にコケたらしい。保有株評価損という特別損失(特損)発生。
「政宗くん、起こしてくれてありがと。でも、これはホールドかな」
ホールドってのは、持ったまま売らないってこと。
主人は円グラフを表示した。それはとっても有名企業。現在大きく分けて2つの事業をしている。元々の事業とIT分野。円グラフから分かる。売上高は、元々:IT分野が4:1。利益は、元々:IT分野が2:3。IT分野って利益率高いんだよね。
売上高は伸びてる。特にIT分野。利益もバリバリ。
ただ、それだけじゃなかった。利益の下の方に、別のIT企業への投資がマイナスで書かれている。投資先の株価が暴落した負の資産(評価損)が計上されている。これにより、本業の黒字が吹っ飛んで最終的な利益は赤字になった。流石に、今まで絶好調だった巨大企業の最終赤字は、株主にとってセンセーショナル。
「これ、まだ下がるかな。世界中に株主がいるから」
そっか、時差。今寝てる人も、朝起きて知ったら、大慌てで売るかもしれないもんね。
「まだ第1四半期。今年の決算んときにもクるかも」
ああ、1年間のまとめを発表するときにどーんと下がっちゃうって? でも売らないの? 今売って、どーんと下がったときに買えばいいのに。
プ〜ン
蚊。あれ? 音が消えた。
ばしっ
「きゃん」
痛い。主人が、主人が、ぶった。僕、何にもしてないのにぃぃぃ。
「仕留めた。悪かったって、蚊。ほら、政宗くんの血、いっぱい吸ってる」
主人が見せてくれた掌には、潰れた蚊と血がついていた。ぽりぽりと主人は無意識に頬を引っ掻く。
「あ、食われてる」
やっと気づいたね。遅いよ。
朝、バラや芝生に水を撒きながら主人が話しかけてくる。
「やっぱ、ヨーロッパの株、やめとく。もっとしっかり寝た方がいっか」
「わん」
僕もそう思う。今でさえ、アメリカの市場が気になって夜中に起きてるのに、これにヨーロッパが加わったら、いつぐっすり寝るの? 画面の向こうの数字なんて、一寸先は闇なのに。ちゃんと足元を見た方がいいよ。
「わんわん」
ほら、下の方に咲き終わったバラが残ってる。世話がやけるんだから。
「あ、こんなところに。ありがと、政宗くん」
明日、この庭のバラがどうなっているか、ローソクみたいなグラフがどっちに行くか、そんなことは誰にも分からないけれど、とりあえず今朝の主人の足元は、僕がしっかり見守ってあげなきゃね。
(これは、昔々にあった世界的有名企業がモデルです。1年のまとめの決算までずるずる下落して、結局半分の価格になり、株価が戻るのには2年かかりました)




