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デミトリウス東方異聞録6

藤堂家を後にしたデミトリウスは、次の目的地である久世道胤の居所へと向かった。

 阿曽沼信辰から渡された資料によれば、道胤は人里離れた山奥に暮らしているという。かつては名の知れた陰陽師だったが、今ではその姿を見た者すらほとんどいないらしい。

 山へ入って半刻ほど歩いたところで、デミトリウスは足を止めた。

 道の脇に、奇妙なものがいた。

 小さな人影が木の枝に腰掛け、こちらを見下ろしている。人間の子供ほどの大きさだが、顔には目も鼻もなく、白い紙のような面があるだけだった。


「式神か」


 デミトリウスが声をかけると、人影は首を傾げた。


「主人に伝えてくれるかな。デミトリウスが来た、と」


 式神は枝から飛び降り、木々の間へ姿を消した。

 デミトリウスはその後を追おうとしたが、数歩進んだところで立ち止まった。

 先ほどまで続いていた山道が、いつの間にか途切れていた。

 目の前には木々が密集し、その間に人が通れるほどの隙間すらない。


「なるほど。結界か」


 デミトリウスは周囲を見渡した。

 巧妙な術だった。道を隠しているだけではなく、侵入者が目的地へ近づけないよう空間そのものに干渉している。


「人間を拒む仕組みとは、なかなか徹底しているね」


 しばらくすると、木々の間から先ほどの式神が現れた。

 その背後で、閉ざされていたはずの道が開いていく。

 木々が動いたわけではない。

 最初からそこに道が存在していたかのように、景色が変わったのだ。


「通してくれるのかい?」


 式神は返事をせず、山の奥へ歩き始めた。

 デミトリウスは微笑み、その後に続いた。

     

 山道を抜けた先には、小さな庵があった。

 周囲には人の手が加えられた形跡がほとんどなく、庵の前には澄んだ水が流れている。

 式神が戸の前で止まると、中から声がした。


「入られよ」


 デミトリウスが戸を開けると、一人の男が座していた。

 色白の肌に、整った中性的な顔立ち。切れ長の目には灰色の瞳が収まっていた。若い男にも見えるが、その表情には年齢を推し量れない落ち着きがある。声を聞かなければ、男女の区別さえつきにくい容貌だった。

