デミトリウス東方異聞録7
かつて二刀を自在に操り、数多の敵を斬り伏せた葦名景綱も、七十歳となった今は病床から起き上がることさえできなくなっていた。病は容赦なく身体を蝕み、二振りの刀は床の間に置かれたままである。意識だけは昔と変わらず明瞭で、それがかえって景綱を苦しめていた。
そんな老剣豪のもとを、一人の異国人が訪ねてきた。
「私はデミトリウス。阿曽沼信辰の依頼で来た。百鬼夜行の討伐に協力してもらいたくてね」
「信辰か。あやつ、ワシの病を知らんのか」
「少なくとも君の剣技は高く評価していたよ。相当な腕前だと聞いている」
「昔の話じゃ。それで、他にも声を掛けておるのか?」
「藤堂美津麿と久世道胤だ。二人とも了承している。準備が整えば知らせが来ることになっているよ」
「藤堂美津麿……」
景綱の表情がわずかに明るくなった。
「懐かしい名じゃ。あやつ、まだ元気にしておるのか?」
「いや、君の知る藤堂美津麿は既に亡くなっている。今は娘が十五代目を継いでいるよ」
「……そうか。逝ってしもうたか」
景綱は目を伏せた。二十七年前、四十三歳だった自分が密かに心を寄せた女。その想いを一度も告げられぬまま、長い年月が過ぎていた。
「そうだ。二人の姿を見せよう」
デミトリウスが片手を掲げると、空中に淡い光が集まり、やがて二人の人物が浮かび上がった。一人は弓を携えた若い女、もう一人は色白で灰色の瞳を持つ、中性的な顔立ちの人物だった。
「こちらが十五代目藤堂美津麿。そして久世道胤だ」
景綱は女の姿を見た途端、息を呑んだ。
「なんと……瓜二つではないか」
「母親によく似ているそうだ。まだ二十三歳だよ」
「二十三……あの頃の美津麿と同じ歳か」
景綱は幻影から目を離せなかった。懐かしい面影がそこにある。しかし、その眼差しは自分の知らない女のものだった。
「立派になったものじゃ……」
やがて景綱が頷くと、デミトリウスは幻影を消した。
「さて、君のことだが、実際に会ってみて分かったよ。藤堂と久世は戦えるが、今の君には無理だろう」
「随分とはっきり申すものじゃな」
「事実だからね。無理を言っても仕方がない」
景綱は笑おうとしたが、途中で苦しそうに息をついた。百鬼夜行どころか、今や一人の敵と対峙することさえ叶わない。
「分かっておる。ワシはこのまま病で死ぬ。それくらいの覚悟はとうにできておる」
「そうか」
「だがな、デミトリウス。戦場で命を落とすことは幾度も考えたが、刀を握れぬまま死ぬことになるとは思わなんだ」
景綱は床の間の二刀に目を向けた。
「七十にもなって、未練がましいものじゃな」
「そうかな。君はそれだけ剣に人生を費やしてきたということだろう」
デミトリウスは立ち上がった。
「信辰には事情を伝えておこう。残念だが、今回は二人で何とかしてもらうよ」
「すまぬな。わざわざ足を運ばせた」
「構わないさ。では、失礼する」
デミトリウスが去った後も、景綱は魔法で見せられた二人の姿を思い返していた。若き藤堂美津麿、そして久世道胤。いずれも百鬼夜行との戦いに加わるという。三人の英傑として名を挙げられながら、自分だけが取り残された。その事実が胸の奥に重くのしかかっていた。
「随分と悔しそうだな」
不意に声がした。景綱が目を向けると、見知らぬ人物が立っていた。
「何者じゃ。いつからそこにおった?」
「常世幻斎。お前に興味があってな。藤堂美津麿と久世道胤、あの二人が羨ましいのだろう?」
「馬鹿なことを申すな」
「二十三の小娘は母親の名を継ぎ、陰陽師は三百年も生きているという。二人にはまだ先がある。お前には何が残っている?」
「黙れ!」
景綱は思わず身を起こそうとした。しかし病に侵された身体は応えず、苦しげな呼吸だけが残った。
「……妬ましいわ。二人にはまだ戦う機会がある。己の力を試し、勝ちも負けも味わえる。ワシにはそれすら許されぬ」
「ならば聞こう。もう一度剣を握って、何をしたい?」
景綱は答えに詰まった。倒したい敵も、守るべき領地もない。名声なら十分に得た。それでも、病床で死を待つことだけは耐えられなかった。
「ワシはまだ、己の剣の果てを見ておらぬ。どこまで強くなれるのか、何を斬れるのか。それを確かめたいのじゃ」
「つまり、お前は死ぬのが怖いのではない。今の自分が許せぬのだな」
景綱は口を閉ざした。幻斎の言葉は、長く抱えていた焦燥を正確に言い当てていた。
「二人が戦場に立つというのに、ワシだけが病床で朽ちてゆく。そんな終わり方をするために、七十年も剣を振ってきたわけではない!」
「ならば、その身体を取り戻す道を示そう。ただし、百鬼夜行に加わってもらう」
景綱の顔が険しくなった。
「妖怪どもの側につけと申すか。それでは美津麿とも敵対するではないか」
「怖気づいたか?」
「違う! あの娘は、ワシがかつて想いを寄せた女の忘れ形見じゃ。そう簡単に割り切れるものか」
幻斎はそれ以上説得しなかった。景綱は沈黙の中で床の間の二刀を見つめた。かつて愛した女への思慕は残っている。しかし、娘は自ら戦う道を選び、今も前へ進んでいる。それを羨むばかりの自分が、ひどく惨めだった。
「……一つ聞く。再び剣を握れたとして、昔のように戦えるのか?」
「お前が望むのは、それだけか?」
景綱はしばらく考え、首を横に振った。
「いや。昔のワシに戻るだけでは足りぬ。あの頃よりも、もっと強くなりたいのじゃ」
「よかろう。だが、その望みを選べば後戻りはできぬぞ」
景綱は二刀から目を離さなかった。信辰への義理も、美津麿への思慕も、消えたわけではない。それでも、このまま人生を終えることだけは受け入れられなかった。
「構わぬ。ワシをもう一度、戦場へ連れてゆけ」
幻斎は静かに笑った。
「その言葉を待っていた」
景綱はようやく床の間から視線を外した。病床に伏して以来、明日が来ることを望んだのは、これが初めてだった。




