機会損失
青白い月が綺麗な夜、主人は懐中電灯を持ってパトロールする。南東の白い外壁につたうブラン・ピエール・ドゥ・ロンサールは人気者。その生まれたての芽や蕾を目当てに夜行性の害虫がいっぱい寄ってきて、むしゃむしゃ食べ漁っていく。だから夜な夜な、主人は必殺仕事人になって害虫を蹴散らしている。
歯磨きと夜の散歩はとっくに終わって、僕は芝生の上でうつらうつらしていた。
「政宗くーん、終わった。寝よ」
やっと家の中に入って眠った。のに。午前3時、主人の声で目が覚めた。
「ふざけんな」
びっくりしたー。隣を見てみれば、主人は布団から半身を起こしてスマホを見ている。僕は掛け布団の中に入るのが許されていないから、体の下の掛け布団が主人にぐいっとひっぱられてしまう。
「くっ。PTSも終わってる」
主人の独り言を聞かされる。朝にしてくんないかな。今、何時だと思ってんの。僕は無理やりぎゅっと目を閉じた。
こういったことはときどきある。主人はアメリカの株にも手を染めている。アメリカの株式市場は日本時間の夜中に動くから。
主人曰く、米国企業のパソコンやスマホを使い、米国企業のOSで、米国企業のインフラを享受し、米国企業の通販で買い物をする現代、その株を持たない選択肢はないらしい。でもって、米国株の値動きは激しい。主人は夜中にふと目が覚めるとスマホで米国株をチェックする。どこかの株価が、どーんと下がったんだろう。
ん? 待てよ。「PTS」ってことは夜間取引をしたかったってこと。PTSは日本株だけ。日本株はアメリカの株式市場の影響を受けまくる。アメリカがくしゃみをすると日本は風邪を引く。それでかな? でもまあ、リーマンショックとか世界恐慌みたいなのは100年に1度くらいだから、寝よ。
早朝ランニングのときも、主人はちょっとイライラして見えた。「政宗くん、いい子」の回数がいつもより激減している。
8時。主人はパソコンの前に座って唸った。そしていつものごとく、僕の首に腕を回してしがみついてきた。
「政宗くーん。神様だからってなんでも言っていいと思う? 神様だったら発言を控えるべきじゃん。ああ、でも、日本株がばーんと上がってるのは、神様の力が大きいんだっけ」
なんだか泣きが入ってる。誰もが崇め奉る投資の神様を、主人はあまり好きではないみたい。以前も言っていた。
『商社株って、業績の振れ幅があるせいか、安く放置されてたんだけど。神様が買ったせいでいきなり爆上がりして、手ぇ出しにくくなっちゃった』
とか、
『上がってっからいーけど、デイトレは無理め。もし下がっても配当いいから、前はそのまま放置できたのにさ』
とか、
『上がっちゃったからしょーがない。配当利回りは低くなったね』
とか、
『ま、関係ないか。昔から持ってるのは』
とか。配当利回りというのは、現在の株価の何%が配当ですよという数字。主人は何年も前の安い時に買ったまま放置しているから、現在の配当利回りという数字は関係ない。ごたごた言ってはいたけれど、今回ほど悔しがってはいなかった。いったい何があった?
パソコンに表示されているのは、最近1ヶ月間、ずっと主人がやたら調べていた株だった。戦争が起こったらどうなるのか、破綻する危険はないのか、海外企業に吸収される可能性はあるのか、などなど、湾岸戦争とかってころのデータまで調べていた。
『エリートな会社って、何やってんのか、エリート過ぎて凡人には分からん。けど、そこまで賢い人らの会社だから、やっぱ明日買お』
それが昨日、16時ごろに聞いた言葉だった。僕は『わん』って返事をした。
主人はしばしば、石橋を叩いて叩いて叩き割る。今回、株式市場が始まる前の注文の状況が分かる板を見て、石橋が粉砕されてしまったことを知った。昨日の値段よりも20%ほど高い値段の位置に「買いたい」って数字がひしめき合っている。
理由は、昨晩、神様が「この会社をいっぱい買ったよ」と言ったから。神様は投資の世界の有名人らしい。
僕は、哀愁に満ちた主人の背中を眺めた。主人はキーボードを叩くことすらしなかった。戦線離脱。昨晩、僕に決意表明したというのに。
ずーっとパソコンを眺め、ときどきぽつりぽつりと言葉を漏らす。
「あ”ー、これ、始まっても値段つかないやつだ」
「あらま。まだ」
「後場も無理かも」
後場ってゆーのは、お昼休みの後の株式市場のこと。不思議だよね。取引所は機械が制御してるし、最近は証券会社側もアルゴリズム取引ってので自動売買してるらしいのに、なんでお昼休みが要るんだろ。システムにはご飯の時間なんて関係なさそうだけど。
「ヤッバ。政宗くん、ストップ高だよ」
日本の株には1日の値動きの制限がある。ストップ高とは、MAXの値段がついちゃったってこと。
「どーしよ。明日は今日よりは下がるかも。それでもこの先上がるよね。まだまだ上がる。買おっかな。どーしよ。政宗くんだったら、どーする?」
「くーん」
僕に訊かないで。
「一旦は上がる。1年後はどーなんだろ」
「くーん」
そんな長いスパンを考えないで、ささっと明日買って、上がったときに売ればいいだけじゃん。今、日経平均爆上がってるときだよ? でもって神様の発言で追い風吹いてる株だから上がるって。そんなぐじぐじ考えてるから買いそびれたんでしょ?
「やめた!」
主人は、損したときよりも儲けを逃したときの方が何倍も悔しそう。
もう忘れなよ。いつもと同じように夜の散歩してさ、薔薇のパトロールしてさ、いっぱい寝なよ。朝までノンストップでぐっすりと。僕にとっての主人は神様くらい大事なんだからさ。