 久世道胤。

 秘術によって老いを止めたという男は、デミトリウスを見ても驚いた様子を見せなかった。


「久世道胤殿かな?」


「いかにも」


 道胤はデミトリウスを見た。


「よく来られた。デミトリウス殿」


「私の名をご存じとは。式神が伝えたのかな?」


「いや。貴殿が今日ここを訪れることは、既に承知しておった」


「ほう」


「奇門遁甲という術をご存じか?」


「ああ。方位や時刻を用いて吉凶を読み解く術だったかな」


「そのようなものだ」


 道胤は目を細めた。


「もっとも、何者が訪れるかまで知ることは滅多にない。貴殿はなかなか興味深い」


「それは光栄だ」


 デミトリウスは勧められるまま、道胤の向かいに腰を下ろした。


「それにしても、ずいぶん厳重な結界だね」


「人間が入れぬようにしておる」


「人嫌いなのかい?」


「煩わしいだけよ。長く生きておると、俗世のことなどどうでもよくなる」


「それは少しわかる気がするね」


 道胤はデミトリウスを見つめた。


「貴殿は、そうは見えぬがな」


「そうかな?」


「俗世を捨てた者が、わざわざこのような山奥まで来るまい」


 デミトリウスは笑った。


「確かにそのとおりだ。では、用件を話そう」


 デミトリウスは阿曽沼信辰からの書状を取り出した。


「百鬼夜行の討伐に協力してもらいたい」


「百鬼夜行か」


 道胤は書状に目を向けようともしなかった。


「ご存じだったかな?」


「知らぬわけではない。だが、興味はない」


「このままでは江田が滅び、やがて日本全土が妖怪に呑まれるそうだ」


「そうか」


 道胤の表情は変わらなかった。


「それで?」


「それで、とは?」


「わしに何の関係がある?」


 デミトリウスは道胤を見た。


「この国が滅びても構わないと?」


「構わぬ。人が滅びようと、国が変わろうと、わしには関係のないことだ」


「なるほど」


 デミトリウスは頷いた。


「随分と割り切っているね」


「貴殿も長く生きておるのだろう? 国が生まれ、滅びる様など幾度も見てきたはずだ」


「ああ。そうだね」


「ならば、わかるであろう。百年も経てば、今あるものの大半は失われる。わしがそれを一つ一つ気にかけてどうする」


 道胤は淡々と語った。

 そこには人間への憎悪も、滅亡を望む悪意もなかった。

 ただ、長い年月のうちに世俗への関心を失った男がいるだけだった。


「では、協力は期待できないかな?」


「そう急ぐな」


 道胤は初めて笑みを浮かべた。


「百鬼夜行には興味がない。だが、貴殿にはある」


「私に?」


「うむ」


 道胤は身を乗り出した。


「貴殿は、一体何者なのだ?」


「見てのとおり、ただの旅人だよ」


「そのような戯言はよい」


 道胤は小さく笑った。


「実を言えば、貴殿が来ると知ったとき、鬼か物怪の類であろうと思っておった」


「それはまた、随分な見立てだね」


「わしのもとを訪れる者など、とうに絶えて久しい。それが突然、奇門遁甲に現れたのだ。人ならざる者でも来るのかと思ったわ」


「期待外れだったかな?」


「いや、むしろ逆よ」


 道胤は灰色の瞳を細めた。


「わしの結界を前にして少しも驚かず、奇門遁甲を知り、わしが生きてきた年月を聞いても興味を示さぬ。こうして話してみれば、鬼や物怪よりもよほど不可解だ」


「珍しいことではないと思うがね」


「わしにとっては珍しいのだ」


 道胤はデミトリウスから目を離さなかった。


「これまで幾人もの術者や賢者に会ってきた。だが、貴殿のような者には会ったことがない」

「それは、互いにまだ何も知らないからではないかな」


「だからこそ、知りたいのよ」


 道胤は笑った。


「貴殿と話してみたい。これまで何を見て、何を考え、何を得て、何を失ったのか」


 デミトリウスは黙って聞いていた。


「わしには時間がある。世俗の争いに費やすには惜しいが、貴殿との対話になら使ってもよい」


「つまり、協力の条件ということかな?」


「そのとおり」


 道胤は頷いた。


「百鬼夜行の討伐に加わろう。その代わり、貴殿の時間をもらいたい」


「どれほど?」


「さてな。一晩や二晩では足りまい」


 道胤はデミトリウスを見た。


「貴殿を理解するまで、と言いたいところだが」


「それでは、いつ終わるかわからないね」


「そういうことだ」


 二人は顔を見合わせた。

 デミトリウスは少し考えた後、口を開いた。


「いいだろう。百鬼夜行の討伐に成功したら、君の望むだけ話に付き合おう」


「ほう?」


「五十年でも百年でも構わないよ。ただ私が興味ある者と旅をしているので、それが

 終ってからでもいいかい?」


 道胤は目を見開いた。

 やがて、声を上げて笑い始めた。


「はははは! これは面白い!」


 久しく聞くことのなかったような笑い声が、静かな庵に響いた。


「五十年、百年ときたか。普通の人間ならば、冗談にも口にせぬ約束だぞ」


「君も普通の人間ではないのだろう?」


「違いない」


 道胤は満足そうに頷いた。


「よかろう。その約束、確かに受け取った」


「では、交渉成立だね」


「ああ。ただし、忘れるでないぞ。その旅が終われば、貴殿の時間はわしのものだ」


「承知しているよ」


 デミトリウスは立ち上がった。


「出立の時期は追って知らせよう。準備を頼む」


「準備など大して要らぬ。使いを寄越せばよい」


「わかった」


「一つだけ聞いておこう」


「何だい?」


「貴殿は、どれほど生きておる?」


「八百年は超えているかな」


 道胤はしばらく黙っていた。

 やがて、口元を緩めた。


「八百年か……」


「長く生きただけだよ」


「それが、どれほど貴重なことか」


 道胤は静かに笑った。


「ますます楽しみになったわ」


 デミトリウスは一礼し、庵を後にした。

   

 山を下る道には、もはや結界の気配はなかった。

 式神も姿を消している。

 デミトリウスは歩きながら、先ほどの道胤の言葉を思い返していた。

 百鬼夜行にも、国の滅亡にも興味がない。

 それでいて、自分との対話のためなら命懸けの戦いに加わるという。

 長い年月を生きた末に、あの男が求めるものは知識でも力でもなく、同じように時を重ねた者との対話なのだろう。

 デミトリウスは小さく笑った。


「五十年か百年か……。案外、退屈せずに済むかもしれないね」


 藤堂美津麿に続き、久世道胤の協力も得られた。

 残るは一人。

 葦名景綱。

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